「2084」 スーパーモデル冨永愛が今から台頭する(第1回・全2回) 2023年9月12日

副島隆彦です。今日は2023年9月12日です。

冨永愛(とみながあい、1982年-、41歳)というスーパーモデルについて話します。

冨永愛

私はこの冨永愛という、今日のこのファッションモデルのことをほとんど知りませんでした。何かそういう人がいるなということだけは知っていたけど、彼女を識別できなかった。何で彼女のことが気になったかというと、その前に、この7月16日に死んだフランスの歌手で女優であったジェーン・バーキン(Jane Birkin、1946-2023年、76歳で死)の、インターネットというよりもYouTubeの追っかけをずっとやっていたら、横に必ず、冨永愛のサムネイルが出るもんですから、それを見ていたらすごい日本人の女がいるんだなと思った。だから、冨永愛に焦点を当てます。

ジェーン・バーキン

それ以外に、ちょうど7月16日の『FRIDAY』に「銀座に冨永愛が降臨」とかいう記事があって、ティファニーのハイジュエリーのデモンストレーションにほかの日本の女優たちやモデルも集まっていて、それのときに銀座に出現したので周りが驚いて見たという記事でした。後で張っておきます。

(貼り付けはじめ)
スーパーモデル冨永愛が平日昼間の銀座に”降臨”…!道行く人々も息を呑んだ”圧倒的オーラ”

FRIDAY 7/16(日) 9:00配信

昼間の銀座に突如現れた冨永愛に道行く人々はびっくり!

7月6日の夕方、東京・銀座は平日ということもあり、多くのサラリーマンや買い物客で賑わっていた。その通りに一時停車した黒塗りのミニバンから降り立ったのは冨永愛(40)だ。

【驚愕】すごすぎ…!誰もが息を呑む…銀座の街を歩く冨永愛の圧倒的すぎるスーパースタイル

肩から胸上部まで白い肌が露出し、ボディラインがクッキリと浮かび上がる黒いロングドレスに身を包み、8頭身…いや、9頭身近い冨永を目の当たりにした道往く人々の目は大きく見開かれ、動きが一瞬固まった。

「この日、銀座のティファニー銀座本店では、7月7日のリニューアルオープンを記念してセレモニーが開かれました。冨永さんの他にも三吉彩花さんや町田啓太さんらがティファニーのジュエリーを身につけてドレスアップし、写真撮影に応じました。

冨永さんは最高峰のハイシ゛ュエリーコレクションの最新作『フ゛ルーフ゛ック2023:アウトオフ゛サ゛フ゛ルー』や、フ゛ラント゛を代表するアイコンス゛コレクションを身につけていました」(ファッション誌編集者)

イベント終了時には辺りはすでに暗く、ライトアップしたティファニーの出口から出てきた冨永の姿に違和感はなく、目の前を通る人々もそれほど驚いた様子ではなかった。やはり、スーパーモデルはライトアップされた中で観るに越したことはないようだ。
(貼り付け終わり)

副島隆彦です。

私にとってはこの冨永愛の存在は、世界基準という言葉があって、World Valuesと言いますが、世界普遍価値とも言うんだけど、この基準から見たときに、どうも日本人でこの世界基準に到達しているファッションモデルは彼女だけだとはっきり分かったんです。それはこれまでの日本人のファッションモデルたちの歴史もあるから、詳しいことは知らないんだけど、簡単に言うと彼女は180センチの身長がある。公称179センチかな。しかし、これぐらいないと世界で通用しないんだというのがはっきり分かった。

それから、YouTubeの世界のトップ10のモデルたちのファッションショーのランウェイでの歩く様子を見ていたら、冨永愛はそこでちっとも負けてなかったというのがありました。それはどこのブランドというか、会社のパリコレクションのショーの場面なのか分からないけれど、幾つかありました。ああ、日本人で唯一通用するのはこの人だけなんだとはっきり分かった。こんなことは男たちは普通気にしないことだから、誰も見に行かないし、無視するんです。ただ、World Values問題にかかわるから、どうしても私ひっかかってきて、重要な問題になる。
https://www.youtube.com/watch?v=btkU29mkj0I
ランウェイでの冨永愛

