「2040」 【再掲載】「1456」番  村岡素(もと)一郎 著 『史疑(しぎ) 徳川家康事績』(1902年刊)についての 松永知彦氏の長文の歴史論文を載せます。 2014年6月10日【再掲載】(第2回・全2回) 2023年2月9日

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SNSI・副島隆彦の学問道場研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)です。今日は2023年2月9日です。

前回の松永論文の後半部を掲載します。

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二、世良田姓・徳川姓について

世良田姓と徳川姓については、『家康傳』(中村孝也著)からよりも、南條氏の『三百年のベール』の記述の方が詳細で、理解しやすい。だから、そこから引用する。こっちは小説なので、登場人物である主人公の平岡素一郎 (村岡を一字変えてある) と部下の山根三造との会話形式になっている。

<引用開始>

(※かっこ内のふりがなは引用者)

「先ず、君の方の戦果を聞こう。新田徳川の系図が、はっきり掴(つか)めたかね」
「じゃ、まず歴史上明確に分かっている処から始めます。鎮守府将軍八幡太郎源義家(みなもとのよしいえ)の第三子義国(よしくに)が下野国に流され、後、上野国新田庄に住し、その長子義重(よししげ)が、新田太郎と称して新田氏の祖となったこと、次子義康(よしやす)が下野国足利(あしかが)に住んで足利の祖となったことは、問題ないと思います。

義重の嫡子義兼(よしかね)は、新田姓を継ぎましたが、次子の義季(よしすえ)は分かれて、新田庄の中の世良田・得川(とくがわ。副島隆彦注記。現地で、私は、5月19日に、元は、「とこがわ」であり、その名の川が流れていた、と地元の人から証言を得た) ・江田・横瀬 の諸郷を領し、始め得川(とくがわ)郷に居を構えて、得側(とくがわ)又は徳川(とくがわ)と称したと言います。

これが世に言う徳川氏の呼称の起こりでしょう。この頃は同士族の家が区別する為に居住地の地名を称したことが多く、それもあて字は平気で使ったようですから、得川・徳川・徳河 など色々の文字が見えています。

『吾妻鏡(あづまかがみ)』の中に頼朝の供奉人(ぐほうにん?)として、徳河三郎(とくがわさぶろう)の名が出ていますが、これは義季(よしすえ)のことでしょうな。この義季は、然(しか)し、晩年、世良田に移って世良田の姓を名乗り、その長子頼氏(よりうじ)は、世良田氏を継ぎ、次子は同じ新田庄の江田郷(えだごう)に住んで江田小次郎と言っています。従って、徳川の家名は、義季が、ほんのわずかの間名乗っただけで、その得川(徳川)郷を去った承久三年頃を限りとして消滅しています。

<引用終了>

新田、世良田、得川をめぐる家系図(定説)

松永知彦です。宗家、分家も含めた松平家の中で、世良田姓を名乗ったのは、唯一、元康の祖父である七代清康(きよやす)だけだ。しかし、 『角川日本姓氏歴史人物大辞典23 愛知県姓氏歴史人物大辞典』の世良田の項に、『参河志 (みかわし) 』に世良田右京亮親忠(せらたうきょうのすけ・ちかただ)、世良田二郎三郎長親(せらたじろうざぶろう・ながちか)など 家康の数代前の名前が載る、と紹介されている。しかし、これは後世に書かれたものだ。

また、『日本國誌資料叢書(そうしょ)』には、『浪合記(なみあいき)』からの引用で、「徳川有親(ありうじ)親氏(ちかうじ)父子」という記述がある。が、これなども後世に作者の思い込みで書かれたものだ。

では、なぜ清康が世良田姓を使ったのか。結論から言ってしまうと、今もって謎だ。松平家はもともと在原(ありわら)の支流という伝承が先祖代々、地元にあって藤原系だ。

世良田姓を名乗った理由として、通説は、三河を統一し尾張進出も視野に入れ、いよいよ天下にうって出るためには、源氏姓でなければ他の豪族たちとつりあいがとれなかったからだ、とする。これ以上の解釈は現時点では無理だ。

清康が世良田姓で記されているものでもっとも有名なものが、愛知県岡崎市にある大樹寺(だいじゅじ)内に、建立された多宝塔の心柱に刻まれた文字で、「奉為逆修万疋奉加 大檀那 世良田次郎三郎清康安 城岡崎四代殿」だが、この他に三つの文書が残っている。

「大樹寺」(1)正門。

「大樹寺」(2)大樹寺内。国宝「多宝塔」。

岡崎市の大樹寺が発行する『大樹寺の歴史』には、漢文で正確に記されている。これでは内容がわかりにくので、『新編 岡崎市史 中世』からひとつ引用する。享禄四年(一五三一年)八月の大林寺に与えた禁制だ

<引用開始>

三州額田郡能見郷
拾玉山大林寺境内
一、山林竹木を伐採するの事
一、陣取(じんとり)放火の事
一、殺生の事、
右条々、違犯の族においては、厳科にしょすべきものなり、よって下知(げち)くだんのごとし、
世良田次郎三郎
享禄四年八月                 清康(花押)

<引用終了>

松永知彦です。知立(ちりゅう)神社に対する禁制は、「治郎三郎 清康」(天文弐年となっている)と書かれている。だが、これに関しては、偽書の疑いがある。また、先ほど引用掲載した大林寺への禁制は、世良田姓で出されているものがあとひとつある。こちらは松平家の菩提寺である、大樹寺へ出された禁制で、「松平次郎三郎 源清康」(天文二年[一五三三年]となっている)と書かれている。途中に「源」の字が差し込まれている。

