第4章 理不尽すぎる審判(その2)

相田英男 投稿日:2016/04/23 06:47

相田です。第2章の2回目です。

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4.3 最強の刺客あらわる

 2月19日の小委員会での菊池の説明を境として、事態は急変する。原研では労使間の争議協定が結ばれる目途が立たないことを理由に、JRR-2、3、JPDRの大型原子炉の運転が再び停止され、菊池理事長と菅田理事(労務担当)、久布白理事(JPDR担当)の理事者3名は辞表を提出した。それまで労務交渉を担当していた菅田清次郎(すがたせいじろう)理事は、菊池が信頼を寄せていた人物であったが、交渉不調を理由として引責辞任させられた後に、副理事長の森田乕男(もりたとらお)氏が、労組との交渉を菅田氏から引き継ぐこととなった。

 この時期の原研で起きた詳細状況については、資料が見当たらないので不明であるが、大型原子炉3台の運転停止が菊池の意志ではないことは、少なくとも明らかである。前年の11月に同様の措置を行った際には、菊池による深刻な事態を憂慮した声明文が出されていた。しかし2月19日の国会で菊池は、労組をかばう内容の説明を行っており、11月のような厳しい姿勢で菊池が交渉に臨む雰囲気は見られない。菊池の国会説明のあとで、状況が大きく変わったと考えるべきだろう。

 おそらく私は、19日の説明で労組を厳しく批判せず、原子力委員会の方針に疑問を投げかけた菊池に対して、危機感を抱いた自民党側が理事長職からの辞任を強要し、労組との交渉窓口を自分たちの要求に従いやすい森田副理事長(同和鉱業株式会社出身)にすげ替えることで、事態の打開を図ったのであろうと推測する。そしてこの時期に、自民党側の重要メンバーとして新たに加わった人物が森山欽司(もりやまきんじ)である。森山欽司は同じく衆議院議員として、環境庁長官、官房長官、法身大臣を歴任した森山真弓(もりやままゆみ)の夫である。

森山については、第1章の福田信之(ふくだのぶゆき)の説明の際に少し触れた。後に科学技術庁長官に就任する森山は、1974年に原子力船むつの出港を強行して、放射線漏れ事故を引き起こした張本人としてあまりにも有名であるが、「むつ」事件の十年前の64年にも原子力問題に携わっていた。そしてこの時期の森山の活動が、その後の日本の原子力開発の方針に、「むつ事件」に勝るとも劣らない決定的な影響を与えていたのである。この日本の原子力開発史における重要事実を公に主張する人物は、あまりにも少ない。

ウィキペディアによると、森山の父親の邦雄は鳩山一郎法律事務所に所属する弁護士で、1928年の第1回普通選挙で立憲政友会から栃木県選挙区に立候補したが、落選したという。森山自身は1941年に東大法学部を繰り上げ卒業後に外務省に入省するが、直後に陸軍に入隊してそのまま終戦を迎えている。戦後の一時期に外務省に復職した森山は1年間で退職し、父親の後を継いで栃木県から衆議院議員総選挙を目指すことになる。

1949年の第24回衆議院議員総選挙で初当選した森山が、その後の落選、再当選を繰り返しながら取り組んだ課題が労働問題であった。1958年から63年の5年の間、森山は地元栃木県の日教組(栃木県教職員組合)の切り崩しに尽力し、対抗組織である栃木県教職員協会を育てる等の活動により、最盛期には1万2千人を超える規模を擁した日教組職員を、数百人に減らすことに成功した。それと並行して、1960年12月に第2次池田内閣の郵政政務次官に就任した森山は、郵政省職員組合の全逓信労働組合(ぜんていしんろうどうくみあい、全逓)と対決する。

森山は当時の郵政省にあった、勤務時間中に一時間以上の職場大会参加者に対してのみ戒告処分が行われてきた慣習を改めさせ、四十五分以上の職場大会参加者の全てを戒告とする処置を徹底させた。結果として森山の在任7ヶ月の間に、過去20年分にあたる組合員への処分が強行される羽目となる。また、61年の春闘において、地方の郵便局で行われていた電話交換業務が自動化されることへの反対闘争が盛り上がった際には、森山は全逓側に一切の妥協をせずに交渉に臨み、スト権を解除させることに成功する。