ファッションモデルたちがはやったのはもう20年ぐらい前からで、日本で騒がれたのはそのくらいですね。そのとき日本は、バブルもはじけているし、キラキラした金持ちに憧れるというのはもうなくなっていたんだけど、それでもファッション関係の装身具とバッグと洋服という文化だけはずっと続いたから、どうしてもそれに戻らざるを得ない。

どう20年ぐらい前、日本の銀座はかなり寂れていました。10年前もひどかったという印象があります。新しいビルが建たないんですよ。すすけた感じの銀座で、本当にバブルがはじけて大変だったんだなという感じが、今でもひしひしとわかります。銀座の裏通りなんか寂れまくっちゃって、どんどんクラブとバーが閉じられていって、閑古鳥が鳴くような状況でした。そこに通っていた土建屋(建設会社)の社長とかオーナーの金持ちのじいさんたちが銀座の裏通りのお店で、並木通りでもいいんだけど、和服とか洋服のホステスたちにお見送りされているシーンというのがほとんど消えてなくなっていったんです。

あれは凄いことだったですね。銀座のバーがどんどん潰れていった時代でした。そして、フランス料理屋が7~8割潰れました。イタリア料理屋は残りました。何とかイタリア料理屋は残ったけれど、それでもカラオケバーみたいになっていったんです。それぐらい惨めで哀れな銀座の通りのことを覚えている。

表通りは一応看板ですから、意地でもファッションの社会的な大企業たちがお店を構えていた。例えば東京駅の丸の内の三菱重工を初めとした三菱村があるんだけど、この辺に世界のブランドのお店がたしかたくさん出ていたのがどんどんなくなって、銀座中心になったことを覚えています。銀座でしか生き残れないという感じになりました。

あとは大きなデパートの中に入っていたんだけど、デパートの中の衰退がまた激しくて、何かかなり減っていったと思う。デパートとしては、松屋も松坂屋も三越も東京駅前の大丸も、もう一つ高島屋か、上のほうに行く客がいなくなっちゃって、デパ地下の食べ物、総菜売り場だけは栄えているけど、上に行くと客がほとんどいない状況がずっと続きました。マッサージ屋になって、一流デパートの上のほうはエステサロンになっていたんです。それを私は目撃しています。

このままじゃどうしようもないと。もう洋服なんか売れないんだという時代が続いて、今でもそれは続いているんだけど、その話より、簡単に言えばルイ・ヴィトンとエルメスとシャネルとティファニーとカルティエの銀座の旗艦店ですね。フラッグショップストア(flagship store)、フラッグキャリアショップ(flagship shop)と言います。フラッグシップという言葉は、旗の艦、旗艦と言うんだけど、その国を代表して戦艦隊が、その中心にいる艦隊の司令官の船のことをフラッグキャリアシップと言います。それは基本的には空母ではないんです。戦艦で、バトルシップ(battleship)なんですね。それが軍隊用語です。

それがやがて飛行機にも使われて、日本だったらJAL、日本航空ですが、日本の日の丸の旗をはためかせてというか、胴体に描いて飛んでいたわけです。それぞれの国がみんな同じことをしていたと。その意味で、世界の代表的なブランドショップの銀座旗艦店というのは、今でも生きている言葉です。

そこで生き延びた人たちがいて、私は日本のファッションモデルなんか誰も知らないけれども、名前もよく知りませんが、山口小夜子(やまぐちさよこ、1949-2007年、57歳で死)という人がいた。山口小夜子はそんなに背が高くなかったと思う。もう1人いたんです。だけど、そんなには騒がれなかった。それでも、もう20年前です。調べてみたら山口小夜子は170センチだ。だから、だめなんです。私が冨永愛のことを調べたら、女の子たちはみんな詳しく知っているんだろうけども、男は誰も知らないんです。興味もない。

