宇佐神宮と伊勢神宮の正確に西に王宮(御所)があった その2

ジョー(下條竜夫) 投稿日:2026/09/07 17:11

ジョー(下條竜夫)です。今日は2026年9月7日です。

前回は、伊勢神宮と甘樫丘の位置関係、つまりふたつは正確に東西に位置するということについて述べた。

さて、蘇我氏全盛の時代、隋書から、「アメ(アマ)タリシヒコ」という男の王が倭国にいたことがわかっている。だから、「天(アマ)」という王家があって、蘇我氏は、天(アマ)という王家の一族であった、と推測できる。

土地の名前や呼び名もそれを裏付けている。甘樫丘というのは、本当は「天(アマ)が住んでいた丘」か「天(アマ)が死んだ丘」ということばだと思う。天武天皇がこの甘樫丘に住んでいたという新聞記事を見たことがあるが、天武天皇=大海人皇子=「王天(おうアマ)の皇子」ということだろう。

実は15年前にこの掲示板に「アマタリシヒコとは蘇我馬子のことである」と内容でこの「重たい掲示板」に投稿したことがある。この中で「アマという王家があったのかもしれない」と書いたが、やっとここまでたどり着くことができた。

さて、崇仏派の蘇我氏がなぜ、伊勢神宮をつくったのか?これは、このアマという王家=蘇我氏がどこから来たのかと関係している。私は彼らは北魏から来た鮮卑系の華僑だと思う。つまりモンゴル人である。こう書くとトンでも論に見えるが、きちんと様々な事実が残っている。ただし、公式には、すなわち歴史書では、北魏と倭の関係は見つからないので、倭は南宋とだけ国交があったとされている。

さて、以下は私の推測です。興味のある人は読んでください。

北魏は534年、西魏と東魏に分裂した。北魏が分裂した東魏の末裔が倭にきたときに、「漢化政策」と似た「和(倭)化政策」をとったのだろうというのが、私の考えだ。漢化政策とは、北魏で鮮卑系の人々が中国風の名前や様式を取り入れたことをいう。だから、もう一回、この漢化政策と同じことをした、つまり「和化政策」(私の造語である)で和風様式を取り入れた。

まず、中国風の北魏の皇帝の姓である「元(その前は拓跋)」を、「元」に似た漢字「天」に変え、それに「アマ」という呼び名を和風につけた。

有力貴族も名を変えた。それが大和(やまと)にすむ「すが」「へぐり」「あや」「わに」などの有力豪族だろう。彼らの中には漢民族もいたが、「東漢(やまとのあやうじ)」、「西漢(かわちのあやうじ)」と同じく名前を和風に変えた。

宮廷(御所)の東に神社(伊勢神宮)をつくったのも、この和化政策のひとつだろう。倭の伝統にしたがったということだ。

ちなみに、他にもいろいろ北魏の影響が残っている。例えば、明日香村にある飛鳥仏。これは北魏系の仏像と言われる。また、奈良の都といえば平城京であるが、じつはこの「平城」は北魏の都の名前である。また源氏物語の「源氏」があるが、これは北魏の皇帝が帝位につくことがなかったという次男に与えた苗字である。

さらに、聖徳太子とされるアマタリシヒコが、隋の煬帝に宛てた親書の冒頭部分がある。あの有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々」である。この文は、多分、昔の親書の冒頭を引用している。北魏は西魏と東魏に分裂していが、隋というのは宇文泰以下のこの西魏の系統である。一方、東魏は550年に滅亡している。ということは、この文は東魏の末裔が、西魏の末裔に対してあてた親書に思える。

東魏最後の宰相、高歓は息子の高洋が皇帝になることで諡号をもらっているが、その諡号が、なんと、「神武」皇帝である。つまり、東魏最後の皇帝が「神武」であり、日本の最初の天皇は「神武」天皇であり、ここでつながっている。

さらに、中国語「大和」を勝手に「やまと」と読んだのだろうという副島先生の指摘がある。実は、大和というのは「太和」という中国語と同じで、北魏では、この太和は孝文帝という帝の治世の時に使われた元号である。477年から499年まで使われた。北魏が最も繁栄した頃だった。そして、その途中の494年に洛陽に遷都しているが、その遷都する前の都の名前がさきほどの「平城」、つまり平城京である。

真人(まひと)ということばが、ものすごく重要だ。これは本来は拓跋氏の系統という意味である。天武天皇には瀛真人という諡号がある。

以上です。ご付き合いいただきありがとうございます。

下條竜夫拝

参考文献『中華を生んだ遊牧民 鮮卑拓跋の歴史 (講談社選書メチエ 785)』