史料はこれだけしかなく、なぜ、清康は唐突に世良田姓を使ったのか。また誰の発案なのか、まったく不明だ。ちなみに大樹寺の多宝塔は天文四年(1535年)に建立されている。

家康が、松平から徳川に改姓したのは、永禄九年(一五六六)十二月二十九日である。この時に、朝廷から従五位下(じゅごいげ)に叙せられて、三河守に任ぜられた。征夷大将軍に任ぜられたのは、慶長八年(一六○三)なので、徳川に改姓してから三十八年後だ。征夷大将軍に任ぜられる上で源氏系の姓は都合がよかった。

が、なぜ家康はその約四十年前に、松平から徳川に改姓したのか(副島隆彦注記。 松平から徳川に姓を変えたのは、1566年12月29日。朝廷の許可を得てやったことになっている。このことは歴史年表にも載っている)。

一般的な学説は、先ほども述べたように、朝廷から従五位下、三河守(みかわのかみ)に任官されるには、いわゆる「源平藤橘」(げんぺいとうきつ)でなければならなかったためだ、とする。正式に「三河を完全に平定し、一国の主である。」と示す独立宣言であったというものだ。しかし、松平家も、藤原系の由緒ある家系である(とされている)。松平のままでは、ほんとうにいけなかったのか。説得力のある説明はどこにもない。徳川だって源氏の支流だ。もっとも源氏や平氏のほうが当時は藤原よりも格が上だったかは分からない。

『新編 岡崎市史 中世』によれば、近衛家(このえけ。副島隆彦注記。藤原系の五摂家の筆頭)が所蔵する『将軍家准摂(じゅんせつ)徳川家 系図 事東求院殿 御書』にある「徳川は源流にて二流の総領の筋に藤氏に罷成 候例 候」という記述あること。それと家康が一時、藤原家康と署名した文書があること。

またそれらは偽作ではないこと、さらに家康の子秀忠が、天正十八年(一五九〇年)に没した継母(けいぼ)豊臣氏(朝日姫、あさひひめ。副島隆彦注記。秀吉から和睦で無理やり家康の正室として、押し付けられた、秀吉の実の妹。すでに45歳ぐらいの老婆であった )の 諷誦文(ふうしょうぶん) に 藤原秀忠と署名していることなどを根拠にして、永禄十年から慶長七年まで、徳川氏は、藤原氏であった、と解説している。

『新・歴史群像シリーズ⑫【徳川家康】』にも「藤原姓徳川となったが、のち、源氏姓徳川に乗り換えている」と素っ気なく書かれている。この徳川姓藤原支流説は、興味深い研究ではあるが、しかし、根本的な疑問である「ではなぜ、徳川に姓を変えたのか?」に答えていない。この疑問は、家康、本人にきいてみるしかないような類のものだ。

諸書によれば、松平家の家紋は「五々の桐」をはじめとする桐紋(きりのもん)だ。それに対して徳川家の家紋は言わずと知れた「三つ葉葵」だ。また、松平氏はもともと「剣銀杏(けんぎんちょう)紋」を使用していたとする説もある。実際、八代目の広忠(ひろただ)の墓には「剣銀杏紋」が彫られていたという。村岡氏は、家康が先祖代々受け継いできた「桐紋」からまったくちがう「葵紋」に変えたことを、おかしいと指摘している。

徳川家が「葵紋」を選んだことの理由として二説が、『新・歴史群像シリーズ⑫【徳川家康】』に記載されている。

<引用開始>

徳川将軍家の葵紋の由来にはいろいろな説がある。葵紋は、そもそも京都賀茂(かも)神社の神紋であった。葵祭り(あおいまつり)には社前を飾り、神官・職員も衣冠につけ、車や御簾(みす)にもかける。

この紋を徳川家が家紋として使うようになったのは、3代家光が賀茂朝臣(かものあそん)を称してからだという。

また、愛知県宝飯郡(あいちけん・ほいぐん)にある伊奈城(いなじょう)跡には、三葉葵(みつばあおい)の起源を伝える葵ヶ池(あおいがいけ)がある。伊奈城主の本田正忠が松平清康 を城中に迎えて、水葵の葉に肴(さかな)をのせて馳走(ちそう)したところ、清康はおおいに喜んで、「葵は汝が紋なり。我に賜(たまわ)らん」と言って本田家の家紋を譲り受けた、という言い伝えもある。

<引用終了>

こういうおかしなことを書いている。 つづいて、村岡素一郎氏の外孫にあたる、作家の榛葉英治(しんばえいじ)氏が、『改訂新版 日本史の謎』(世界文化社、2004年刊)の251~255ページに書いている。この『徳川家康“替え玉説”の真相』の中にも、葵紋に関する記述があるので引用する。

<引用開始>

家康は上州(今の群馬県)徳川郷を御朱印地(ごしゅいんち)、不輸不入(ふゆふにゅう。免税)の地とした。さらに三代将軍家光(いえみつ)は、日光東照宮を大改築した際に、その古宮を先祖ゆかりの地の新田郡世良田村長楽寺(ちょうらくじ)に東照宮として移した。(副島隆彦注記。これが、徳川東照宮という、寂(さび)れた、みすぼらしい神社として今も残っている。 それを私は、2014年5月19日に現地に行って確認してきた。)