このように、左翼系の過激な労働組合と対決して鎮圧することを得意とする、自民党の「労働組合潰しの専門家」が森山であった。日教組、全逓を制圧して名を挙げた森山が、原研問題を収拾するためにこの局面で登場することになる。原研労組にとっては、最強最悪の天敵と相対する事態となった。

3月12日に原研からの「調査項目書」を審議する目的で開催された、第046回国会 科学技術振興対策特別委員会 第9号においては、委員長を自民党の前田正男(まえだまさお、後の科学技術庁長官)が務め、理事として自民党から佐々木義武(ささきよしたけ)と福井勇(ふくいいさみ)、社会党から岡良一、原茂(はらしげる、社会党左派)が出席した。佐々木は島村の前任の科学技術庁初代原子力局長であり、その後に衆議院議員に転身した人物である。そして、福井は言うまでもなく「あの秘密文書」の執筆者の一人である。秘密文書のもう一人の執筆者の駒形作次(こまがたさくじ、先代原研理事長)も、兼重寛九郎(かねしげかんくろう、東大工学部教授)と共に、原子力委員の肩書きでこの日の委員会に出席している。これに加えて、ある意味この日の主役ともいえる森山欽司が、他の委員と交代する形で、無理矢理に質問者として参加することとなった。

他には参考人として、原研からは菊池理事長と森田副理事長、そして労組を代表して一柳勝晤(いちりゅうしょうご)組合執行委員長が呼ばれている。変わったところでは、労働事務次官として労政局労働法規課長の青木勇之助(あおきゆうのすけ)という名前も見られる。これに佐藤栄作科学技術庁長官と中曽根が加わっていたならば、間違いなく当時の原子力行政に関するオールスターキャストと呼べる陣容であった。しかし、このVIP二名だけはこの日の出席者の中に名前がみあたらない。この日に起こるであろう深刻な事態を予測して、いらぬ言質を取られないように、この二人は敢えて出席を見送ったのだと、私は思う。

なぜならこの日、日本の原子力行政を代表するメンバー達の前で繰り広げられたのは、菊池正士の公開殺戮ショーとしか呼べないものあったからだ。

4.4 訪れた運命の日

これからの内容は、1964年3月12日に開かれた、第046回国会 科学技術振興対策特別委員会 第9号 の議事録から引用して解説する。相当な長文引用になることを御容赦頂きたい。

この64年3月12日の国会の議事録を、日本で最も読み込んだのは私だろうと断言できる。自分がこの50年前の国会でのやり取りを、最初に目にした時の衝撃は、今でも忘れない。その後に、この議事録を読み返す度に、最初に読んだ時と全く同じ、怒りと、切なさと、やり切れなさと、悲しみが、何度でも自分の中に込み上げてくるのを感じる。

自分は本論考を書くと決めてからずっと、この日の国会でのやり取りに関する資料を探していた。しかし、書籍などからは全く確認出来なかった。福島事故以来の一連のテレビ報道でも、この64年3月の出来事については、全く触れられることはなかった。私がほとんど諦めかけた時に、過去の国会での議事録がネットで公開されていることを知り、辿ってみたところ見つけたのが、この議事録であった。以下に紹介するその内容は、真に驚くべきものである。

原子力推進派も反対派も共に、この議事録を刮目して読んでみればよい。先人達が如何に愚かなやり取りを繰り返し、その結果、致命的な誤ちを犯してしまったのか、その事実がここには余すことなく記されている。

午前10時44分に始まったこの日の委員会では、初めに菊池により、前回2月19日以降の原研の状況について説明が行われた。以下に引用する。

―引用始め―

(菊池参考人)いろいろとお騒がせしまして、たいへん恐縮に存じております。まず、先般来の原研の争議協定は成立いたしました。そのことから申し上げますと、この争議協定は、今後一年間の期間で成立いたしました。しかし、(中略)一年後にはまたこの問題が繰り返されることは明らかであります。それで、私の考えでは、この原子力関係の施設に対しては、はっきりとした法的規制でストの予告というものは必要であるということにしていただきたい、これは私は強く要望しておきます。

