『古事記』の役割2、稗田阿礼の正体
守谷健二です。令和6年9月23日
稗田阿礼は、正五位太安万侶(おおのやすまろ)の上位者である。
『古事記』序は、和銅五(712)年の正月に稗田阿礼の伝誦するところを太安万侶が書き記して撰上したと書いている。
(『古事記』序より引用)
時に舎人(とねり)ありき。姓は稗田、名は阿礼、年はこれ二十八。人と為り聡明にして、目に渡れば口に誦(よ)み、耳に触れば心に記しき。すなわち、阿礼に勅語して帝皇日継(すめらみことのひつぎ)及び先代旧辞を誦(よ)み習はしめたまひき。
然れども、時移り世変わりて、未だその事を行なひたまはざりき。・・・(引用終わり)
稗田阿礼をまるで語り部のように書いてありますが、天武天皇が命じた歴史編纂は、「壬申の乱」で天智天皇の長男・大友皇子を滅ぼして皇位を獲得した天武の行為を正統化する為のものです。古くからの伝承をそのまま描いたものではない、天智天皇と天武天皇の間で、歴史は大きく捻じ曲げられている。『日本書紀』に、天武は天智天皇の「同母の弟」と書き入れた事が、日本史の最大のペテン、インチキである。此のインチキを正統化する為に天武天皇の詔による修史事業は始められたのだ。
稗田阿礼が単なる語り部であったはずがない。歴史の創造者(クリエーター)である、記録係である太安万侶より下位であったはずがない。
太安万侶は正五位の民部卿であった、まぎれもなく政権の高官であった。彼よりも高位の者であったなら、必ずや歴史書などの文献に稗田阿礼は、名を残しているはずである。
しかし、稗田阿礼の名は、文献歴史書に一切見つけることが出来ない。稗田氏の人物は、奈良時代、平安時代の文献に誰一人見出すことが出来ないのだ。
本当に稗田氏など存在したのだろうか。
私は、稗田阿礼を号(ペンネーム)であったと考えている。稗(ひえ)の多く生えている荒れた田んぼの中の「阿礼(アレ)」指示代名詞(これ、それ、あれ)だろう。
つまり、案山子(かかし)の事である。案山子の述べることを正五位・民部卿の太安万侶が筆記した、と。
この稗田阿礼は、「壬申の乱」にも参加し、歴史(『日本書紀』)編纂事業で中核を担ってきた人物に違いない。
天武十(683)年に始まった歴史編纂は、大宝(701)元年には一応の完成を見ていた(原日本書紀と仮に名付ける)。文武天皇は、この歳に遣唐使(粟田真人)の派遣を決断している。
粟田真人の使命は、天武の王朝の歴史を唐朝に説明し、認めてもらうこと、天武の王朝の正統性の承認を得ることにあったのです。
しかし、(原日本書紀)では唐朝を納得させることが出来なかった。稗田阿礼たちは、(原日本書紀)の修正の必要を迫られたのです。
それで考えたのが、中国の最新の正史である『隋書』倭国伝を(それは本来筑紫王朝を書いた記事であるが)徹底的に書き換えて大和王朝の出来事として『日本書紀』の中に取り入れることであった。
その最大の問題は、倭国王は男であり、大和王朝の推古天皇が女性であったことだ。この為、推古天皇と対等、いやそれ以上の存在として作られたのが聖徳太子であった。聖徳太子に倭国王を投影したのである。聖徳太子の造影にはイエスキリストも取り入れられている。
当然聖徳太子の寺院である法隆寺は、筑紫から大和に移築されたのである。
『古事記』が和銅五(712)年に撰上されたのには、稗田阿礼の年齢が関係していると私は考える。「壬申の乱」(672年)から四十年が過ぎている。二十歳半ばで「壬申の乱」に参加したとして、もうすでに六十歳後半の年になっていた。当時の寿命を考えれば、「壬申の乱」の参加者のほとんどは死に絶えていただろう。稗田阿礼も死を強く意識したはずである。
『古事記』は遺言のつもりで書き残されたのではないか、『隋書』倭国伝を聖徳太子を主人公とする歴史に書き換えれ!と。(指示、命令の書として)
稗田阿礼は、天武の王朝(天武朝、持統朝、文武朝、元明朝)の中核に居た人物である。
稗田阿礼、「荒田の案山子」が民部卿(太安万侶)に筆写させたと、ユーモアとも、おふざけともと採れるほどの余裕を持った大物である。