家康が松平家の者であるならば、姓については、松平家康 と名乗る

(副島隆彦注記。松平元康という名を、「家康」に変えたのは、1563年7月6日。歴史年表にも載っている。そして、この直後から、松平郷全体で、「おかしい」という怒りが起きて、?「三河一向一揆」が勃発している。私、副島隆彦の考えでは、これは、岡崎城主=すなわち自分たちの一族の頭領である元康が殺されてすり替わったので、それに対して、一帯の松平氏が、反乱を起こしたのだ。だから、正しくは、「松平一族の反乱(内紛)」と訂正すべきだ。 この松平氏諸族の岡崎城を中心とする三河一帯での反抗は、翌1564年2月28日には、鎮圧、平定された。)

ほうが自然だ。松平の家紋は「五々の桐」であり、徳川は「葵」である。上州の世良田村には葵の紋の家が多くて、別名、葵村ともいわれた。

<引用終了>

松永知彦です。家康が、すり替わったあと2年で、徳川の姓を名乗ったのは、やはり、もともと松平家とはなんの関係も無い人間だったからだ。また、祖父とされる清康(きよやす)が、世良田(せらた)姓を使っている、にもかかわらず世良田姓を選ばなかったのは、元康の死後、入れ替わったときに、一度その姓を捨てているためである。また元康自身はすり替わったあとは、世良田姓を一度も使わなかったことに起因している。

その前は、世良田二郎三郎元信(せらたじろうさぶろうもとのぶ)と名乗っていて、すり替わったあと松平蔵人元康(まつだいらくろうど・もとやす)と同一であることが、露見してしまうのをおそれたからだ。 源氏系の中でも特に希少な徳川姓を採用したのは、実父が上州の徳川郷に由来する人物だとの確証が、家康自身にあったからだろう。徳川姓を採用したのはこのような事情からだろう。

群馬県太田市徳川町の地図

また、葵紋を使ったのも同様の理由で、先祖が、上野国新田郡世良田庄 得川郷(とくがわごう )の通称「葵村」の出生であることになんらかの確証があっただろう。

先に引用した『新・歴史群像シリーズ⑫【徳川家康】』から引用した2説、とりわけ後者の、清康の肴にまつわる伝承については後世の創作であろう。

三、清康の側室とされる 源応尼(げんおうに) について

通史では、幼い頃の家康が駿府(すんぷ)在住のころ、祖母である源応尼( 俗称お万 =まん=) に世話をしてもらった、という。通史でいわれているこの逸話は、史料によっては、居住地や年数などに若干の相違はある。数々の文献や史料、伝承や事績などによりほぼ間違いないだろう。なにより、家康自身が、華陽院(けいよういん・静岡市)の扁額(へんがく)として残っているのだが、「幼少時、(私は)この地(駿府)で、祖母源応尼(げんおうに)の慈愛に触れた」と自著で書き残している。この寺の扁額は第二次大戦の戦乱で最中(さなか)に焼失しているが、『史疑』にしっかりと全文が書き写されている。

祖母というぐらいだから、源応尼は、家康の祖父である清康(きよやす)の奥さんでなければならない。そして、この源応尼は、家康の実母である於大(おだい)の母親でなければいけない。ところが、事態はそうは簡単にはいかない。

『新編 岡崎市史 中世』より引用する。(副島隆彦注記。この本は、地方自治体が書いて出している正式の市史だから、あんまりひどいウソは書けない。そこで、しどろもどろの書き方になっている。)

<引用開始>

(※かっこ内のふりがなは引用者)

家康の父は広忠(十六歳)、母は水野忠政(みずのただまさ)の女(むすめ)於大(おだい)(十五歳)。二人の婚姻は天文一○年(一五八二年)のことあったが、この婚姻は政略的なものであるとともに祖父清康(きよやす)の影をひいたものであった。 (中略)

清康の影とは、『松平記(まつだいらき)』がいう「広忠(ひろただ)の御前(ごぜん。正室)は水野右衛門大夫(忠政)女(むすめ)也、広忠と行逢 の兄弟也、父清康、広忠をもうけて後、水野右衛門大夫後家(ごけ)宮善七女(みやのぜんひちのむすめ)を迎給(むかえたま)ふ故也(ゆえなり)」とあるものである。

すなわち、広忠は、清康と青木貞景の女との間の子、於大(おだい)は忠政と大河内元綱(もとつな)女於富( 宮善七女、一説に青木式宗(しきむね) 女との間の子で、於富(おとみ) は忠政の死後は清康の妾となったから、広忠と於大は父母は異なるものの兄弟という関係によるものである。(中略)

問題になるのは清康の三人目の妻となる於富(おとみ)である。『松平記』は於富は水野忠政の没後、(その子)清康の室となったというが、忠政は、清康に遅れること七年の天文一二年(1584年)七月一二日に五一歳で没しているから( 『寛政重修緒家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』 )、これは正しくないことになる。

また、忠政と於富の間の子とされている子供五人のうち生年の知られる四人の生まれは、忠守(ただもり)が大永五(一五二五)年、於大(おだい)が享禄元(一五二八)年、忠分(ただわけ?)が天文(一五三七)年、忠重(ただしげ)が天文一○(一五四一)年となっており、於大と忠分の間に近信がいることを考えると、於富は清康の妻となった可能性は皆無といってよかろう。

それにもかかわらず、『松平記』のみならず近世の幕府編纂の諸書までが、於富は清康の死後は星野秋国(ほしのあきくに)、菅沼興望(すがぬまおきむ)、川口盛佑(かわぐちもりすけ)と、さらに三度嫁したというのは、一体何によった話であろうか。さらに竹千代(家康)の駿府在住時代に、源応尼(げんおうに)と称して、竹千代を一六歳まで養育し、七○歳で永禄三(一五六○)年に没したというにいたっては、どう解釈してよいのか判断に苦しむ。守山崩れで清康が二五歳で死んだ折、於富は四○をこえていた計算になるからである。