これは原子力研究所に限りません。将来原子力に関するいろいろな施設がだんだんできてまいります。これに対して、発電所などはすでに公益専業としてそういうことができておりますけれども、そうでない、たとえば今度原燃公社の再処理試験所であるとか、あるいは原子力船であるとか、あるいは原研の内部でも、いままでやっております炉のほかに、放射性物質をやっております場所とか、再処理の試験所とか、いろいろございますから、そういった全般の施設に対する規制というものは私はぜひあるべきだという考えを持っております。(中略)

 それから、その他の問題でございます。この協定ができましたから炉がすぐ動き出すというわけではございません。このほかにまだ超勤協定、直に関する勤務態様、それに関連する手当の問題がやはりこの三月一ぱいで切れます。これから三月末日までの間に極力組合と協議して、支障なく四月から運転できるようにしたいと思っておりますが、いろいろと困難な点も予想されますので、四月に入りましてもすぐに運転を続けられるかどうかという点について、ここでまだはっきりと申し上げられないような段階にございます。(中略)

ここでただ一つだけぜひお願いしたいと思っておりますことは、たとえば、ああいうような大きな施設やものをつくっていく事業をやります関係上、少なくともいまから先五カ年ぐらいにわたっての具体的な計画が実際持てるようなかっこうで仕事をやらしていただきたい。と申しますのは、その間にどれだけの人がつぎ込めるのか、またどれだけの金がつぎ込めるのか、そのことを前もって承知の上で、それに合わせたような計画を立てていきたいということが、われわれの前々から非常に強く希望しているところでございます。これが現在のように毎年毎年の予算で査定されていくことになりますと、事業と金、人のアンバランスがどうしても生じるということでございます。

それの使途その他について政府その他から強い規制を受けること、これ自体は私は当然受けるべきだと思っております。ただ、その計画を立てる際に、その間に投入し得る金とか人というものが、あらかじめ少なくとも五カ年ぐらいにわたってはっきりしたものがありませんと、第一年度をどうやら動き出しても、あとが続かなくなって事業がやれないというようなことで、とかく支障が起こりがちでございます。そういうことを私は一番強くここで将来の日本の原子力の開発をしていくためにぜひお願いしたい、こう申し上げたいのでございます。そのことがまたいろいろな面で労務問題その他にもつながってくるということを強く感じる次第でございます。 以上でございます。

―引用終り―

相田です。2月19日の説明に比べると、菊池の話には余裕が無くなり切迫感が感じられる。これは菊池が既に、理事長を辞めることで責任を取る腹を決めているからであろう。菊池がここで訴えているのは、大きくは二つで、一つは原子力施設への争議協定、もう一つは原子力開発予算の長期安定化についてである。

原子力施設への争議協定というのは、改めて確認すると、「原子力施設を運用している職員達が原子炉にストライキを打つ際のルール」のことである。菊池の提案は、職員達が「原子炉に対してストライキを打つ」場合には、24時間前に予告を行うことを「法律により明文化せよ」、ということである。しかしである。一般常識的な観点からして、「原子炉に対してストライキを打つ」という行為が、許されるものなのだろうか?そんな「行為」が、通常の常識感覚を有する技術者達の手で「現実に行われる」などということを、施設管理者は果たして想定しなくてはいけないのであろうか?

