二つの『唐書』

守谷 健二 投稿日:2024/03/01 14:11

正史『唐書』は二つある。西暦945年に作られた方を『旧唐書』と呼び、1060年に成立した方を『新唐書』と呼んでいる。両方とも勅命で作られたれっきとした「正史」です。

日本では『新唐書』の方を『唐書』と扱い、『旧唐書』を徹底的に無視してきました。しかし本場中国では『新唐書』には誤りが多く、捏造記事すら混じっているとして『旧唐書』の方が正確で信頼性が高いと云う評価が確立している。

では『旧唐書』と『新唐書』の最大の違いは何か、それは日本記事の扱いにあるのです。『旧唐書』は、日本記事を「倭国伝」と「日本国伝」の併記で作ります。七世紀の半ばまで日本を代表していたのは、九州筑紫を中心とする「倭王朝」で、八世紀初頭(粟田真人の遣唐使)から近畿大和を中心とする「日本国」の記事が始められています。

つまり七世紀の後半に日本を代表する王朝の交代(革命)があった、と云うのが『旧唐書』の見解です。

これに対し『新唐書』は、『日本書紀』の記す「万世一系」の天皇の歴史が日本の歴史であると書く。ここに天武天皇によって作られた『日本書紀』の歴史が初めて正統性を獲得したのです。これは日本の王朝にとって画期的な大事件でした。天皇制に都合の悪い『旧唐書』を全面的に隠蔽して無視する事が可能になったのです。

984年に成立した『太平御覧』は、『旧唐書』の見解を踏襲している。宋代の学者たちも日本には七世紀後半に王朝の交代(革命)があったと認識していたのです。それが如何して『新唐書』に成って「万世一系」の天皇の歴史を採用したのか。『太平御覧』が成立した984年から『新唐書』が出来た1060年の間に何があったのだろう。

『新唐書』が「万世一系」の天皇の歴史を採用したのは、984年宋朝を訪れた東大寺の僧・奝然(ちょうねん)が持って行った「王年代記」によると言われている。

『宋史』日本伝より

雍熙元年(984)、日本国の僧奝然、その徒五、六人と海に浮かんで至り、銅器十余事ならびに本国の『職員令』・『王年代記』各一巻を献ず。

 

『王年代記』は、天御中主の神を祖とし、第六十四代円融天皇に到る系図です。日本では国家開闢以来革命など無かった、とする『日本書紀』の歴史です。その歴史を『新唐書』になって初めて「中国正史」が採用したのである。

中国の史官たちが、日本の王朝が主張する「万世一系」の天皇の歴史を知らなかったのではない。703年の粟田真人の遣唐使以来、日本の王朝は「万世一系」の歴史を、日本国の公式の歴史として唐朝が認めてくれるよう働きかけを続けてきた。

『旧唐書』日本国伝より

日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいは云う、倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるいは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。その人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対(こた)えず。故に中国是(これ)を疑う。・・・

 

天武天皇が命じた歴史編纂は、703年(粟田真人の遣唐使)には、その原型が完成していたのです。当然「万世一系」の歴史です。しかしその歴史では唐朝を納得させることが出来なかった。

『太平御覧』の編者も『旧唐書』の見解を踏襲していた。それが如何して『新唐書』に成って日本の王朝の主張を受け入れることに成ったのだろう。

日本の僧奝然は、銅器十余事と『王年代記』『職員令』を献上したと『宋史』は記す。

奝然は、どうして中国に到達早々に皇帝に謁見する事を許されているのだろう。

奝然の持って行った銅器十余事とは一体何なのか。岩波書店の『日本歴史年表』の982年に、「陸奥国に宋人に給する答金を貢上させる」と云う記事がある。銅器十余事の中身には、この黄金が詰め込まれていたのではなかったか。