柿本人麿とは何者か、2

守谷 健二 投稿日:2024/11/14 13:44

 人麿の活躍した七世紀後半とはどんな時代だったのか。

 倭国の朝鮮半島出兵(661年八月~663年八月)は白村江の決戦(663年八月)で壊滅的敗北を喫した。丸二年に亘り三万もの大軍を海外に派兵して大敗北に終わったのである。

(旧唐書・劉仁軌伝より)

仁軌倭兵と白江の口で遇う、四度戦いこれに勝った。倭船四百艘を焼く。炎煙は天に漲り、海水は真っ赤に染まった。賊衆は大潰し、(百済王)余豊はどこかに行方不明になったが、百済国の宝剣を得ることが出来た。偽王子の余忠勝・忠志等士女及び倭衆耽羅の国使を率いて一時に投降した。百済諸城は皆帰順した。

 

 まるで赤壁の戦いを思わせる。白江の口に集結していた倭の水軍に、陸上には新羅の大軍が待ち構え、水上から唐の水軍が火攻めを掛けたのである。挟み撃ちであった。このような戦いが軽微な損害で終わるはずがない。壊滅的大敗北であった。二年の歳月を費やし、三万もの大軍をつぎ込んだ戦が大敗北に終わったのであった。

 これが本国の王朝に響かなかったはずがない。戦争に積極的な氏族だけではなかった。反対していた氏族もいたのである。この戦争は、百済を援ける為のものではない、百済と新羅は、倭(筑紫王朝)の属国であった。

(隋書・倭国伝より)

・・・阿蘇山あり。その石、故なくして火起り天に接する、人はこれを異となし、因って礼祭を行う。如意宝珠あり、その色青く、大きさ鶏卵の如く、夜は即ち光在り、いうこれを魚の眼精であると。

 新羅・百済、皆倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬仰し、恒に通使往来する。

 

651年(白雉二年是歳)、属国であった新羅が、宗主国を倭国から唐王朝に代えた事件が在ったのだ。倭王朝は即座に新羅討伐の決断を下していた。

(日本書紀・孝徳天皇・白雉二年より)

是歳、新羅の貢調使、唐の国の服を着て筑紫に泊(とま)れり。朝廷恣(ほし)きままに俗移せることを悪(にく)みて、責めて追い返し給う。時に巨勢大臣、奏上して「今新羅を伐ちたまわずは、後に必ず悔いることになりましょう。・・・」

 実際に新羅討伐を断行したのは661年で、それから十年もかかっている。派兵に反対の氏族も居たし、何よりも大和王朝(日本国)の存在があった。大和王朝の協力なしには危険で海外派兵などできなかった。倭的王朝の朝鮮派兵は大きな危険を抱えていたのである。相手は中国統一王朝の唐であった。

 倭軍の壊滅は本国王朝に深刻な亀裂を齎していた。派兵に積極であった勢力は追い詰められていた。その勢力の中心に居たのが大海人皇子・後の天武天皇であった。三万もの兵が帰らぬ人と為っていた。国民の怒りは大きく、その矛先は派兵の中心であった大海人皇子たちに向かっていた、筑紫に居るのは危険であった。大海人皇子は大和王朝の中大兄皇子(天智天皇)に援けを求めたのである。

それが大海人皇子(天武天皇)が大和王朝(近江朝)に居た理由である。

この朝鮮出兵、その敗戦が日本古代の最大の事件である。その結果、それまで日本列島を代表していた倭国(筑紫王朝)は分裂し、大和王朝にその地位を譲ることになった。

667年(天智七年)の天智天皇の即位は、天智天皇が日本統一王者に即位したことを意味したのである。

(続く)