『隋書』倭国伝の倭国は筑紫王朝である
「源氏物語は藤原道長の人生そのものだ第2回」を読ませていただきました。
隋書の記す倭国は近畿大和王朝ではありません。九州の筑紫王朝です。中国の正史で大和王朝が日本の代表王朝になるのは、八世紀初頭(703年、大宝三年)の粟田真人の遣唐使の記事からです。
日本では『旧唐書』を徹底的に無視し、『唐書』と云えば1060年に成立した『新唐書』を指しました。『旧唐書』は、唐末の混乱、その後の短期王朝の乱立で史料に欠落が多く不完全な史書であるとされ、(北)宋と云う本格的な王朝の成立で唐代の埋もれた資料が多く発掘され故に、より完成され信頼に足る史書として作られたのが『新唐書』であると言われている。また『新唐書』編集責任者の一人は、欧陽脩と云うビッグネームであった事も『新唐書』を重視し『旧唐書』を軽視した理由かもしれない。
おそらく亀井勝一郎、和辻哲郎、唐木順三などの戦前の教養で育った先生方は『旧唐書』の内容など全く知らないのです。
中国の歴史小説を多く書いた陳舜臣さんは唐代の歴史小説を書くため『旧唐書』と『新唐書』を調べたのです。その結果、『新唐書』の方があまりにも誤りが多いことを発見したのです。陳舜臣さんも戦前の教養で育った方ですから、後で作られた『新唐書』の方が優れた史書であると信じていました。それが裏切られて「どうして後で作られた方が杜撰なのだ」と慨嘆しておられました。
日本では平安時代から第二次世界大戦の敗戦まで『旧唐書』を徹底的に無視して来たのです。その理由は『旧唐書』は日本記事を「倭国伝」と「日本国伝」の併記で作っています。七世紀半ば(663年白村江の戦)まで倭国記事で作り、703年の粟田真人の遣唐使の記事で日本国伝を始めている。
それに対し『新唐書』は『日本書紀』の書く天御中主神を祖に持つ「万世一系」の天皇の系図と同じものとして「日本国伝」を作っている。皇統の断絶はなかった、王朝の交代など起きなかったと云う歴史です。『旧唐書』を無視し、『新唐書』を唯一正統な「正史」と扱ってきたのは当然でした。日本の天皇制にこれほど都合の良いものはなかったのです。
しかし中国では『新唐書』の成立当初からこれに対する評価は厳しかったのです。『新唐書』の成立直後に制作を開始した司馬光の責任編集の『資治通鑑』は、唐代の記事を『新唐書』に依らずに『旧唐書』を基に作っている。また考証学が盛んになった清代でも『旧唐書』の方が『新唐書』より正確で信頼性が高いと評価されている。
日本の歴史学者が『旧唐書』を公開するようになったのは第二次大戦の後だ。それも渋々いやいやである。『旧唐書』の倭国伝と日本国伝の併記は編者たちの「みっともない勘違いによる誤り」と解説に付け加えることを忘れない。
隋の役人裴世清は、大和王朝には来ていない。