菊池はここで、そんな「行為」を考えることなど技術者として論外だ、あるまじきことだ、と激しく訴えているように私には思える。そしてこの菊池の憤りは、一流の実験物理学者として学会をリードしてきた研究者の実感として、至極まっとうで、正当なものであると自分は感じる。

菊池はさらに、「争議協定」が問題とされるに至った要因が、原研への予算の不安定性によるとし、「少なくとも五カ年ぐらいにわたるはっきりしたもの」を前提にしないと、原子力開発に支障をきたすことになる、と主張している。単年度で猫の目のように予算が変えられると、人員予算の方にしわ寄せが来てしまい、それが今度のような激しい労使紛争に至った要因だ、ということである。2月19日の説明でも同様の話を菊池は訴えている。

この主張も、当時の状況を客観的に見た上で、至極まっとうなものと思える。これについては、原子力委員会のそもそもの構成であるとか、当初は体制側が原研職員への高待遇をほのめかしながら、実際には大蔵省はバッサリ人件費を切った、等の問題が別に存在するのだが、ここではその説明は控える。

菊池がここで触れた2つの訴えは、技術的な観点から非常に重要で、正当な内容であると自分には思えるのだが、これ以降は、菊池のこの主張がきちんと取り上げられることは無かった。この後の議論は、菊池の訴えから大きく逸脱した、異様な方向に変質してゆくことになる。

菊池の次に、原研労組の組合執行委員長の一柳氏が挨拶行っており、一部を引用する。一柳氏の説明は、原研設立から生じた様々な問題について、労組側からの解釈を総括した内容になっている。

―引用始め―

(一柳参考人) 原子力研究所が発足いたしまして八年ばかりたっております。その間、私たちは、わが国唯一の原子力センターに働く者として一生懸命働いてまいったわけであります。その間、私、労働組合の委員長という立場でありますので、主として労働問題という観点から見ましても、種々の問題が発生いたしております。御承知のように発足後二年たちました昭和三十二年には、主として東海村の生活環境の不備という問題を中心にいたしまして、いわゆる人権闘争というのが起こっております。こえて昭和三十三年になりますと、発足当時のはなばなしいかけ声に反しまして、給与とかあるいは人件費とか、そういう面に関しましては、すでに息切れの現象が出てまいりまして、給与の先細りというふうなことが問題になり始めたわけでございます。

 昭和三十四年になりますと、その当時東海村におきまして急速にふくれ上がってきました東海研究所の機構あるいは研究体制の不備の問題、そういう問題と一緒になりまして、ついに六月には、原研始まって以来のストライキに発展いたしたわけでございます。この給与の先細りという問題は、とうとう中労委にまで持ち込まれまして、昭和三十四年の十二月には、公務員に対しまして百二十あるいは百三十という中山あっせん案というものが御承知のように出てまいりまして、一応のケリがついたというふうなことになっておるのでございます。ところが、この中山本格あっせん案と申しますものは、わずか一年足らずの寿命に終わりまして、三十六年になってまいりますと、その骨子がすでにくずれてまいっております。給与も、じり貧と申しますか、相対的にだんだん下がっていくということが急速に表面化してまいるわけでございます。

このころ問題になりましたのが、原研の理事者側の自主性の喪失とか、あるいは原子局とか大蔵省の壁、こういう問題が問題になったわけでございます。この問題は、昭和三十六年度のベースアップにおきましては、再び中央労働委員会にまで持ち込まれたのでございますが、とうとう決着がつきませんで、組合のほうは、中労委の勧告を守ってくれ、所のほうは、守れない、ということで、昭和三十七年度のベースアップについて、四月には給与の一方的改定の強行という事態が起こっておるわけでございます。給与の一方的改定の強行ということが非常に悪い契機になりまして、その後原研の労使間には、不信感と申しますか、そういうものが急速に大きくなってまいりました。労使関係がその後急激に悪化しておるわけでございます。(中略)

当時の組合の機関紙などを見ましても、給与に関するそういう自主性の喪失というものは、外堀を埋められたようなものである、次に来るのは、予算を通じての研究統制あるいは人員を通しての人事統制というものが来るのではないか、そして原研の経営が全体として主体性を失ってしまうのではないか、こういう警告が出されておるわけであります。(中略)

