村上陽一郎の科学史業績の真髄を、著作物を読まずに解説する(その1)

相田英男 投稿日:2021/05/05 15:52

⒈ 初めに

昨年、2020年の秋、菅義偉政権の発足直後に騒ぎとなった、日本学術会議の6名の学者達への任命拒否の問題は、私にも意外すぎる出来事だった。あそこまでまでの世間の関心を呼ぶとは、予想も出来なかった。事態が落ち着き、忘れ去られかけている今になっても、一般の大多数の人々にとって、日本学術会議とは、よくわからない不可思議な団体としか思えないだろう。「普通の学会と何が違うのだ、なぜ菅政権が目の敵にするのだろうか?どうして、共産党を始めとする、左翼政党の政治家達は、名簿通りの任命実施を訴え続けるのだ?」という疑問が消えないだろう。「こんな問題をいつまで国会で取り上げるのは、さっさとやめて、コロナウィルス対策の議論をしろ」と言われるのも、当然だとは思う。

私の日本学術会議に対する個人的な考えは、「現状では存在する意味は全く無い。なので、今すぐにでも菅政権により解散、消滅させられても、何ら支障は無い」だ。

しかし、である。

戦後の原子力問題の歴史を調べて、本まで出させてもらった私には、よくわかるのだが、1949年の発足直後の日本学術会議は、極めて重要な役割を持っていた。日本の主要な科学技術政策の全てを、学術会議の場で審議して承認を得るという不文律が、存在していたからだ。国家の学術方針を、学者自身が選んだ代表が議論して決定することが、本来の学術会議の役割だった。

政府に対する要望書を作成して提出するだけが、学術会議の役割ではなかった。発足時には極めて重要な役割を負っていたその団体が、何故、今のような体たらくになってしまったのか?「あんな組織は最早、時代遅れの遺物にすぎない」と、潰してしまう前に、その理由をきちんと総括するべきだと、私は思う。

⒉ 学術会議の意義を説明できるのは科学史家である

学術会議は、要するに学者の集まりに過ぎないのであるが、「左翼の巣窟だ」とか、「終戦直後にGHQの横槍で出来た」とか、「中国政府と裏で繋がっており、貴重な日本の最先端技術を横流ししている」とかいった、怪しげな憶測がネットで飛び交い、大いに盛り上がった(これらの指摘の幾つかは、私自身が以前に、自著やネットで書いて広めた事でもあるのだが・・・)。今の世間では、「学術会議は反体制の極みである」というような雰囲気が形成されている。確かに、単なる学術組織にしては、理解し難い点が多いのは事実である。現役の学術会議の会員達や、元会員であっても、一般の方々に、学術会議について納得できるような、平易な説明をできる人物は、殆どいないのではなかろうか?

学術会議の位置付けと役割について、正確に理解するには、科学史の文献を読むしか無い。具体的には、広重徹(ひろしげてつ、1928〜1975)という科学史家が書いた「科学の社会史」と「戦後日本の科学運動」の2冊が重要だ。加えて中山茂(なかやましげる、1928〜2014)という、広重の友人だった学者がリーダーとなってまとめた、大作論文集である「通史 日本の科学技術」(全4巻)も役に立つ。1949年の発足から、1980年代に会員選抜方が推薦式に変更されるまでの経緯が、詳細に書かれている。これらは、学術会議を理解するためのバイブルと呼べる文献だ。

科学史という学術分野についてもまた、一般の殆どの方々は、関心など持たないだろう。科学史とは文字通り、科学の歴史について調べる学問である。ニュートンがどうしたとか、アインシュタインがどうした、とか、マンハッタン計画で原爆が開発される経緯がどうだ、とかいう内容を調査して、まとめる研究である(物理科学史の場合は)。

日本には日本科学史学会という専門の組織がある。しかし、その学会に所属する大学の先生達だけが科学史家だ、という訳ではない。広くは、広瀬隆や竹内薫(たけうちかおる)といった技術評論家も、科学史家に含めて良いと思う。さかのぼると、武谷三男や、高木仁三郎、宇井純(ういじゅん)等の環境問題の活動家達もそうである。

1974年に、日本で初めて開催された国際科学史学会では、日本側の学会代表として、晩年の湯川秀樹が登壇して挨拶をしている。片や湯川のライバルだった朝永振一郎は、「量子力学 Ⅰ、Ⅱ」という有名な教科書を書いている。その前半の「量子力学 Ⅰ」で朝永は、プランク、ボーア、ハイゼンベルクによる量子論の形成過程について綴っており、本格的な科学史の解説本としても読める内容となっている。70年安保闘争時の、東大の全共闘委員長だった山本義隆(やまもとよしたか、1941〜)は、釈放後に在野の科学史研究者として、ラグランジュやハミルトンなどの解析力学の歴史について、詳細に調べて本を書いている。