なお、天文九年の安城(あんじょう)合戦で討死した源次郎信康(みなもとのじろう・のぶやす)を清康と於富の子とする説もある。当時(息子の)広忠(ひろただ)は一五歳で、弟という信康 (副島隆彦注記。ここでは、一体、何を書いているのか、もはや意味不明。 元康が広忠の息子である。さらに、信康はその元康の長男坊である。

それなのに、「弟という信康」と書いている。もしかしたら、信康という人物が二人いたのか。 ) はそれ以下の元服間もない一二、三歳となろうが、それでも享禄元(一五二八)年か二年頃の生まれとなる。これは於大(おだい)と同い年位となって、到底成り立つ話ではない。

とにかく、於富なる人物の生涯は謎だらけであるが、それが何の不都合もなく通用していた時代があったことも事実である。

<引用終了>

松平氏と水野氏をめぐる家系略図(定説)

松永知彦です。このようにおかしな記録になっている。家康の祖母の源応尼(げんおうに)は、家康の幼少時に駿府で彼の世話をしたことは事実である。だから、岡崎城主・松平清康の妻だった、というのは、明らかに成り立たない。この泥縄の辻褄合わせを受け入れると、三河の松平家(岡崎城主)との関係が分からなくなる。

これは結局のところ、源応尼(俗称お万、またはお萬)と於富(清康の本当の妻だった女性)とは、別人物だということだ。それに、そもそも名前が於富とお万だから全く別人なのだ。少し前までは、家康の祖母はお万(または、お萬)のほうが一般的には多用されていたはずなのだ。事実は、大河内元綱の娘で岡崎城主の清康の妻になったのが於富であり、ずっと駿府(今の静岡市)にいて宮の善七の娘という女が、お万(源応尼)だ。

徳翁斉と徳阿弥、松平元康と世良田元信、そして今回の、於富とお万ですが、もともと、全く別の二人の人生を、ひとつにしてしまったから、古文書の記述があまりに多岐に乱れ、各地の伝承や事跡と辻褄が合わなくなったのだ。

(副島隆彦注記。松平元康謀略で殺して、すり替わったので、どうしても、その配偶者や親兄弟の家系までも無理やり捏造しなければいけなくなったのだ。そして、どうしても辻褄が合わなくなってしまう。)

『学界の反論』への反論

一、銭五貫と銭五百貫

私が前章で引用した、『改訂新版 日本史の謎』(世界文化社、2004年刊)の榛葉(しんば)氏の『徳川家康“替え玉説”の真相』の次、256~257ページの見開き2ページにわたって、静岡大学教授である小和田哲男(おわだてつお)氏が、『替え玉説-学界の反論 学界の最先端から見た「徳川家康替え玉説」』という見出しで、村岡『史疑』に対する反論を展開している。

たった限られた二ページの中で、「 『駿府記(すんぷ)』の記述に対する解釈の仕方と、「世良田姓」の二つでもって「“家康替え玉説”の成り立つ余地はないといえよう」と結論づけている。だが、大和田哲男の反論が、まるで反論になっていないと私は思う。

再び礫川(こいしかわ)氏に再登場願って、「学界の反論」に反論したいと思う。

この小和田氏の反論文はいつ書かれたものか分かりませんが、『日本史の謎』(2005年1月1日発行と表紙カバー裏面に書いてある ) は、現在でも書店で注文すれば購入できる。だから、日本史学界の最新の見解として、とりあげる。尚、榛葉英治(しんばえいじ)氏は、一九九九年二月に、八十六歳で亡くなられた。

小和田哲男教授の主張を、私たちが正確に理解する為に、少々長いが引用する。

<引用開始>

(※かっこ内のふりがなは引用者)

村岡素一郎が「替え玉説」を思いついたのは、『駿府記』の慶長十七(一六一二)年八月十九日の記事だったといわれる。『駿府記』の原文は漢文なので、ここでは、八月十九日の記事部分をつぎに読み下しにして引用しておこう。
(中略)

(大御所様が)御雑談の中、昔年、御幼少の時、又衛門(又右衛門)某ト云う者あり、銭五百貫御所に売り奉るの時、九歳より十八、九歳に至る。駿河国に御座の由(よし)談ぜしめ給う。緒人伺候(しょじんしこう)皆これを聞くと云々。

村岡素一郎はそこに、「(家康が)昔、幼少の時、又衛門という者に五百貫で売られたことがある」と記されているのに注目し、幼少時代の事績に疑念を抱き、いろいろと調べた結果として「家康替え玉論」を導き出したというわけである。

『駿府記』は、その異本『駿府政事録』とともに著者は不明である。林羅山ともいい後藤庄三郎(ごとうしょうざぶろう)ともいわれている。著者は不明ながら、書かれている内容は正確で、史料としての信憑性の点では定評がある。

史料的価値の高い『駿府記』に「わしは幼いころ、五百貫で売られたことがあった」と、家康が近臣たちに話していたわけで、村岡素一郎はこの記事をもとに、ささら者出身の子どもが願人坊主酒井常光坊(さかいじょうこうぼう)に売り飛ばされたという話を作っていったのであった。

では、史実としてはどうなのだろうか。『駿府記』がうそを書いていたととらえてしまうのは早計である。『駿府記』の記載に間違いはなく、むしろ、村岡素一朗の読み取り方の側に問題があったとするのが、学界の主流的な考え方である。