その後の経過を見てまいりますと、(中略)JRR2のCP5型、あるいはJPDR動力試験炉、こういう大型の原子炉の運転開始に伴う諸問題がその後起こっております。そういう問題を通じて明らかになってまいったわけでありますが、原子炉はできたけれども、運転のための要員がなかなか十分に確保されない、あるいは直勤務に関する種々の厚生問題、そういうものがなかなか片づかない、あるいは原子炉を使っての研究計画がなかなかうまくいかない、しかも基礎的な研究部門から原子力部門へ人間がどんどん引き抜かれていく、あるいは基礎部門から何か新しいプロジェクトなどにコネをつけておかないと予算や人員が満足についていかない、そういうようないろいろ行き詰まりの現象があらわれてきたわけであります。そういう中で、今後も新しい原子炉、JMTR国産動力炉とか、そういうものをつくっていく、そういうはなばなしい計画が発表されるわけであります。

そういうわけで、一体そういうことになるのはなぜだろうという素朴な疑問が原研の各部門で起こってきたわけであります。こういう議論をかわしておりますと、行きつく先ははっきりしておりまして、原研の自主性というものはどうも初めからなかったのではないか、現在の原子力政策のもとでは、原研は必然的にそういう運命を負わされておるのではなかろうか、それでは困るのじゃないか、こういう声が全所的に起こってまいったわけであります。

先ほどからのお話で、原研は曲がりかどに来ておるということをよくいわれております。しかし、私たちの目から見ますと、これは原子力なら原子力、あるいは科学なら科学にはそれぞれそれ自体の発展の法則というものがあります、そのような自然の発展の形に比べますと、現在までの原子力政策に基づいて引かれておる路線というものはややずれておるのではないか。それが八年たってそのままきたものだから、現実との乖離が大きくなってきて、急に転換する必要をしいられておる。そういうことで、これは曲がりかどというものではないのではないかというふうに私どもは考えておるわけでございます。

―引用終り―

相田です。一柳氏の話は、第3章で私がまとめた原研の状況とほぼ同じであり、特に追記することは無い。一点書くならば、菊池が訴えた「原子炉へのスト問題」については全く触れられておらず、菊池が辞表を提出するに至った経緯について、組合側は責任を全く感じていない、ということである。

ここからこの日の主題となる、森山欽司による質疑が始まる。森山は初めに、労使間での争議協定が結ばれるまでの経緯と、協定書と共に発表された「共同声明」について質問した。

―引用始め―

(森山委員) 本日は、科学技術振興対策特別委員会に、参考人として、日本原子力研究所の理事長さんをはじめとして、関係者の方々がお集まりになっております。おそらく、この参考人においで願うという企画は、だいぶ前から当委員会で立っておったと思うし、特に原子炉が従来停止しておった、それについてこれを再開するという目的をもってこの参考人の招致になったと私は思うわけでございます。しかるところ、最近この労使間において原子炉の再開に関して協定書が成立した、これで当面の問題が解決したような新聞の記事が出ております。それで、この際特に理事者側からこの点についての御説明を詳細に伺いたい。

まず第一番に、共同声明なるもの――これは私は異例だと思いますが――共同声明なるものを出した。どういう共同声明を出したか。それから、争議協定書ができております。そのあらましをごくかいつまんで、御説明を願いたいと思います。

(森田参考人) 御承知のとおり、昨年の十二月九日にJPDRをアメリカからわれわれのほうへ引き取りました。そうして、そのときの争議協定というものは引き取りまでということになっておりましたので、そこで争議協定というものはなくなったわけなのです。そこで、われわれといたしましては、そのときの引き取り前のいろいろの問題があった状況から非常に落ちついた状況になりましたので、このままある程度の運転をしつつ争議協定を結ぼうじゃないかという腹がまえはあったのでありますが、いろいろわれわれのほうでも考えまして、とにかく組合の良識を信ずるということにつきましては、組合もまさかストライキを理由に事前通告を短かくしてやるような組合ではないというような観念のもとにそう考えたのではありますが、これはわれわれの主観的の判断であるので、これではどうしてもいけないから、この際争議協定ができるまでは大型炉をとめる。少なくともわれわれの生活のサイクルの二十四時間というものはわれわれとしてはどうしても持たなくては、安心して炉を動かすことはできない。

