宇佐神宮と伊勢神宮の正確に西に王宮(御所)があった その1

ジョー(下條竜夫) 投稿日:2026/09/05 09:10

ジョー(下條竜夫)です。今日は2026年9月5日です。

本来、ここではなく別の掲示板に投稿したほうが良いかもしれませんが、非常に重要だとおもう内容なので、この「重たい掲示板」に投稿します。夏休み後の気晴らしと思って興味があったら読んで下さい。内容はまったくのオリジナルです。

さて、私は、3年前に書いた『物理学者があきらかにする邪馬台国の謎』という本で、邪馬台国の場所を大宰府、そして卑弥呼の王宮(御所)があった場所を太宰府天満宮の裏にある竈門(かまど)神社と推測した。

さて、この竈門神社は宇佐神宮という神社と面白い位置関係にある。これを、最近、発見した。それを、今日、報告したいと思います。

それは、竈門神社の正確に東に宇佐神宮があるということです。宇佐神宮の正確に西に竈門神社があると言いかえてもいい。

今、グーグルマップで調べてよう。竈門神社の緯度は百分率で33.52896659327789度、一方、宇佐神宮の緯度は33.52360105554703度である。緯度34度では1mが0.0000090153度であるから、これを使うと、ずれは(33.52896659327789-33.52360105554703)/0.0000090153= 595 m となる。竈門神社がわずかに北にある。2つの神社はおよそ76.5 kmも離れているが、ずれ、わずか600 mで東西に位置することなる。ほぼ正確に東西に位置するといっていいだろう。

偶然とは思えない。意図して正確に東西に配置したものであろう。多分、卑弥呼が住んでいる王宮の東に測量してつくったのが宇佐神宮だと思う。

この事実で、私の中では、邪馬台国は竈門神社のある大宰府に決定である。なぜなら、『物理学者があきらかにする邪馬台国の謎』の中では、邪馬台国の場所の考察には一切この事実をつかっていなかった、あとから2つの神社のこの位置関係を発見したからだ。こんな偶然があるとはどうしても思えない。

なお、宇佐神宮と邪馬台国がどういうつながりがあるかは、『物理学者があきらかにする邪馬台国の謎』に詳しく書いたので興味のある方は参考にしてほしい。

さて、邪馬台国が大宰府だとすると西暦200年ごろの倭国の全体像があきらかになる。魏志倭人伝の文には二十一国が邪馬台国の南側にあったと書かれている。したがって、竈門神社の南側、宝満川、筑紫川の二つの川沿いに、この二十一国はあったのだろう。

<引用開始>

邪馬台国の次には斯馬国が有り、その次に巳百支国、次に伊邪国、次に都支国、次に弥奴国、次に好古都国、次に不呼国、次に姐奴国、次に対蘇国、次に蘇奴国、次に呼邑国、次に華奴蘇奴国、次に鬼国、次に為吾国、次に鬼奴国、次に邪馬国、次に躬臣国、次に巴利国、次に支惟国、次に烏奴国、次に奴国などの国々がある。この奴国が女王の国の境域の果てである。この国境の南に狗奴(くな)国という部族国家があるが、邪馬台国とは違って、男の王が国を治めており、上位の役人に狗国奴古智卑狗(くこちひこ)というのがいる。この狗奴(くな)国は女王の国に隷属していない。

(魏志倭人伝より引用)

<引用終了>

最後にでてきた狗奴(くな)国が、邪馬台国と争った国である。狗奴は実は球磨(くま)で今の熊本、狗国奴古智卑狗(くこちひこ)は菊池彦(きくちひこ)で熊本県北部の菊池にその名前が残っている。したがって女王国(=倭国)の南端の奴国と狗奴国の北端が接していることになる。

重要なのは、有名な吉野ヶ里は倭国のキープレーヤーではあるが、邪馬台国ではない。上の二十一国のどれかであろう。

さて、ここで話題を変えよう。

今、竈門神社と宇佐神宮の位置関係と同じことを、伊勢神宮でやってみよう。伊勢神宮は天皇ゆかりの神社であることは有名であり、伊勢神宮の西には奈良がある。したがって奈良で、伊勢神宮の正確に西にあるのは、いったいどこなのだろうか?

実はそれは甘樫丘(あまかしのおか)である。甘樫丘といえば、蘇我氏の邸宅があったところである。

甘樫丘(奈良県観光公式サイトから)

今、蘇我蝦夷旧邸宅跡地とあるところの緯度をグーグルマップで測定すると 34.476224198224784度、伊勢神宮の外宮は34.48729458395939度、(34.48729458395939-34.47973733462918)/0.0000090153 = 838 m で離れているが、ずれ840mでほぼ東西に位置する。ちなみに伊勢神宮には内宮もあるが、その西に京や宮に相当するものはない。

副島先生は、甘樫丘に「みかど(宮門)」があることに注目した。そして、甘樫丘は王宮(御所)=御門(みかど)だったと指摘している。

<引用開始>

副島 甘樫丘(あまかしのおか)というのがありましてね。100メートルぐらいぐるっと回って上に上がれるんですよ。低い丘。そこが本当の大和朝廷なんですよ。その下におりていったところに飛鳥川という小さな川が流れて、向こうが飛鳥寺なんですね。下で実務をやっていたんですね。その上の丘、ここから見渡して、持統天皇(じとうてんのう、645-703年、58歳で死 在位:690-697年)が「衣ほすてふ天の香具山」とうたった。だから大和朝廷はそこなんですよ。そこに板蓋宮(いたぶきのみや)など、たくさんあった。20年置きぐらいに建物がぼろぼろになって、建てかえますからね。それがいわゆるアスガでね、奈良に移っていく前まではずっとそこなんですよ。

(ぼやき明智憲三郎氏との対談より引用)

<引用終了>

私も、この意見に賛成だ。つまり、ここに蘇我氏が王だったころ、甘樫丘に王宮(御所)があり、正確にその東に伊勢神宮をつくった、これが伊勢神宮外宮ということになる。

つまり、伊勢神宮をつくったのは蘇我氏ということになる。

多分、飛鳥宮を天武天皇、持統天皇がつくったときに新しく伊勢神宮に内宮をつくったのだと思う。どちらも南西、つまり甘樫丘の南西に飛鳥宮が、伊勢神宮外宮の南西に内宮が位置する。ただし、先ほどのような東西の正確さは飛鳥宮と内宮にはない。

以下、その2に続く

下條竜夫拝