山口小夜子

それから、川原亜矢子(かわはらあやこ、1971年-、52歳)というのがいて、週刊誌のグラビアとかに出ていました。その子は180センチぐらいあったかも。だから、日本のパリコレに出られるようなスーパーモデルとしては何人かいるんだろうけど、何も知らなかった。

川原亜矢子

ところが、冨永愛は今41歳かな。1982年生まれで、17歳のときに高校生の制服姿で『VOGUE』という雑誌にデビューしたんです。これが凄かった。それで次の年の18歳になったら、つまり2000年ちょうどにパリコレに出ている、デビューしているんです。

女子高生姿の冨永愛

彼女は神奈川県相模原市の一部なんだけど、北のほうに橋本というところがあって、私も何回か行ったことがあるんだけれど、相模線の駅で、もう山の中みたいな、駅の前だけが一応商店街で、それ以外はぼろの20階建てぐらいの公団住宅がだーっと建っているところです。何というか、東京の外れみたいなところです。ところが、神奈川県と言いながら、八王子とかに確かに近いんですよ。東京駅から真西じゃないかな。そういう場所です。だから、横浜の感じじゃないんです。ものすごく横浜から離れています。そこの田舎の女の子が出てきた。

女子高生時代の冨永愛

高校生のときに、いや、中学2年生で175センチあったと言っている。「巨人」とか「大女」と呼ばれて、「おまえ、プロレス行け」とかね。小学校、中学校でいじめられる訳ですよ。それで、いじめをはね返しながら生きてきたと。恐らくお母さんはホステスさんみたいなことをしていて、娘3人で一番下なんだと思うけど、お姉さん2人いて、それぞれ父親が違うと言っています。貧乏な家で育っていると。そこが自伝の『Ai』というのに書いてあるようです。それで何とか高校を卒業した後、デビューです。

ただ、大事なのは、冨永愛は18歳でパリコレに出たときに、彼女を育てた業界人たちが周りにいる訳です。おかまみたいな、『VOGUE』とか『ELLE』という雑誌の日本語ができる変なおじさんたちがいるんです。その人たちが育てたんだと思う。もう完全にゲイですね。この人たちがYouTubeにもちらちらと出てきます。

彼女はそうやって育てられて、そのとき日本の「コギャル」という言葉がはやって、女子高校生ですが、超ミニのスカートをぐりぐりまくり上げて、そこに靴下を、ルーズソックスと言うんだけど、本当はルースなんですけど、白いルーズソックスを履いて、下にだらっと垂らして歩いていた、そんな時代ですね。そして、そのまんま写真に載ったんです。

そうしたら次の年にパリコレに行っているから、もう冨永愛はそのとき世界を見ちゃったんですよ。自分と同じ背の高さの人たちがいっぱいいて、英語はできないけれども、言葉で勝負する必要のない世界で、パリの世界を見ちゃったんですよ。ファッションショーの中に自分は入っていって、でも気合いと根性で負けないわというんで、一生懸命キャットウォークやる訳です。キャットウォークをテレビ番組で見せてくれましたよ。足を後ろに引きずるように、反対側の足をわざと引きずるんだって。それで、足を交差して歩くのね。

それは今の日本の女たちで、見ていたら駅でその歩き方をわざとしている女がいるんですよ。時々じっと、私は見ているんだけどね。モデルはほとんど歩いていませんけど、普通のお姉さんたちが、ちょっときれいめな人が、一生懸命駅とか電車の中でファッションショーを1人でやっている女性がいるんです。私はじーっと見ているから実は嫌がられるんですけど、見ているんです。見てあげないと可哀そうだと思ってね。世の中、そんなもんです。女の子にとってファッションはものすごく大事で、ひとりファッションショーやっているんです。彼氏みたいなのが横についていればまだ格好がつくけど、それもあまりない。