いろいろ説をなすものは、三十分でも一時間でも間違いなく炉は安全にとまるというような議論はあるにいたしましても、万が一これがどうかなった場合につきましては、菊池先生おっしゃるように、この付近に自分が住んでおったとしても安心して住めないということまで言われます。こういう状態ではいけない。とにかく二十四時間というものをわれわれにとるということで、国民を安心させ、われわれも安心して炉を動かすということが絶対必須条件であるということを感じまして、とにかく炉をとめて、いちずに争議協定の締結をやろうじゃないかということで、実は私二月の二十日ごろから労務担当になりまして、二十六日ごろから組合側と折衝をいたしました。(中略)

いろいろ組合側からも要望が出たりいたしまして、じんぜん日を費やしましたが、(中略)とにかくすべて従来正常ならざることが多かった原研において、少なくとも二十四時間の事前通告をとるということは一歩正しきに近づくんだという信念のもとに、共同声明を出しまして、争議協定を結んだ。それが三月の十日に相なったわけでございます。 共同声明は御承知のとおりでございまして、一応読ましていただきますと、

「原子炉が停止している状態は原研の社会的使命をはたす上に大きな障害をきたしている。炉の停止措置が事態の収拾をますます困難にしている現実を反省し、労使間の誤解を正し、正常な労使慣行を今後とも尊重することを相互に確認し、原研の自主性のもとに事態を収拾することを申し合わせた。」

こういう共同声明を出しまして、協定書に入ったのであります。この協定書につきましては、昨年炉が動いておりますときに協定をいたしました協定と同様のもので締結をいたしました次第でございます。

―引用終り―

相田です。森山からの質問に答えたのは菊池でなく、副理事長の森田氏である。森田氏は、2月の20日頃に労務担当となり、組合との折衝にあたったという。翌21日は菊池が佐藤栄作長官に辞表を提出したとされる日であることから、おぼろげながら状況が見えて来る。先に記したように、菊池に見切りをつけた自民党議員達が、民間企業出身の森田氏を代わりに据えて、組合に強く当たりながら争議協定を強引に纏めるように指示したのであろう、ということである。後に森山は、原子炉の運転を再開しようとする菊池と森田氏の対応は軽率すぎるというコメントを、何度も繰り返しているが、森山のこの発言からも、大型炉3基(JRR-2、JRR-3、JPDR)を全て停止した理由が自民党からの横槍であることが、推測される。ちなみに新たに締結された争議協定書の内容は、森田氏のコメントにあるように、前年11月にJPDR引取りを目的に締結された協定と、ほとんど同じ物であった。上の森田氏の説明に対する森山の質問から引用を続ける。

―引用始め―

(森山委員) そういう共同声明を出されて、当面の争議協定ができたわけですが、これによって原子炉の停止を解除するということになるわけですか。

(森田参考人)お説のとおりに、炉を動かすにつきましてのいろいろな手当の問題その他につきまして、この前の十二月末のときに、これは三月末日までそういう諸般の規定はそのままにしておこうということで――三月中は間違いなく炉の運転をすることができるので、すでにJPDRも運転の準備をいたしておるはずでございます。

 そこで、一つ心配いたしますことは、四月一日から協定すべきものは、一つには超勤の問題です。超勤問題の規定がどうしてこれに影響があるかと申しますと、三直やっております場合に、ラップして三十分オーバータイムがつくわけです。それから、一人の者が休んだ場合に、前の直の者が次の直に直結して二直働くという場合がある。そういう場合に超過勤務というものはどうしても必要になってまいります。しかしながら、超過勤務手当の規定がこの三月三十一日で切れますと、御承知のとおりに、これは組合との協定がなければ支払うことができないという問題が一つ。

それから直勤務の問題がからんでまいります。結局三交代をやるについての勤務状態でございますから、これもまた組合と協定をしてやらなければならない問題になってまいる。(中略)組合と話し合いをしなければ、協定がなければ直勤務というものはできないのではないか。それから、もう一つございますのは、従来原子炉運転手当というものを出しております。これは大蔵省当局とお話をいたしまして、これを改定して管理手当と交代手当というものに分けて、(中略)廃止することになっておるのでございます(中略)しかるに、JPDRにおける従来の運転手当をこれにかえますと、一部従来より減額される従業員が出てまいる。(中略)この三つの問題が、四月一日からの運転に支障を来たす三つの条件になっているわけでございます。

