柿本人麿とは何者か、1
守谷健二です、今回から何回になるか分からないが柿本人麿の事を書きます。
人麿は、改めて言うまでもなく日本最大の歌人です。しかしその素性・生涯は謎に包まれている。人々は言う、「伝記を持たない詩人」などと。
万葉集巻二223の題詞に
「柿本朝臣人麿、石見国に在りて臨死(みまか)らむとする時、自ら傷(いた)みて作る歌一首」
とある事から、人麿は地方の下級官吏であった、などと言われている。その歌は
鴨山の 岩根し枕(ま)ける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ
(訳)
鴨山の岩を枕にして横たわっている私を、わが妻はそうとも知らないで待ち続けているのでしょうか。
私が観たすべての注釈書は、人麿を宮廷歌人であったとか、地方の下級官吏であったなどと、中央官庁の重要人物とは見ていません。
しかし私は、人麿は持統朝(686~697)、文武朝(697~707)の中心に居た最重要人物であったと確信している。
人麿が謎に包まれているのは、自ら進んで韜晦(トウカイ・自ら地位、才能を隠す事)しているからだ。柿本人麿は、本名ではない、号(ペンネーム)である。
人麿の次の世代である山部赤人、大伴旅人、大伴坂上郎女などは、人麿の正体は知っていた、『万葉集』の最終的編者である大伴家持も人麿の正体を承知していた。万葉集の時代、人麿の素性は、秘密でも謎でもなんでもなかった、誰もが承知していた事である。それ故、誰もが問題にしなかったに過ぎない。
小生当年七十七歳に成った、目の衰えが激しい、長時間パソコンの前に居るのが苦痛になっている、急がずゆっくりと人麿論を進めてゆく所存である。ご寛容のほどを。
(つづく)