番外編の投稿:重掲[1694]の続きの続き

相田(Wired) 投稿日:2014/11/23 23:42

 みなさんこんにちは、相田です。
 南部の話の後半を投稿します。

 前回よりもさらに色々と危い内容になっていますが、南部の仕事を一般の方々向けに解説するという無謀な試みを、とりあえず見守って下さい。

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題目「思想対立が引き起こした福島原発事故」

第1章 素粒子論グループの光と影

1.8 〔番外編〕南部陽一郎、朝永門下生のキリスト(その2) 

 さて、前にも述べたが、ここの話は全て西村肇先生が「現代化学」という雑誌に書かれている紹介記事「南部陽一郎の独創性の秘密をさぐる(1)(2)(3)」の受け売りである。西村先生は応用化学の権威である一方で、素粒子物理学に関しても造詣が深く、南部の実力についてかねてから注目されていたという。自らを「南部の追っかけ」であることを公言されている。

 南部が問題の論文で計算した方法は、朝永の「超多時間理論」とは異なり、以前のダンコフが試みたモデルであったという。ダンコフは電子の「自己エネルギー」を計算する際に、計算項の一部を抜かしてしまい、結果として発散が残ってしまった。計算間違いが無ければ10年前に、ダンコフにより「くりこみ」は完成した筈であった。南部は朝永の講義を聴きながらダンコフのモデルの筋の良さを見抜き、自分一人で朝永グループとは異なる手順で、ラムシフトの計算を秘かに行っていたという。

 西村先生によると、南部論文の驚くべき点は朝永グループとの人数差だけではないらしい。電子の「自己エネルギー」を計算する際には、電子から電磁波(光、photonと同じ)が放出され「中間状態となった電子」が、再度電磁波と反応して別の安定状態に至るが、その過程のエネルギー変化を全て計算で求めることになる。朝永グループの計算は「中間状態となった電子」を「通常の電子」1種のみとしているが、南部の論文では「通常の電子」と「反粒子=陽電子」の場合の二通りを考えて計算を行っているという。「中間状態となった電子」が2種類ある場合は、理屈から計算量が3倍に膨らむことになるのだが、その結果として朝永グループとの人数差と合わせると、南部は通常の研究者と比べて何と10倍以上の速度で計算を行っていると、西村先生は述べられている。

 朝永グループも別に皆アホではなく、当代一流の物理学者の集団である。それを相手に10倍以上のスピードでの計算が可能とは、信じがたい話である。しかし南部の元論文(ネットでダウンロード出来る)を見ると、彼の計算の速さの理由が素人の私でも少し見えてくる。

 南部は論文の中で、電子がエネルギーのやり取りを行うそれぞれの過程について、矢印を用いた独特の略図を用いて区別している。西村先生によると南部のこの略図は、当時まだ未発表であった、R.ファインマンが発明したファインマン・ダイアグラムと呼ばれる、素粒子反応の計算方法と同じ物であるらしい。ファインマンは朝永と同じ「くりこみ論」により、ノーベル賞を同時受賞している著名な物理学者である。「ご冗談でしょうファインマンさん」等に代表される、軽妙なエッセイの著者としても知られる。

 ファインマン・ダイアグラムとは、素粒子の生成、消滅反応を、矢印、波線、丸等の単純な記号の組合せて描いた、一見にして子供の落書きのようにしか見えない図形である。しかしながら、それぞれの記号の位置に、定められたルールに従って数式を当て嵌めると、素粒子反応を記述する極めて難解な数式がいとも容易に導かれるという、手品のような物理数学のテクニックである。量子力学の創始者であるN.ボーアは、学会で初めてファインマン自身からこのダイアグラムの説明を聞いた時に、内容があまりにふざけていると感じて激怒したそうである。

 南部は彼自身の論文で、ファインマン・ダイアグラムに近い技法を、何と自ら編み出して、事前に電子のエネルギー変化の過程を厳密に整理、分類した後に、ラムシフトの計算を行っていたらしい。この当時の南部は、まだ20代後半の駆け出し研究者である。真実であるならば、南部の物理センスの凄まじさは言葉を失うレベルである。

 ただし、南部がラムシフトを計算したこの論文に関しての解説は、西村先生以外には見当たらず、南部自身ですらも何故か全くコメントしていないようである。実際の南部の論文を眺めると、西村先生の説明のとおりの内容と私には思えるが、朝永への遠慮とかの様々な支障があって、あえて触れないのであろうか? 南部自身は、武谷、坂田等のように、物理に直接関係ない話をベラベラ主張することを全くしない人なので、「論文に全て書いてあるからそっちを読めばわかる」ということなのであろう。たとえ読んだところで、何が書かれているか全くわからない者が(私を含めて)ほとんどなのであるが・・・・

 南部の物理学者としてのスケールの大きさは日本には収まりきらず、その3年後にはアメリカに渡っている。南部はシカゴ大学に迎えられ、素粒子物理学の教授 ―あのE.フェルミと同格の― として、数々の偉大な業績を残すこととなった。南部のノーベル賞受賞の対象となった「対称性の自発的破れ」という理論は、私の学力では理解がおぼつかない難解さである。それでもいえることは南部のこの理論は、固体物理学で知られる超伝導現象を素粒子物理に適用したモデルということである。超伝導とはある種の金属やセラミックス材料の電気抵抗が、一定温度以下の低温でゼロとなる現象である。