実は、家康が、「わしは幼いころ、五百貫で売られたことがあった」と述懐したことに対応する事件があったのである。天文十六(一五四七)年八月のことであるが、そのころ竹千代といっていたのちの家康は、松平広忠から今川義元のもとに「人質」として送られるべく、岡崎をでて、渥美半島の田原(たはら)経由で駿府に向かっていた。

ところが、田原城主戸田康光(とだやすみつ)が竹千代一行をあざむき、舟に乗せて尾張に運んでしまい、織田信秀に渡してしまったのである。そのとき、戸田康光は信秀から謝礼としてお金をもらっており、竹千代の側にしてみれば、織田側に売り飛ばされたとおなじことであった。

事実、大久保彦左衛門忠教(おおくぼひこざえもん・ただたか)の著した『三河物語』には、「田原之戸田少弼殿(とだしょうのすけ)ハ、広忠之御為(おんため)にハ御婚なり。竹千代様之御為にハ継祖父なり。然共、少弼殿、織田之弾正之忠(おだだんのじょう・これただ)え永楽銭(えいらくせん)千貫文に、竹千代様ヲ売サせラレ給ひて・・・・」とみえ、竹千代が、売られたという表現を使っているので、そうした意識があったことはまちがいない。

つまり、『駿府記』に、「わしは幼いころ、五百貫で売られたことがあった」という家康の言葉がみえるのは、村岡素一郎がいうように、願人坊主に売られたことをさしているのではなく、「人質」として本来今川方におくられるところを、敵織田方に横取りされたことをさしていたと見るのが正しい見方である。

<引用終了>

松永です。この小和田哲男の解説文には、最初の章で、私が重引用した、桑田忠親(くわたただちか)氏が書いたあらすじと共通している箇所がある。『駿府記』と「銭五百貫」そして、この時の事件についての見解だ。
日本の戦国時代を専門とする二人の日本史学者は、『駿府記』の「銭五百貫」を元に話をすすめているが、ここで礫川(こいしかわ)氏の桑田氏に対する反論文を『史疑 幻の家康論』から引用する。

<引用開始>

史疑―幻の家康論

桑田氏はこう反論する。『駿府記』の記述は、竹千代が駿府に送られる途中戸田康光に奪われ、銭五百貫文で織田信長 (引用者注※:ここが、織田信秀ではないことに注目) に売られた史実に基づいている。何も不審を抱く必要はない、と。桑田氏の反論は詰まる所これだけである。(中略)

桑田氏が言及している、その一点についての反論が、(それ自体が)ごまかしなのである。『史疑』のどこを見ても『駿府記』の引用はない。「銭五百貫」という言葉もない。村岡素一郎は『駿府政事録』を引用し、そこに「銭五貫」とあるのに注目しているのである。(しかも、別に村岡は、これが研究を始めた動機だったと言っているわけでもない。)

相手の主張を改竄して紹介し、それに反論するというのでは反論とはいえない。それ以前にフェアーでない。なぜ桑田氏は『駿府政事録』をあえて『駿府記』に置きかえたのか。「銭五貫」を「銭五百貫」にすりかえたのか。

<引用終了>

松永です。礫川氏はこのあと『駿府政事録』と『駿府記』の違いについて、ひとしきり解説しているが長くなるので、要点のみ簡単に説明する。『駿府政事録』は『駿府記』から和臭(わしゅう)を取り、漢文体の公式日記としてあること。また『駿府記』にはない家康・秀忠と林羅山(はやしらざん)との論議が詳述されていることなどが主な違いで、表現は若干違うが書いてある内容はほぼ同じだ。

また、『駿府記』のほうは、『史籍雑纂』(しせきざっさん)の第二に収録されている。しかし、『駿府政事録』のほうは『脱漏(だつろう)』の一巻のみが、『改定史籍収集覧』の十七巻に納められているのみだ。私も双方とも、愛知県立図書館の閉架で確認した。

『駿府記』の著者はおそらく林羅山だろう。しかし、『駿府政事録』の著者は、林羅山説と後藤庄三郎光次(ごとうしょうざぶろう・みつつぐ)説がある。理由は説明しないが、私は後藤光次説を支持する。引用を続ける。

<引用開始>

桑田氏は両書を同一のものだと考え、無意識に『駿府政事録』を『駿府記』と置き換えてしまったのだろうか。しかし、桑田氏は、慶長十七年(1612年)八月十九日の候(こう。個所のこと)で、両書の記述に違いがあることを知っていたはずである。やはりこの「置き換え」は許されることでなない。(中略)

あるいは、こうしたことが言えるかもしれない。『駿府政事録』は、ほぼ『駿府記』を筆写したものである。駿府記にある「銭五百貫」を写し誤り、「銭五貫」としてしまったのではないか(こういう誤りはありがちだ)。少なくとも、桑田氏はそのように考えていた可能性がある。氏はそうした考えた上で、気をきかせて、先のような差し替えをおこなってしまったのではないか。桑田氏の「差し替え」を善意に解釈すればこうなる(だとしても、氏がその旨を説明してないのは論外だが)。 (中略)

私が、銭五百貫、銭五貫にこだわるのは、その差があまりに大きいからである。銭四貫で一両とすると銭五貫は一両強。当時の物価はよくわからないが、今日でいえば大体十数万円といったところだろう。ところが銭五百貫では一二五両、今日の一千数百万円にも相当するだろう。

素性の知れない小坊主を誘拐して売り飛ばす金額としては十数万円がふさわしい。しかし、人質となるはずの武将の嫡子を奪取し、取引先の材料とする際には、一千数百万という額が妥当だろう。この差は重大なのである。