このように科学史家として活動した方々には、意外にも、一般世間に名の知られた人物が、多くいる事がわかる。

ここで、まぎらわしいのだが、科学哲学という名前の分野が別にある。科学史は広い意味での「歴史学」に含まれるが、科学哲学は「哲学」の派生分野の一つである。科学そのものの結果では無く、科学者達が考える思考方法や、認識論といった課題が、科学哲学の研究対象となる。科学哲学の文献には、カール・ポパーとか、トーマス・クーンとか、ファイアアーベントとか、ウィトゲンシュタインとか、ウィーン学団とかの、我々理科系人間から見ると馴染みの薄い、浮世離れした哲学者達が活躍する世界に見える。

近年になり、国内外の物理学者達から、「科学哲学の扱う内容は、無意味な、単なる空想の積み上げに過ぎず、あんなものは学問とは呼べない」、という批判の声が挙っている。一例として「科学を語るとはどういうことか?」(須藤靖、伊勢田哲治、河出書房、2013年)という本を参照されたい。

さらに加えると、科学技術社会論(science technology society, 以下はSTS)と呼ばれる研究分野が、また別にある。こちらは、科学技術が一般の人々の生活にどれほど役立つのか、科学と社会との関係はどのようなものか、といった内容について調べる分野である。

このSTSについて記すべき点の一つは、STSとは科学に対する否定論(反科学運動)ではないのか、という根強い批判が、一部の自然科学者達の中にあることだ。これについて、北海道大学の数学者である北村正直(きたむらまさなお)氏等が、次のように主張されている。STSは、70年代後半から80年代に掛けて欧米で広まった研究分野である。STS研究の中心は、60年代末から70年代初頭に掛けて、世界中で盛んだった学生運動に破れた、新左翼系の学生達だという。大学に研究者として残った彼ら知識人の一部は、ポストモダニズム(脱近代主義)的な教義を掲げて、科学的知識の追求は欧米国家による物質文明化と覇権の維持に繋がるものと見做し、反科学、反理性的な講義や研究を行っていた。STSはアメリカのそのような流れの中で生まれて、発展した研究分野であるらしい。

1996年にアラン・ソーカルという理論物理学者が、ポストモダニズム系の「ソーシャルテキスト」というアメリカの論文雑誌に、難解な物理の専門用語をちりばめた思想論文を投稿し、その特集号(題目は”Science Wars”)に掲載された。しかし、直後にソーカルは別の雑誌の中で、掲載された自らの論文の内容が全くのデタラメであると公表し、大騒ぎとなる。このいわゆる「ソーカル事件」については、覚えている方も多いだろう。この時にソーカルが喧嘩を売った相手は、物理学の先端知識や用語を生半可に使うことで、偉そうに振る舞う(とソーカルに思えた)STS研究者達であったのだ。このことは、日本ではあまり知られてはいない。

さて、大変話がややこしくなったが、ざっくり説明すると、科学史が「歴史学」、科学哲学は文字通り「哲学」、STSは「社会科学」に、それぞれ属する研究分野らしい。この科学史、科学哲学、STSの三つの分野を合わせて「科学論」という総合分野になるという。数学を(あまり)使わない文科系の研究者達が、科学のなりたちについて研究する、このような分野が存在するのである。

それで、ようやく本題にはいる。上記のいわゆる「科学論」の全般において、1970年代以降の日本の中心人物と見做されてきた学者が、村上陽一郎(1936〜)である。村上は、東大生が最初の教養過程で過ごす場所の駒場キャンパスにある、科学史・科学哲学の研究室に長くいた。小谷野敦(こやのあつし)という、東大出身の作家の方によると、東大駒場学派と呼ばれる、文科系エリート学者、兼、作家達の集団があり、村上陽一郎はその一員であるという。

見かけが若造りで男前である、とか、チェロのアマチュア奏者であり音楽の造詣が深い、とか、美智子妃元殿下と知り合いであり、村上が参加するアマチュアオーケストラの演奏会に美智子妃が来られた、等の、学問の業績に全く関係ないエピソードも、村上には何故か豊富である。先に書いた広重徹と中山茂の二人は、村上の一つ上の世代の科学史家である。その更に上の世代が、武谷三男(1911〜2000)達となる。

