伊藤睦月氏に答える
守谷健二です
拙稿を読んでいただき感謝しております。その上批判までいただきうれしく思っています。
伊藤さんの私に対する疑念は、『(旧)唐書』は、663年の「白村江の戦」までを「倭国伝」で作り、703年の粟田真人の遣唐使の記事から「日本国伝」を始めている、と書いてある点だと思います。
しかしこの疑念は簡単に解消することが出来ます。『(旧)唐書』の劉仁軌伝に次の記事があります。
「仁軌、倭兵と白江の口に遭う、四戦して勝つ、倭の船四百艘は焼かれ、煙と炎は天に漲り、海面は真っ赤に染まった。***」
『(旧)唐書』は、倭国伝と日本国伝の併記で作っていますから、倭兵とあれば倭国記事と見做しただけです。
なお、劉仁軌伝には、665年の高宗が泰山で封禅を行った時、倭の国王を率いて参加した、との記事もあります。この時点では倭国には国王不在でした。
「列伝」の記事を倭国記事と見做して悪いのですか。悪いのでしたらその理由を教えてください。
宋初(983年)、太宗の勅命を受けて作られた『太平御覧』は、日本記事を『(旧)唐書』の認識を踏襲し、日本の代表王朝は倭王朝から日本王朝に代った、と書いている。
宋朝の学者たちも、『(旧)唐書』の認識を支持していたのである。
また、司馬光の編纂した『資治通鑑』(1084年完成)の唐代記事は、そのほとんどは『(旧)唐書』に依り、『(新)唐書(1060年成立)』をほとんど頼りにしていない。
『(新)唐書』は、成立当初から信頼性の劣る史書と見做されていたのである。
奝然は、普通だったら中国の皇帝に謁見できるはずがない。そんなことは誰にでも解ることだ。尋常でないことがあったのだ。尋常でない黄金を運んで行ったのだ。
これがマルコポーロの『東方見聞録』のジパング黄金伝説の元ネタになり、フビライハーンの日本に対する異常な執着(元寇)の原因となったのである。