だから、世界を冨永愛は見てしまったことがものすごく重要で、ということは日本に帰ってきたら、そこら辺のちびころだらけにしか見えないんですよ。日本の女優さんだろうが何だろうが、もう話にならないぐらい小さいですからね。言った話が、一番見苦しいのが薬師丸ひろ子で、150センチぐらいしかないはずです。あとばばあで、大御所で一番威張っている黒柳徹子も150センチちょっとだと思います。もういいかげんやめてくれ。時代が大きく変わったから。どうせ世界基準に日本も行かざるを得ないから、並外れて特別な人間たちが芸能界にデビューしていくんですよ。

このことの厳しさを、もうはっきり言わなければいけないと。ところが、言うと女たちが嫌がるに決まっているんだけど、女たちは死ぬほどそのことを知っている訳です。もう小学校、中学校のころから、自分の身体的特徴の劣勢に関してね。劣等感なんてもんじゃなくて、劣等感通り越して、頭がおかしくなりそうな感じの時代を女たちはずっと自分で味わっている訳です。

でも、160センチぐらいあって、普通なら普通でいいやみたいな諦めもついて、普通の人生になっていくんだけど、あとはまあまあの中学校、高校、大学まで出て、ちょっと働いて主婦になればいいやという、みんな諦めもついているんだけど、やっぱりファッションは女の抽象と観念の世界だから、憧れの対象であって追っかけをやる訳ですね。ちょっとでも自分をきれいに見せかけるための努力を、死ぬほどやる訳です。

男たちがただそれに騙されているだけのことです。だからもう50年前かな、私が女たちに「ああいうファッションをしたり、裸見せたがったり、下着ぎりぎりまでの格好するのは男をひきつけるためか。男をだますためにああいうことをするのか」と聞いて、「そうだ」と答えた女は1人もいません。今は平気で答えると思う。「当たり前でしょ」と言うと思うけど、当時答えた女は1人もいませんでした。最初から地味にして、そういうことをする気がない女たちもいたんだよね。そういう人には聞かなかったけど、ちょっと派手めの女には必ず聞いていたんです。そうしたら、嫌がられるだけでした。

冨永愛のすごさは、世界を知っちゃったということなんですよ。あと一1、私が最初に言っておくべきことは、目つきがとんがっているわけで、これ英語でslantと言います。slantという言葉は差別用語で、今ではもう使っちゃいけないんだけど、わざと昔はアメリカのお笑いたちが両手で目の脇をつり上げてslantとやって、アジア人、特に東アジア人、モンゴル系ですけど、ばかにするための言葉だったんです。

吊り目をする白人女性

あと一つ、もっと汚い言葉、gookと言ってガチョウですけど、ベトナム戦争に行っていたアメリカ人たちが、ベトナムの女の売春婦たちを買っているときに、こいつらガチョウなんだということです。gookと言います。そういう見苦しいちびころのアジアの女たちのことを言うんですね。日本人も恐らくgookって、朝鮮戦争のころ言われたと思う。それは、日本語はどうでもいいことでね。だから、これはslantなんですよ。

でもね、冨永愛は目が特別つり上がっているわけではないんだけど、目がつり上がるお化粧すれば簡単につり上げられるわけで、かつそこにアイシャドウの激しいのを塗って、上につり上げれば完全にslantです。ところが、このslantが恐らくこれからの世界ファッションの主流になります。恐らくもうなっているんだと思う。

僕らが日本の東京とか銀座で、デパートとかブティックの、メゾンとまではいくら何でも言わんと思うけど、本当はメゾンと言いたいんだろうけど、ブランドショップのお店に飾ってある広告の写真は、ほとんど目がつり上がっています。恐ろしいぐらいつり上がっていて、肌も白じゃありません。だんだん金髪、白人のモデルたちが衰退していっている。それに対して、東アジア型のモデルたちがものすごい勢いで出てきています。