⒊ なぜ私は、村上陽一郎を恨むことになったのか

ここから私の個人的な話をする。以前の西村肇先生(1933〜)の「自由人物理」の感想で私は書いたが、高校時代の私は実は、数学や理科が得意ではなかった。現代国語や社会などの文系科目の方が、理数系の科目よりもテストの成績が良かった。共通一次試験の社会の科目に、理科系クラスの誰もが敬遠した世界史(暗記する内容が地理、政経よりも段違いに多い)を、私は学年で一人だけ選択した変人だった。その数学の苦手な私が、無謀にも、大学の理科系学部を受験するのを知った高校の世界史の先生は、私に、「相田君は歴史が好きみたいだから、大学で科学史を勉強したらどうですか?あれは、そんなに数学とか勉強しなくてもいいでからね」と、ありがたくも助言してくれたのを、今でも覚えている。

前述の感想文に書いた通り、入試の際の無謀な選択のせいか、私の物理学者になるという夢は、大学2年生の早々に挫折した。「やっぱり物理のプロになるのは、自分にはきついな」と実感した私は、世界史の先生の言葉を思い出し、教養学部にあった科学史の講義を見つけて、受けてみた。その科学史の講義で渡された教科書が、村上陽一郎の単行本だった。書名は忘れた。しかし、日本の科学史界の第一人者という触れ込みの、その学者が書いた本は、私にはあまりにも難解だった。難解というよりも、文章の表現が、あまりにもまどろこしすぎて、著者が一体何を主張したいのか、私の頭に全く入ってこなかった。

苦痛を感じながらしばらく頑張ったものの、その本を最後まで読み通す事が、私には遂に出来なかった。

その時に私は思った。「科学史という世界が、こんなにも意味不明で、抽象的な文章を読み続けなければならないのなら、自分にはとても向いていない。こんなしょうもない本に時間を使うくらいなら、物理の難しい参考書を読む方が、きつくてもまだましだ」と。

心底から、その時の私は、そう思った。

ついでに書くと、当時、自分の下宿先で眺めるだけだった、山内恭彦の「一般力学」や、久保亮五の「演習 熱学・統計力学」等の、専門教科書の難解さに手を焼いていた私は、「村上陽一郎の本が理解できないのは、自分の頭が悪くて文章読解力が足りないからだ」、とも、愚かにも硬く信じ込んでいた。「ああいった、抽象的で、思わせぶりな描写が多用されるのが、高度な内容の文章に違いない」と、未熟な私は思っていた。

それから30年程の時間が経ったのちに、私は広重徹という人物の存在を知った。「物理学史 Ⅰ, Ⅱ」という、日本科学史界の後世に残る名著を残した広重の、幾つかの論考に目を通した私は、広重こそが、大学時代に私が学びたかった科学史家そのものである、と気付いた。一般の方々にとって、広重徹などは、全く関係ない存在だろう。が、物理を真面目に勉強した経験がある者にとって、広重が残した一連の著作物は必読である。科学(物理学)を愛し、科学が生み出す問題や矛盾に対して逃げずに向き合い、それを乗り越えるための方法を模索し、終生悩み続けた人物。それこそが、広重徹である。

ただし、私がそれに気付くのは、あまりにも遅すぎた。

広重を知った私は、「科学史の第一人者として、巷で認められている村上陽一郎とは、一体何なのだ?あんな人物が、どうして、大知識人として世間では賞賛されるのだ?」という疑問を抱かずにはいられなかった。そんな考えを、頭の中でひきづる中で、学術会議の任命拒否問題が起きたのだった。

私は先に書いたように、学術会議を終わらせる前には、その意義と問題点について正しく考察し、記録を残すべきだと考えてきた。その役割を果たすのは、当然ながら科学史家達であろう、とも思った。科学史家は、前述の広重徹や中山茂たちの文献を読み込んでおり、学術会議がこのようになった経緯について、熟知しているからだ。そう思っていた私にとって、村上陽一郎がネットの文章に書いた、「学術会議と特定政治勢力(明らかに“共産党”と明記しない村上の書き方が、なんともイヤらしい)との深い関係」を強調する文章は、極めてショックだった。

私には、科学史の大家と呼ばれた人物の主張とは、到底信じられなかった。村上は、学術会議という組織が、かつては、ごくごく短い間ではあるのだが、日本の科学体制の中心だったという事実の重みを、全く感じていないのは明らかだった。広重徹や中山茂が生きていたら、当時するであろう主張と、村上のコメントは、あまりにもかけ離れていた。

私は村上陽一郎の対応に、激しい怒りを感じた。村上があのように書くことで、彼より若い弟子筋の科学史家達は、表立って学術会議を擁護することを、ためらうであろう。だから私は、ささやかではあるが、村上陽一郎の対応を全面的に批判する事を、今回決意した。

(続く)