にもかかわらず桑田氏は、『史疑』にある銭五貫文を勝手に銭五百貫と差し替え、あたかも、村岡が最初からその前提で議論を進めていたかのように作為している。これはどう考えてもフェアーではない。はっきり言えば極めて疑わしい態度である。

村岡素一郎はこう推測していたはずである。家康は、晩年、親しい者たちの前で、ついうっかり自分が、「銭五貫」で売られた事実を口にしてしまった。一座の者は意外な言葉に驚き、あっけにとられた。史官はこれを深く印象に刻み、記録に残した。念のため史官は、「緒人伺候、衆皆聞之」(その場に居たものは、皆これを聞いた)と書き添えることを忘れなかった。

村岡説は決して妄説ではない。「銭五貫」が真実で、「銭五百貫」の方が真実を糊塗する「政策的」改竄である可能性も否定しきれないではないか。

<引用終了>

松永知彦です。上記の引用文の「桑田氏」を「小和田氏」に置き換えるだけで、それ以上何も言う必要がない。

ここで、問題の家康本人の述懐について、『駿府政事録』と『駿府記』との記載のちがいを引き続き『史疑 幻の家康論』から重引用する。

<引用開始>

○御雑談の内、昔年御幼少之時、有又衛門某云者、銭五貫、奉売御所之時、自九歳至十八九歳迄、御坐駿府之由、令談給、諸人伺候、衆皆聞之云々。
〔『史疑』 引用文、返り点略〕

○御雑談之中、昔年御幼少之時、有戸田又右衛門某者、銭五百貫奉売御所之時、自九歳十八九歳、御坐駿河国之由、令談給、諸人伺候衆皆聞之云々
〔国会図書館写本、返り点なし、読点は朱筆〕

○御雑談中、昔年御幼少之時、有又右衛門某と云う者、銭五百貫奉売御所之時、自九歳至十八九歳、御坐駿河国之由令談給、諸人伺候皆聞之云々
〔『駿府記』刊本、返り点略〕

<引用終了>

松永知彦です。二つ目の国会図書館写本というのは、礫川氏が直接確認した『駿府政事録』の写本だ。天保七年(1836)に、林衡(はやしひら。林羅山の子孫)が写したものだそうだ。

現在のところ、『駿府記』の成立は『駿府政事録』以前とされているが、礫川氏の、その後の研究によればそうとも言えないらしい。どうやらこの二つ以外に『駿府日記』というものがあった。これも林羅山が書いたものらしいが、はっきりとはわからない。大火(副島隆彦注記。1657年明暦の大火。同年、林羅山死去。)で焼失してしまって、現在に伝わっていないが、『駿府記』にしても『駿府政事録』にしても、どうもこの『駿府日記』を写した可能性がある。だからどちらが先なのか、ということは厳密には決められない。

この小和田氏からの反論文に対して、私、松永にもひとつ言わせてもらう。小和田氏は、「銭五百貫で売りわたされた話は、田原城主戸田康光が、竹千代一行を騙して、田原から(潮見坂という説もある)熱田まで行き、織田信秀に売ったことである」と通史でいわれている通りのことを書いている。が、村岡氏はこの事件についても、古文書を根拠に、独自の見解を示している。『史疑 現代語訳版』から引用する。

<引用開始>

(※かっこ内のふりがなは引用者)

この熱田上陸ののち、公 (注:世良田元信) らは、(さらって来た)幼君竹千代をどこに置いて介抱したのか。諸書には熱田大宮司に納(い)れるとあるが、肯(うなづ)けない。

左の文書は、熱田の住人、加藤忠三郎(ちゅうざぶろう)の家に伝えられてきたものである。そこには、事実や、年齢などについて若干の錯雑分乱(さくざつらんぶん)が見られるが、幼君竹千代が加藤の宅に寄寓した事実を記した文書であることに変わりはない。

東照宮様(とうしょうぐうさま)が御幼年の時、今川義元の人質となっておられたのを、三州田原城主、戸田弾正忠憲光(とだだんじょうのりみつ)とその子息五郎(ごろう)が、三河の塩見坂(しおみざか)で奪い返し、織田信長公へお送り奉った。

そして、加藤図書助(かとうずしょのすけ)と加藤隼人助(かとうはやとのすけ)の両名に対し、内府〈内大臣〉信長公より、よろしく養育するようおおせがあった。こうして図書之助宅に、六歳から八歳までおられた。

この間、加藤隼人佐の妻よめ〈名前か〉、これは図書之助の娘にあたり〈隼人佐は図書之助の入婿か〉、また忠三郎の母にあたりますが、このよめが、東照宮様のために日夜お世話をいたし、その際、御退屈をお慰めするために、御前にて造って差し上げ、もてあそんでいただいたのが、この雛人形である。右の御書(おんかき)、証書類十一通、梨子地(なしじ)の御杯(ごはい)、桐の御紋、陳馬織(じんばおり)各一、雛人形二対、これらを当家伝来の宝とする。

右の書中、「内府信長公 被仰付 」(内府信長公ヨリ仰セ付ケラレ)とあるが、(家康)公が六歳(1543年生)の時は、信長はまだ十四歳(1535年生)にすぎない。(このことから)この人質(の赤子)が、東照公ではなくて、(松平元康の長男の)松平信康(のぶやす)であったことがわかる。この時、すなわち永禄三年(1560年、5月20日が桶狭間の戦い) の時点で、信長は二十七歳、公が十九歳、幼君信康は二歳であった。

書中、六歳の男児に雛人形を差し上げたとあるのも、よくわからない。しかし二歳の幼児に、おもちゃとして与えたというのであれば、やや腑に落ちる。また、盃に桐の紋章があったとあるが、桐は松平の定紋である。この記述は、右の文書が考証に足るものであることを示している。

