二つの『唐書』

守谷 健二 投稿日:2024/03/08 14:30

   守谷健二です。令和六年三月八日

  マルコ・ポーロの証言

正史『唐書』は二つある。945年に成立した方を『旧唐書』と呼び、1060年成立した方を『新唐書』と呼んでいる。

『旧唐書』の日本記事は、「倭国伝」と「日本国伝」の併記で作られ、『新唐書』の方は『日本書紀』の記す「万世一系」の天皇の歴史として作られている。

『旧唐書』では、日本では7世紀後半に王朝の交代(易姓革命)があったと認識している。

一方『新唐書』は日本国は開闢以来唯一日本国(大和王朝)だけが存在し革命など一度も起きた事はなかった、と書く。

984年に成立した『太平御覧』は『旧唐書』の見解を踏襲している。つまり宋朝の時代になっても中国の学者たちは、7世紀後半に日本には革命があったと認識していたのである。

その984年から、日本国には革命など無かったと書く『新唐書』の成立した1060年の間にいったい何が起こったのだろう。

 984年、東大寺の僧・奝然(ちょうねん)が、銅器十余事と「王年代記」・「職員令」を持って宋朝を訪れている。

不思議なことは奝然が中国に着くや、直ちに皇帝への謁見が赦されていることだ。

奝然の帰国後(988年)に弟子の嘉因を宋に派遣している。その嘉因の持参した献上品がものすごいのだ。平安王朝文化の粋を極めた品々が数多く持って行ったのである。

それを正史『宋史』は一つ一つ記載している。とても東大寺の僧に準備できる規模ではない。平安王朝の全面的な支えがなければ不可能である。

前回奝然の持参した銅器十余事には、陸奥国から採れた黄金が詰められていたと書いた、奝然の僧訪問は平安王朝の命令で行われたものだろう。『旧唐書』は、945年に成立していたのである、宋との民間貿易は活発になり宋の商人はしょっちゅ博多を訪れるようになっていた。『旧唐書』は既に平安王朝の下に届いていた筈である。

平安王朝は愕然としたに違いない。703年の粟田真人の遣唐使以来、『日本書紀』の記す「万世一系」の天皇の歴史を日本の公式のものと認めてくれるよう事あるごとに唐朝に働きかけてきた。その効果を期待していた。

それが踏みにじられたのである『旧唐書』によって。しかしそれを放っておく訳には行かなかった。「万世一系」の天皇の歴史こそが、この王朝の正統性を支える根拠である。平安王朝の支配者は覚悟を持って決意した。何が何でも『旧唐書』を葬るのだと。宋朝の研究も真剣に行われたに違いない。北方の遊牧民国家の侵攻に悩まされている事、遊牧民国家をなだめる為に毎年膨大な金銀、食料、美女などを支払わなければならないこと。このため宋朝の台所は常に火の車であることなどを。

平安王朝は、『旧唐書』に変わる『唐書』の完成の暁には、奝然・嘉因の持って行った数倍の金銀の献上をほのめかして新たな「正史」の編纂を頼んだのではなかったか。

マルコ・ポーロの『東方見聞録』に、ジパング(日本)は、黄金が溢れるように産出する国との記載がある。私はこの事を知った時不思議で仕方なかった。何を根拠にマルコ・ポーロはこんなことを書いたのか。

しかし、『新唐書』の成立事情を調べていく中で、984年に宋を訪ねた奝然の献上した黄金に根拠があった、と信ずるようになった。元の皇帝フビライの日本に対する異常な執着(二度に亘る元寇)も、奝然・嘉因の献上した金銀財宝に根拠があったのだろう。

『新唐書』が『旧唐書』に比べ杜撰でダメな『歴史書』なのは、宋の学者たちが真剣に、本気になれなかったからだ。当然の話である。

しかし、日本は中国正史の中に「万世一系」の天皇の歴史が正当性の根拠を獲得したのである。日本国内では『旧唐書』はないものとされた。それが二十世紀の第二次世界大戦の敗戦まで続いたのです。