『日本史』は、どのようにして創られたのか・4

守谷 健二 投稿日:2023/11/17 12:03

中国(宋朝)は何故日本認識を変えたのか

 

前回、宋朝が日本の歴史認識を変えた事を指摘した。983年に編纂された『太平御覧』は『旧唐書』を踏襲して、倭国(筑紫王朝)と日本国(大和王朝)は別王朝であり、七世紀後半に日本の代表王朝は倭国から日本国に代わったとの認識に立っていた。

ところが1060年に撰上された『新唐書』では、日本の王朝は天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を祖に持ち今の天皇まで絶えることなく日本を統治して来たとする『日本書』の述べる「万世一系」の歴史を持つと書く。

『旧唐書』と『新唐書』の日本認識は全く異なっている。『旧唐書』の史料を残した記録官達も、日本が「万世一系の天皇」の歴史を主張していたことは知っていた。

703年の粟田真人の遣唐使以降、彼等の最大の使命は、中国(唐朝)に『日本書紀』の歴史を認めてもらうことであった。

 

***日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいは云う、倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるいは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。その人、入朝するする者、多く自ら矜大(誇り高く堂々としていること)、実を以て対(こた)えず。故に中国是を疑う。***『旧唐書』日本国伝より。

『旧唐書』日本国伝は、703年の粟田真人の遣唐使の記事で始まる。これ以前は「倭国伝」である。

1060年に成立した『新唐書』以前は、『旧唐書』の認識が通用していたのである。

中国は記録の国である。史書を何よりも尊重し尊敬する。それが中国文明の一大特徴である。前出の史書の記事を軽々に書き換えることなどあり得ない事である。

しかし『新唐書』は、日本記事を書き換えている。983年から1060年の間に、いったい何が起きたのだろう。

日本国の東大寺の僧・奝然(ちょうねん)が宋朝を訪れたのは、984年であった。

 

***雍熙元年(984)、日本国の僧奝然、その徒五、六人と海に浮かんで至り、銅器十余事ならびに本国の『職員令』・『王年代記』各一巻を献ず。***『宋史』日本伝より

この『王年代記』に触発されて『新唐書』日本国伝は作られた。

不思議なことは、奝然が中国に着くや早々に宋の皇帝に謁見を許されていることです。皇帝への謁見がそんなにも容易なことだったのだろうか。奝然は名声の確立した高僧ではなかった、東大寺の一学僧にすぎない、日本国の公式の使者でもない。そんな者に何故皇帝への謁見が許されたのだろうか。

謁見が許された鍵は、奝然が持って行った「銅器十余事」にあったのではないか。

『日本歴史年表』(歴史学研究会編・岩波書店)がある、これは年表と銘打っているが、四百ページにも及ぶ大部なもので、現在日本にある年表で最も詳細で信頼がおける。

この年表の982年の項に「陸奥国に宋人に給する答金を貢上させる記事がある。これではないのか、奝然が持って行った「銅器十余事」の中身は。

奝然は、帰国後、988年に弟子の嘉因を宋朝に派遣している。それに持たせた貢上品は、金銀細工、水晶、螺鈿細工など平安朝工芸の粋の品多数と豪華なもので、とても一介の僧に用意できるものではなかった。(宋書・日本伝より)

奝然は、平安王朝の密命を帯びて宋朝を訪れたに違いないのである。『旧唐書』の成立は945年である。当時民間貿易は活発になっていた、『旧唐書』は、間もなく日本に齎されたろう。平安王朝はそれを見て驚愕し愕然としたに違いない。

大変な思いをし何度も遣唐使を派遣し、阿部仲麻呂など優秀な人材を唐朝に仕えさせ、日本の歴史を『日本書紀』のものに変えてくれるよう必死に働けかけをしたのに『旧唐書』は依然として元のままであった。

平安王朝の日本支配の正統性は『日本書紀』の記す「万世一系」にあった。何が何でも『旧唐書』の記事を覆さねばならなかったのです。

マルコポーロの『東方見聞録』の証言、ジパング(日本)は、黄金の満ちている国である。

少年の日、この事を聞いて不思議でしょうがなかった。どこにそんな根拠があると云うのか。またフビライハンの日本に対する異常な執着(二度に亘る元寇の襲来)、フビライも日本は黄金の満ちている国と信じていたらしい。マルコポーロは、フビライの王朝に仕えていた。

マルコポーロたちが、日本を黄金の満ちている国と信じた根拠は、奝然が運んで行った黄金にあったのではないか。奝然らは、『旧唐書』の書き直しを頼んだのではなかったか。それが完成した暁にはさらなる黄金のお礼をしますと約束して。