<引用終了>

松永です。通史では、この人質奪取の事件は天文十六年(1547)にあったことになっている。そしてこの時、信長は十四歳だ。八歳違いである竹千代と呼ばれていた家康は六歳だ。人質となっている竹千代と、信長はここ(副島隆彦注記。通史では熱田神宮で、ということになっている)で、親友となったと通説にはある。

が、十四歳の信長が六歳の竹千代(のちの家康とされる)と、親友のような間柄になった、とはちょっと考えにくい。(副島隆彦注記。いくら何でも、通史のバカ学者どもであっても、このことがどんなに荒唐無稽か、気づくはずである。)

通史では、家康は尾張で二年間の人質生活ということになっているから、信長が十八歳で、竹千代が八歳になったとしても、信長はこの時、すでに濃姫(のうひめ。美濃の斎藤道三の娘)と夫婦であるから、そのような男が、八歳児と親友とは、なおさら考えられない。そして、六歳から八歳の武将の子に雛人形はないでしょう。

この時の人質は、だから、真実は、松平元康の子で、当時一、二歳であった信康でなければおかしい。(副島隆彦注記。私の研究では、2歳で駿府からさらわれたてきた信康は、渥美半島からぐるりと回ったところにある三河湾の篠島(しのじま)、日間賀島(ひまかじま)あたりに匿(かくま)われている。そして、一年後ぐらいに、世良田元信が、「元康公のご長男、信康公を、私が、救い出してきましたぞ」と、岡崎城に持ちかけて、和睦をなし、そして、まんまと世良田元信の徒党(ととう)が、岡崎城内に入り込んだのである。それが、1561年中に起きたことだ。)

そもそも‘岡崎三郎’松平信康は、その後、信長の末娘である五徳(ごとく=徳姫、とくひめ)を妻にしている。このことは周知の事実だ。(副島隆彦注記。この結婚は、1567年(永禄10年)である。計算すると、信康も徳姫もどちらも9歳前後である。信康は、自分の父親の元康が、信長の謀略で1561年に殺されて、自分は形ばかりの岡崎城主にされて、21歳まで生かされたことに、自覚があっただろう。)

通史では、信長が五徳を信康の嫁にすると決めたのは、清洲同盟(1562年1月)の時とされている。 信長は荒い気性とはうらはらに子煩悩であったという話もある。「熱田の万松寺?で信長と人質の竹千代が親友となった」という通説 は、ここで信長が、自分の元に連れて来られた竹千代(信康)をかわいがった、という伝承のすり替えだろう。

(副島隆彦注記。私の研究では、さらわれて隠されていた2歳の赤子の竹千代=信康は、信長の元に送られたのはにせものの赤子で、本物の信康は、ずっと世良田元信の管理下にあって、そのあと、岡崎城の元康との和睦交渉で使われて、一年後に、岡崎城に帰っている。)

信康は、松平元康の長男であるにもかかわらず、21歳の若さで(家康に)切腹させられるまでに、生涯、松平姓も徳川姓も名乗っていない( 名乗らせてもらえなかった?)。 このあたりの経緯に、なにか重大な事実が隠されているような気がする。

ともかくも、人質になった竹千代は信康だから、実際の年号は永禄三年(1560)から四年(1561)あたりとなる。それでは、戸田弾正康光は、誰から竹千代を潮見坂(しおみざか)で奪ったのか。(副島隆彦注記。ここからあとは、松永説を、私が消しました。筋道が通らない。)

八切止夫(やぎりとめお)氏によれば、岡崎城主の元康と正妻の瀬名姫(せなひめ。築山殿) 夫婦のもとに、駿府で盗み出した竹千代(信康)を奪ってしてきた世良田元信・・・・(意味不明)・・・・1560年5月20日に、桶狭間で( 副島隆彦注記。桶狭間は、事実は、桶狭間山(おけはざまやま)であり、その南に300メートルぐらい下ったところの 田楽坪(でんがくつぼ)で、今川義元は首を取られた。今は、「古戦場跡」という小さな公園になっている。現場で確認してきた。)

参考地図

主君の今川義元が信長に討たれたあと、どうしていいか分からないままに、自分の居城の岡崎城へ戻ってきて立て籠もった松平元康が、今川義元の弔い合戦をしようとしてか、自分の子供(信康)を連れ帰ってきたので信頼してしまって、城内に入れてしまい、自分の見方だと思い込んでしまった、世良田元信にそそのかされて、永禄四年に尾州森山(びしゅうもりやま)へ出陣した。

ところが、元康は、小幡が原(おばたがはら)で背後から斬り殺された(1561年12月4日)。そして、世良田元信がこれに入れ替わり、まわりの重臣たちを押さえ付けて、その後、計画通り、翌々年1562年の1月には、信長のいる清州城に参上して、「清洲同盟」を結んだ。

(副島隆彦注記。私の説では、初めから世良田元信は、今川方の戦争スパイでありながら、本当は、信長のスパイであった。だから、元信=のちの家康は、初めから信長の家来であった。これが、副島隆彦説である) ・・・・・村岡氏の説とは若干違いますが、八切氏の説のほうがすっきりしていて無理がない。

ここで引用されている加藤家所蔵の古文書の真贋(しんがん)は、私、松永知彦には判断できない。ところが、小和田哲男静岡大学名誉教授は、大久保彦左衛門忠教(ただたか)の『三河物語』の記述を根拠として、通史のとおりだと主張する。もし、小和田氏が、村岡氏の見解について、反対するのなら、もっと明瞭な根拠をたてて反証すべきだ。