ところが、この10年前から中国人の有名なモデルたちが姿を消しているんです。パリコレに呼ばれなくなっています。それは中国差別なんだけど、中国の世界進出に対してフランスも、ニューヨークも、ロンドンも、それからイタリア、ミラノの4つですけど、この四大聖地が嫌っているんです。だから、いま中国人のモデルたちにランウェイを歩かせようとしません。中国系の顔をしている人たちがいるんだけど、どうも中国人じゃないですね。その中で、冨永愛はパリコレに出ていた訳です。

ところが、彼女は2004年に、だから22歳でパリ在住のパティシエの男と結婚している。これは写真ぐらいぱっと出たらしいけど、名前はわかりませんが、この男と、次の年にはもう子供を産んでいます。それが今の、この間デビューした冨永章胤(とみながあきつぐ、2005年、18歳)です。

章胤と冨永愛

胤(たね)って本当は読むんだけど、章胤という息子で、今年もう18歳です。2005年に生まれています。彼女はファッションモデルやりながら、同時にテレビ番組のバラエティーショーなんかにも出るようになって、あちこち呼ばれれば出ていく訳ですね。だからシングルマザーで、子育てしながら芸能人やっている。自分の女きょうだいやおばあちゃんが面倒見たらしい。母親が大嫌いだったというのがずっと書いてあるから、それでも母親ともつき合いが今はあると思う。

章胤と冨永愛

恐らく2000年から2010年ぐらいはぱっと目立たないけども、それなりに呼ばれるテレビ芸能人やっているんですよ。そのとき塩谷瞬(しおやしゅん、1982年-、41歳)という男とつき合ったけど、塩谷がほかの女もいたということで怒って別れちゃった。その後に紀里谷和明(きりやかずあき、1968年-、55歳)という、宇多田ヒカル(うただひかる、1983年、40歳)の元の夫、映画監督ともつき合ったと言っているけど、よく分かりません。このあたりで、今41歳だから、パリコレに出ていってすぐ20歳になって、23歳で子供産んでいるので、ほとんど日本で暮らしているんですよ。

塩谷瞬と冨永愛

宇多田ヒカルと紀里谷和明

だけど、何をしていたか問題もいいんだけど、大事なのは、彼女は20代から後は自分の責任ですから、かなりしっかりした生き方をしているんです。男とつき合ったりしているに決まっているんだけど、乱れた生き方してないんですね。かなり頭のいい、しっかりとした女だということがよく分かります、彼女の発言を聞いているとね。もう18歳で世界を知っちゃったから、日本国内基準のくだらないちゃらちゃらした芸能人の活動を下に見下したんだなというのが私はよく分かる。それが大事なことです。

だから、2020年2月に、8年ぶりと言いながら本当は10年ぶりなんだけど、パリコレに復帰しました。ランバンのモデルで出たんだそうです。ということは、それまで何をやっていたかなんですけど、2010年から2020年。2020年ということは37歳ですね。今は積極的に芸能人活動をやっているということです。

復帰した冨永愛

そうだ、2012年に塩谷瞬と男女関係があったけども、2014年に『Ai 愛なんて 大っ嫌い』という自伝を出した。これはディスカヴァー・トゥエンティワンだからちょっと怪しい出版社ですが、母親への憎しみがすごかったと。でも、子供が生まれたら、だんだんそれが消えたと書いています。

その前、2013年に過労で倒れている。過労入院です。子供と一緒に入院していた。子供がこの時、もう既に8歳ですね。そうすると、一番大事な時期なんですよ。小学校ですからね。「僕なんか生まれてこなければよかったと言った」といってショック受けて、3年間休業するんです。息子と2人だけで静かに暮らしていたようです。どうも埼玉県のほうで暮らしていたようです。住所は明らかにしません。だから、このときに彼女はじっくりと成長しているんですよ。仕事は一切しませんから、子育てだけです。子供が「お母さん、もう仕事していいよ」と言うまで家にいたというんだから、お金もだんだんなくなっていったと言っています。

(つづく)

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