『古事記』の役割 令和六年九月十七日
お久しぶりです、守谷健二です。
今回は『古事記』について考えます。『古事記』は、和銅五年(西暦712)正月に撰上されたとの序文を持ちます。
『日本書紀』は、養老四年(720)の撰上ですから八年前です。
『古事記』序は、稗田阿礼(ひえだのあれ)の誦(そらんじ)る事を、正五位の大安麿(おおのやすまろ)が書き記した、と書いている。
本文は、天地開闢の天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)に始まり、小治田(をはりだ)の御世(推古天皇・在位593~628)で終わっている。
『古事記』は、『日本書紀』と比べるとコンパクトで『日本書紀』のダイジェスト版のような印象を与える故に、『日本書紀』より早く成立していたのはおかしいと、しばしば『古事記』偽書説が唱えられてきた。
しかし現在では、『日本書紀』が先で『古事記』が後に出来たと云う『古事記』偽書説は、国語学の観点から完全に否定されている。(大野晋・『日本語は如何にして成立したか』など参照)
日本史の編纂は、天武十年(681)三月の天武天皇の詔(みことのり)に始まっている。「壬申の乱(672)」の勝利で天下を取って十年目だ。
日本史編纂は持統朝(686~697)でも精力的に進められ、文武天皇に引き継がれ、大宝元年(701)には、ほぼ完成を見ていた。
この歳に、遣唐使の派遣を決めている。この王朝が最後に唐朝と交渉を持ったのは、「壬申の乱」の勃発する直前の672年の五月であった。それ以後二十八年も唐朝とは没交渉であった。
この時の遣唐使は有名な栗田真人である。この遣唐使の目的は、「天武天皇に始まる王朝の由来(日本の歴史)を唐朝に説明して認めてもらうことであった。
『旧唐書』日本国伝を引用する
ー日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるは言う、倭国自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本となすと。あるいは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。
その人入朝する者、多く自ら矜大(きょうだい)、実を以て対(こた)えず。故に中国是を疑う。・・・
「故の中国是を疑う」であった。栗田真人たちは、中国の史官たちを説得し納得させることが出来なかったのだ。
日本の修史事業は、第一の読者に唐朝を設定していたのである。大宝元年に出来上がっていた歴史(これを『原日本書紀』と名付ける)を修正しなければならなかった。唐朝を説得出来るものに書き換えなければならなかった。
当時手に入る最新の中国正史は『隋書』(642年成立)であった。そこにある倭国伝は『旧唐書』の倭国の事である。
(唐代を記した正史は二つある。945年に成立した方を『旧唐書』と呼び、1060年成立した方を『新唐書』と呼んでいる。『旧唐書』は、倭国伝と日本国伝の併記で作っており、日本の代表王朝は七世紀後半に倭王朝から日本王朝に交代したと記している。
一方『新唐書』は、日本の王朝は二本開闢・天御中主神以来、神の子孫である天皇が絶えることなく行為を受け継いできたとする万世一系の歴史で書かれている。)
『隋書』の記す倭国は、『旧唐書』の記す倭国と同一である。つまり筑紫王朝のことだ。
日本史の編纂者は、『隋書』倭国伝を、日本国(大和王朝)の歴史として完全に飲み込むことにしたのである。『隋書』倭国伝は、大和王朝のことを書いているのだと。
『隋書』倭国伝より引用
ー大業三年(607)、その王多利思比孤、使いを遣わして朝貢す。使者曰はく、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと、故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来って仏法を学ぶ」と。
その国書に曰はく、「日出処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや、云々」と。
帝、これを覧(み)て悦ばず、鴻臚卿(こうろきょう)にいって曰はく「蛮夷の書、無礼なる者あり、復たもって聞するなかれ」と。
ここが『隋書』倭国伝の勘所です。倭国王は深く仏法に帰依していた。また別の部分で倭国王は男性であったことが明記されています。
この倭王と同時期の大和王朝の天皇は、推古女帝でした。『隋書』倭国伝を大和王朝の歴史に作り替える時の最大の問題点でした。
そこで日本史の編者が考え出したのが、推古天皇と対等、いやそれ以上の人物の存在です。
つまり聖徳太子の創造でした。聖徳太子の和風諡号は『上宮の厩戸豊聴耳命(うまやどのとよとみみのみこと)』と云う。
これは明らかにイエスキリストを意識している命名である。ここから聖徳太子信仰は生れて行く。
『古事記』は、本文の最後の部分(推古天皇の時代)が最も重要なのだ。稗田阿礼は、『隋書』倭国伝をどの様にして大和王朝のものとして取り入れるか指示(命令)しているのだ。
(続く)