(森山委員)そうすると、現在は原子炉を運転すべくその準備をしている。しかるに、四月一日からは超勤の問題、交代勤務の問題、それから原子炉運転手当の処置の問題等について組合と話がつかなければ――またつかない心配がある、ということは、炉がとまるかもしれない、こういうことですね。

(森田参考人) さようでございます。

(森山委員) 私は、「原子炉が停止している状態は、原研の社会的使命をはたす上に大きな障害をきたしている。」という共同声明のこの一項については全く同感でございます。しかしながら、この今回の争議協定が成立したというだけでもって、四月になればすぐにまたとまるかもしれないという公算がきわめて大きい現在に、一体原研の理事者は直ちに炉の再開準備に入るなんていうようなことは、軽率じゃないですか。ひとつ菊池理事長に御返事を伺いたいと思います。

(菊池参考人) いま森田副理事長から申し上げましたように、すぐ準備に入ると同時に、いま副理事長が申し上げましたようないろいろなことが解決されなければ四月一日から炉は運転できない、そういうふうに考えます。ですから、軽率とおっしゃいました意味がどういうことか、そこを十分確かめた上で運転を再開したいと思います。

(森山委員) あなたは私の言うことがわからないらしい。とにかく争議協定ができたからといって炉の再開準備を始められた。動かすつもりだ、こういうことが森田さんからお話があったのです。しかし、超過勤務の協定の問題、交代勤務の問題、原子炉運転手当等の処置の問題について、組合との折り合いがつかない場合に――つかない公算はかなり大きいということを森田さんは言っておるのです。そうすると、もう一回とまるかもしれない。わずか二十日間か十五日間しかやらないでまたとまるという事態が予想されるならば、いまお動かしになるのは適当であるかどうか、こういうことを私はお伺いしている。理事者としてはっきりした確信を持たないで動かした、またとまった、というような事態をまたおやりになるのですかということを私は伺っておる。(中略)

この際、原子力局長がおいでになるようだから伺いたいと思うのです。炉の停止については、原子力研究所のほうから通報を受けているだろうと思う。監督官庁ですか、あるいは原子力委員会の事務局というのですか、わかりませんが、通報は受けていると思う。しかし、この際、すぐ先に、もう一カ月、三週間あるいは二週間以内に問題が起きるようなことについて、はっきりしないうちに炉を動かそうとされるいまの原研理事者の安易なやり方についてあなたはどう考えているか、ひとつ伺いたいと思うのです。

(島村政府委員) まず第一点でございますが、(中略)ただいま御質問になり、あるいは菊池理事長からお返事のありましたような意味での炉の運転の状況の報告、あるいは予定というものは従来とっておりません。私どもが承知いたしておりますのでは、JPDRも本年に入ってできるだけ早く、おそらく二月の上旬ということになっております。そのころから動かすという予定を承知いたしております。先般来の紛争に伴いましてさらにいろいろこちらからお尋ねした結果、争議協定が結ばれれば動かすというふうに承知いたしております。(中略)ただ、すべての炉の運転計画というものは、森山委員がお尋ねになりましたような意味で通報を受けるようなシステムにはなっておりません。それが第一点でございます。

 第二点、四月一日からまたとめなければならないような不安定な状態において、いまこれを動かす準備を始めるということについてどう思うかという点でございます。この点につきましては、私どもといたしましては、すべての問題が労使閥におきまして円満に解決されましてその上で動かす、あるいは動かす準備を始めるというのが一番望ましいことだと考えております。現在は争議協定こそできておりますけれども、まだスト権は確立されっぱなしというふうな状況でございまして、私どもの目から見ました場合に、原研の労使関係が現在安定した状況にあるというふうには残念ながら見ることができないのではなかろうか、そういうふうに考えております。

