『日本史』は、どのようにして創られたのか

守谷 健二 投稿日:2023/10/10 13:46

ご無沙汰いたしております、守谷健二です、相も変わらず日本史の話を書かせていただきます。

 

日本史の編纂では、712年(和銅五年)に書いたとの序文のある『古事記』と、720年(養老四年)に撰上された『日本書紀』の関係がよく話題になります。

 

『古事記』の方が『日本書紀』のダイジェスト版のような印象を与えるので、本当は『日本書紀』の方が先に成立していたのを、後に(平安時代)になってから『日本書紀』を基に『古事記』は書かれたのだとする『古事記偽書説』なるものも時々唱えられてきました。

私は、日本史の編纂に関しては、『古事記』と『日本書紀』の関係だけを見ていてはだめだと考えます。

何故なら、703年(大宝三年)の、粟田真人の遣唐使があるからです。粟田真人たちは、唐朝に対し日本の歴史の承認を求めていました。この遣唐使の使命は、日本の歴史(万世一系の天皇制)の承認を得ることです。

 

『旧唐書』より引用

 日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいは云う、倭国自らその名の雅なざるを悪(にく)み、改めて日本となす。あるいは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。その人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対(こた)えず。故に中国是を疑う。

引用終わり

 

粟田真人たちは、中国に累積されていた日本列島の歴史とは全く別の歴史を、堂々と悪びれることなく主張し、その承認を求めたと云うのです。

中国は『歴史の国』です。中国文明を支えている柱の一つは、歴史書に対する信頼にある。粟田真人たちの主張する日本の歴史は、唐朝の史官たちを説得することが出来ませんでした。

 

ただこの703年の時点で、既に(日本の歴史)は創られていたのです。これを仮に『原日本書紀』と名付けましょう。『原日本書紀』は中国を納得させることが出来ませんでしたが、日本の王朝はあきらめる訳には行かなかった。王朝の正統性が掛かっていたのです。

 修正する必要がありました。中国を説得させるに足る程に修正する必要があったのです。703年から『古事記』の書かれた712年の間は、どのようにすれば中国を納得させることが出来るか、その研究に費やした時間です。

『古事記』は『原日本書紀』をどの様に修正するかの(指示書)です。

どの様に修正したか、次回書きます。