[1000]鎌倉仏教のなぞを解く その3

田中進二郎 投稿日:2012/06/30 07:02

鎌倉仏教の謎を解く 第三回       (重たい掲示板990,999の続き)
重たい掲示板1000回に到達です。記念すべき第1000回を書かせていただき光栄です。
「ふじむら掲示板」に藤村甲子園さんが吉本隆明「最後の親鸞」を読んで、という記事を書かれているのを、私は今日拝読しました。

実は巻末の最晩年の親鸞のところが難解で、一回読んだだけでは吉本氏の結論がつかめなかったので、藤村さんの記事は大変参考になりました。感謝します。吉本氏はやはりマルキストなので、親鸞の思想は宗教の存在意義の否定だということが書かれていて、難しく考えすぎていた私にとって示唆に富んでいました。確かに吉本氏の「真贋」(しんがん)という本にも、「浄土真宗は実体としての浄土がないということをはっきりいっている点で、宗教を否定するところに成立した宗教である。」ときちんと書いてありました。

あの本の最後の章は言葉こそ「即自的」、とか「対自的」という言葉は使われていないけれど、ヘーゲルの弁証法を駆使していると思います。ヘーゲルの論理学を読んでいるようで、これは抜け出られなくなるぞ、投げ捨てないと、と私は思いました。ヘーゲル左派のフォイエルバッハが「ヘーゲル批判」の中で「論理学は一回読んだら捨てろ、でないと堂々めぐりでヘーゲル学者になって一生終わるぞ」と書いているのを読んだ記憶を思い出しました。「最後の親鸞」もそういう構造になっていると。

ところで実際に吉本隆明のいうように、「実体としての浄土はない」と浄土真宗では教えているか、というと答えは否であろう。800年も昔から浄土真宗のお坊さんは「南無阿弥陀仏を唱えれば阿弥陀仏に救いとられる」と教えてきただろう。一方、吉本氏も「浄土真宗が無神論である」ということを述べているのではない。

ここからは私の考えであるけれども、法然と親鸞の悪人正機説(あくにんしょうきせつ)には質的な違いがある。法然の悪人正機説は、いかなる衆生の罪悪も阿弥陀佛の慈悲によって救われるという「許し」を前提として、専修念仏によって往生を遂げるという教えである。これはわかりやすいと思われる。だから法然の念仏と、穢れたものとされた女人の念仏とに一切の区別はない、みな同じと、法然は力説した。法然の念仏は晩年になるにつれて激しい行となっていった。けれども、門人には誰であれ自分ができるだけの念仏でよい(易行道)をといていた。法然は仏教の厳格な戒律も決して破らなかった。だから聖人カリスマである。慈円も法然に近いタイプだったろう。

一方の親鸞は歎異抄で「いづれの行も及び難き身なれば、地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし」と言った。自分のことを凡夫といい、また愚禿親鸞と名乗った。1204年後鳥羽院のもとで出された、法然一門の念仏停止(ちょうじ)と京都追放令(承元の法難)で親鸞は越後国に流される。が、これを機として、あるいは奇貨としてというべきか、自ら非僧非俗であるといい始める。自分は悪を背負う人間である、と。

親鸞の悪人正機の場合は、親鸞自身の悪の自覚によって、往生を遂げることが可能となる。
「自分が一番ワルである。自分が一番弱い。だが阿弥陀如来は救ってくださる。よって心配ない、あなたがた皆も救われる。」
というわけである。だから親鸞の存在と、その神話化が浄土真宗にとっては決定的に重要になっていくのです。私は義経伝説との類縁性まで感じます。義経は弱い、というだけですが、親鸞は悪人でしかも弱いカリスマなのです。

また越後配流後の親鸞はイエスと似ている、と吉本氏も言っています。けれどももちろん罪悪といっても文化的な働きが全然違います。これだけを言ってもあまりピンとこないですよね?
これは日本文化の独特の形式と関連していると思いますので
2つほど面白い例をあげたいと思います。が今日はこの辺でいったん終わりにさせていただきます。 
田中進二郎拝