 20世紀初頭に発見された超伝導現象のメカニズムは長らく不明なままであったが、1950年代の後半に、バーディーン、クーパー、シュライファーの3人のアメリカ人物理学者により、物質中の2個の電子が組み合わさって運動することで、ボーズ・アインシュタイン凝縮という最低エネルギー状態に落ち込む現象が生じて、超伝導が発現するというモデル(BCS理論)が発表された。当時アメリカに移っていた南部はそのニュースを間近で聞きながら、BCS理論の背後に素粒子物理学との深い相関があることを予感したらしい。数年の考察を経た南部が、1960年に発表した理論が「対称性の自発的破れ」である。

 世の中に存在する物質は莫大な数の原子により構成されており、個々の原子は陽子、中性子、電子等の素粒子により構成される。さらに陽子、中性子の内部にはクオークと呼ばれる微細粒子が存在するとされている。このように物質を構成する要素を微細化、単純化することで自然の本質に迫ることを目的とした学問が、日本の湯川を始祖とする素粒子物理学である。

 それまで多くの物理学者は、個々の素粒子まで自然を単純化してモデル化することで、多数の原子が組み合わさって構成される実際の物質の挙動を、精密に予測し得ると考えていた。しかし南部は、素粒子の持つ性質を突き詰めると、その背後には超伝導と同じ現象が存在していると主張した。言い換えると、物質を究極的に微細化・単純化してゆくと、そこを支配する法則は何と、マクロな物質(多体粒子による構成体)で生じる法則が再び現れるのだという、それまで誰も考えもしなかった破天荒で逆説的な考え方を、南部は導入したのである。

 今盛んに報道されている「ヒッグス粒子」に関するP.ヒッグスの論文は、南部の「対称性の自発的破れ」に関する論文の、ほとんど焼き写しであることはよく知られている。南部の論文に示唆を受けたヒッグスは、自らのアイデアを論文に纏めて多数の学会誌に投稿するものの、掲載を全て拒絶されてしまったという。しかしある論文誌の査読者を務めていた南部自身がヒッグスの論文を目にして、「いい内容だ、がんばれ」と勇気づけた(encourageした)という。この論文がヒッグスのノーベル賞受賞の対象となった。

 さらにそのヒッグス論文のモデルを用いて、グラショウ、ワインバーグ、サラムの3人の物理学者が、電磁気力(電磁気的相互作用)と弱い相互作用という二つの現象を併せて記述できる「弱電統一理論」というモデルを60年代後半に提案した。70年代になりこの弱電統一理論により予測される粒子が加速器実験により確認されたことで、提案者の3人は1979年にノーベル賞を受賞し、素粒子物理学の理論体系は一応の完成を見たとみなされるようになった。しかし、これらの一連のモデルのそもそもの起源は、南部による超伝導現象(固体物理学)と素粒子物理学の融合という、他に類を見ない独創的な発想にあるのである。

 南部がこの理論を考え付いた理由の一つに、彼の出身大学が東大だったことが挙げられる。東大は素粒子物理学では湯川、朝永、坂田を輩出した京大に出遅れていたが、統計物理学や固体物理学等の多体現象を扱う分野が伝統的に強い。伏見康治も統計物理学の専門家である。朝永教室に通う前の南部も固体物理学を深く学んでいたことから、BCS理論が発表された当時に、そこに潜む重要性を直感で見抜くことが出来たといわれる。

 しかし戦後の東大は、南部やその同世代の若手の素粒子物理学者達を冷遇し、彼らを全て大阪市立大学等の地方の新設大学等に放逐してしまった。武谷は当時、彼ら東大の若手素粒子物理学者達の才能を惜しみ、東京に残してくれるように大学側に何度も懇願したが、聞き入れられなかったという。その後に彼らの幾人かは東大に戻されたが、アメリカに渡った南部は二度と日本の大学に帰ることはなかった。

 南部がノーベル賞を受賞した際に、文科省が「あれはアメリカ人の仕事だ」と南部の業績を軽くあしらったのは、南部の実力を見抜くことが出来ずに追放してしまった東大学閥OBの思惑も関係している。南部は60年代末に国籍をアメリカに移してはいるが、南部の非凡な才能は東大時代に既に開花していた。

 ちなみに南部の業績はこれだけではなく、クオークの性質に「色」という新たな「自由度」の概念を持ち込んだ「クオーク色力学」の創生と、素粒子の挙動が点ではなく、一定の長さを有する「ひも」として記述されるという「ひも理論」の開祖もまた南部なのである。「クオーク色力学」「ひも理論」それぞれが、ノーベル賞に値する優れた発見であると言われる。

 日本の「歴代の物理学者」の中で最もスキルが高いのは、仁科でも湯川でも朝永でも坂田でもなく、南部なのだとプロの物理屋の中では語られている。その一方で、南部のノーベル賞受賞は80歳を過ぎてからとあまりにも遅かった。南部の凄まじい才能に脅威を覚えた、アメリカの物理学者達の働きかけがその一因にあるとも言われている。

 戦後に若手科学者達が貧しい日本から、海外に頭脳流出することが問題にされた際に、武谷は「(物理学者では)南部以外は、別にいなくなってもどうってことない」と、コメントしたそうである。一方の南部は、研究に取り組む際には単なる数式上の整合性だけではなく、「自分のモデルが実体として存在する場合にどうなるか?」と、つねに考え続けていたという。武谷三段階論が科学の方法論として有効であるのならば、南部の一連の研究成果こそは、坂田のそれをも上回る三段階論の理想が結晶化した姿であると、おそらくはいえるのだろう。

 あの大変口の悪い益川氏も、ノーベル賞を南部と共同受賞する件を聞かれた際には、感動が込み上げて人目も憚らずに涙を流したという。当然ながら益川氏は、南部の実力についてよく知っている。益川氏のひねくれた物腰を私は好きではないが、南部のことを思った際に思わず出た、自分の気持ちに正直な態度には好感が持てる。

(番外編終わり)

相田英男 拝