しかしながら、争議協定ができ、少なくとも二十四時間前の通告を受けることができる、あるいは保安要員が確保されるということでありますれば、従来の理事者側から伺っております。(中略)つまりすべてが解決した上で動かすのが一番望ましいことでありますけれども、すべてが解決しなくても、理事者の責任において安全が保持できる状態まできたから動かすと言われることに対しましては、私どもは格別疑義を感じていないわけであります。

(森山委員) いま原子力局長はすべてが解決してとおっしゃいましたが、私はすべてというのをそれほど広くは解してないのです。少なくも森田副理事長が言われましたように、超勤手当の問題、交代勤務の問題、原子炉運転手当の処置の問題等、当面の問題ですね。すべてといえば、あとからお話しいたしますが、もう驚くべき状況になっておるのです。それはあとで申し上げます。

 そんなことまでやれとは言っていないが、少なくもこの程度の問題は片づけてやる。そして、こま切れ運転にしてやっていくようなことに、もしこのままの情勢でやっていきますと、今度は菊池理事長も十分御心痛のように、原研はすでに今回の問題で二名の理事が退任しておる。非常に大きな一つの社会的批判も受けておる時期です。いままでのようなだらだらしたやり方をやってはいかぬと私ははっきり考えておる。しかるに、今度の炉の再開はきわめてだらだらしたやり方であると私は思う。(中略)こんなやり方で、いままでとやり方が違うのですか。その点ちょっと伺っておきたいと思うのです。心がまえとしての問題です。

(菊池参考人) 私はいままでとやり方を十分違えているつもりでおります。今度のことも、いま森田副理事長が言われました三つの協定を結ぶについて、いままでのような態度でなしに、はっきりこちらの納得がいくような態度をどこまでも強く持していきたい、そういう意味で、態度はいままでとはさらにその点十分変えていくつもりでおります。はっきりしていくつもりでおります。

(森山委員) 口ではっきりすると言われましても、いまのようなことをしておられると、私どもはまわりから見てあまりはっきりしているとは思っておりません。しかし、なぜはっきりしていると思わないかということはまた後ほど、これから続ける質疑の中で私は申し上げたいと思う。

―引用終り―

相田です。争議協定は締結されたものの、森田副理事長は、超勤の問題、交代勤務の問題、それから原子炉運転手当の処置等の、組合との未解決の問題が残されていると説明した。これを受けて森山は、理事長の菊池に対して、「大型炉の運転準備に取り掛かるのは軽率すぎる」と、菊池の対応を強く批判している。森山は当時47歳であり、還暦過ぎの菊池とは干支が一回り下になるのだが、物理学会の重鎮として名を成す菊池に対しても、「あなたは私の言うことがわからないらしい」等と、全く臆するところはない。大型炉を早く動かそうとする原研の対応に、ここでの森山は大きな懸念を示し、釘をさしている。繰り返すが、これらの森山の対応は、菊池の辞表提出を始めとする2月後半から急変した原研の厳しい状況が、自民党政治家たちの圧力によることを裏付けているように思える。

原子力局の原研への管理状況を質した森山に対し、局長の島村から「争議協定ができ、少なくとも二十四時間前の通告を受けることができる、あるいは保安要員が確保されるということでありますれば(中略)、理事者の責任において(中略)動かすと言われることに対しましては、私どもは格別疑義を感じていないわけであります」と、菊池への助け舟となるコメントが出された。しかしその後も森山は、「こんなやり方で、いままでとやり方が違うのですか、(中略)心がまえとしての問題です」と、菊池への厳しい姿勢を変えることはなかった。

ちなみに森山は、この日の議題であった筈の原研からの「調査項目書」について、これまでの質問の中で全く触れていない。後にわかるように、森山は実はこの「調査項目書」を読んでいなかった。それどころか存在そのものも知らないままで、森山はこの日の国会に臨んでいたのだった。質問者としてそんなことが許されるのか?という気もするが、森山は「調査項目書」には頼らずに、自らが「独自のルート」で調べた資料を元に、この日の質疑を行っていた。

(つづく)