『日本史』は、どのようにして創られたのか.3
中国(宋朝)は、日本認識を変えた。
西暦945年に成立した『旧唐書』と、983年成立した『太平御覧』の日本認識では、「倭国(筑紫王朝)」と「日本国(大和王朝)」は別王朝で(661~663年)朝鮮半島で唐・新羅連合と戦ったのは倭国であると『旧唐書』は明記する。
七世紀後半まで日本を代表していたのは倭国(筑紫王朝)であった。
日本国(大和王朝)が日本代表王者として登場するのは八世紀初頭(703年)粟田真人の遣唐使の記事からだ。
これに対し1060年に成立した『新唐書』は、日本の天皇は「天御中主」を祖に持ち、血統の絶えることなく舒明天皇(在位629~641)・皇極天皇(642~645)まで連綿と日本を支配してきた。日本には王朝の交代など無かったと云う『日本書紀』の「万世一系」の歴史で書いている。
『旧唐書』と『新唐書』の日本認識は違うのである。何が中国(宋朝)の認識を変えさせたのだ。何が起きたと云うのだ。
中国文明の特徴の一つは、司馬遷の『史記』を文学の最高峰と崇め尊敬しているように、歴史記述(史書)を大事にする事にある。通常では、前出の記述を変えることなど行わない。よほどの確かな新しい史実でも発見されない限り、前述の記事を変えることは許されない。
983年の『太平御覧』の成立から1060年の『新唐書』の成立まで間に、そのような新事実が発見されたのだろうか。
『新唐書』が日本の歴史を「万世一系」の天皇史観で書いたのは、984年中国を訪れた日本の東大寺僧・奝然(ちょうねん)が持って行った「王年代記」による。
***雍熙元年(984)、日本国の僧奝然、その徒五、六人と海に浮かんで至り、銅器十余事ならびに本国の『職員令』・『王年代記』各一巻を献ず。***『宋史』日本伝より
***太宗、奝然を召見し、これを存撫すること甚だ厚く紫衣を賜い、太平興国寺に館せしむ。
上、その国王は一姓継を伝え、臣下も皆官を世々にすると聞き、因って歎息して宰相にいっていわく、「これ島夷のみ。乃ち世祚遐久(代々の位が遥に久しい)にして、その臣も継襲して絶えず。これけだし古の道なり。***『宋史』日本伝
しかし、これだけのことで日本に対する記述を変えたのだろうか、過去の歴史書の記述がそんなにも安っぽいものなのか。
中国の史官たちは、日本の王朝が「万世一系」史観を主張していることは十分に承知していた。天武天皇の命で編纂された『日本書紀』の歴史は「万世一系」である。これは703年(大宝三年)の粟田真人の遣唐使以来、毎回日本の遣唐使の主張する事であった。遣唐使の最大の使命は、唐朝(中国)に『日本書紀』の歴史を認めさせることであった。日本の執拗な働きかけに対しても中国の史官達は、首を縦に振らなかったのである。何故なら、それは真実ではないから。
では何故宋朝は、日本の王朝の言い分に同意したのであろうか。次回はそれを検討する。