大きく膨らました作り話と手柄話ばかりが書いてあるので、今では日本史学界で信用されていない『三河物語』が根拠では、あまりに説得力に欠ける。そして、『駿府政事録(すんぷせいじろく)』にはっきりと書かれている家康自身の述懐(じゅっかい)との整合性を示さなければならない。

榛葉英治(しんばえいじ)氏が、ご自身の著書『史疑 徳川家康』(雄山閣出版、1991年刊 )の中で主張しているとおり、林羅山が書いた『駿府政事録』の記述を、書いてある通りに解釈するのが正しい。そこには、「幼少の頃、(戸田彈正康光でなく)又衛門某に、(銭千貫文ではなく)銭五貫文で売られ、(熱田ではなく) 駿府(駿河国)に九歳から十八、九歳まで居た、と家康が皆の前で語った」と書かれているのである。

次に、世良田姓を根拠としたことの、小和田氏からの反論だ。まずは、小和田氏の主張を、同じく『日本史の謎』から引用する。

<引用開始>

さて、村岡素一郎が「家康替え玉説」を思いついたもうひとつの要素が家康の名前である。『史疑 徳川家康事績』を読んで気がつくことは、別な人物が家康にすり替わっていく上で、名前の変化が関係しているという点である。村岡素一郎は、家康に関係する史料を調べていくうちに、世良田二郎三郎元信という名前にぶつかり、これを、のちの家康の松平元康とはちがう人間であるととらえたことがそもそもの出発点だったように思える。

たしかに、松平元康という名前にくらべ、世良田二郎三郎元信という名前はあまり一般的ではない。明治三十五年(1902年)といえば、松平氏の系譜研究も今日ほど進んではおらず、ある意味では仕方のないことではあったが、村岡素一郎は、強引に、この世良田元信が松平元康を殺し、元康にすり替わり、それがのちの家康になったとしているのである。

ところが、松平氏の系譜を調べていくと、家康=元康=元信の祖父清康が大檀那となって大樹寺(だいじゅじ)に多宝塔を建立したとき、その心柱に「世良田次郎三郎清康」と書かれているのでまちがいはない。また、元康と名乗る前、元信と名乗っていたことは、「大泉寺(だいせんじ)文書」や「高隆寺(こうりゅうじ)文書」などによっても明らかなので、名前の点からも「家康替え玉説」の成り立つ余地はないといえよう。

<引用終了>

松永です。以上が、世良田姓を根拠としたすり替わり説への小和田氏からの反論だが、かなりの部分に違和感がある。何の説得もできていない。ただの居直りのひどい文だ。

小和田氏は、「村岡素一郎が「家康替え玉説」を思いついたもうひとつの要素が、家康の名前である。(中略)村岡素一郎は、家康に関係する史料を調べていくうちに、世良田二郎三郎元信という名前にぶつかり、これを、のちの家康の松平元康とはちがう人間であるととらえたことがそもそもの出発点だったように思える」と書いている。が、これは誤解でだ。村岡氏が家康の出自に疑問をもつきっかけとなったのは、以下の八つだ。『史疑 現代語訳版』から引用する。

<引用開始>

(※かっこ内のふりがなは引用者)

第一着。 明治二十年(一八八七)ごろ、東京毎日新聞の付録として、家康の画像が配布された。これはもと秋元(あきもと)子爵家秘蔵のものだそうだが、これがどう見ても貴人の相には見えない。館林(たてばやし)善導寺(ぜんどうじ)に蔵するものも同様という。これが、家康の出自について(私が)疑惑を抱いた第一の理由である。」

第二着。(松永です。二着目は、前述した、府中称名寺(ふちゅうしょうみょうじ)において親氏(ちかうじ)の墓が発見されていたことです。)

第三着。徳川家では、毎年正月元旦に(江戸城内で)羹(あつもの)を食べる佳例(けいれい)があった。これは、徳阿弥が(親氏)が、永禄十二年(1440) の正月元旦に、信濃の山奥で林藤介(はやしとうすけ)の家に泊めてもらった折に、兎の羹(あつもの)をすすめられ、以来武運が開けた故事に由来するという。松平家に入婿(いりむこ)としてはいった時宗の行者にかかわる故実だとはとても思えない。

第四着。家康の正妻築山殿(つきやまどの)が殺害され、その子信康(のぶやす。岡崎城主 )が(二股城まで連れてゆかれて)切腹させられた事件については、何か秘密が隠されているに違いない。この両者の墓所は、旧幕時代には雨露をしのぐ塔舎(とうしゃ)すらなかったという。

第五着。(松永です。五着目は、前述した、『駿府政事録』に記述されている家康の述懐が史伝と相違していることです。)

第六着。「一富士、二鷹(たか)、三茄子(なずび)」という言葉があるが、これは家康の好物を指すという。茄子(なす)を好むということは、幼児に貧賤であって、これを多食したためではないか。なお家康は、老後も麦飯を用いていたという。

第七着。家康は晩年、駿府(静岡)八幡小路(はちまんこうじ)にある老翁(ろうおう)を訪ねている。老翁は齢九十歳余。家康の従士は、老翁に対して顔を上げないように命じたという。この老人は、幼児の家康となんらかの関わりがあったのだろう。また、(家康が大名に成ってからの)家康の母、伝通院(でんづういん)( 通称、御簾前 おんすだれまえ。 於大=おだい= ) は、常に帷簾(すだれ)の奥に座し、侍婢(じひ)といえども、その容貌に接しえなかったという。

第八着。家康は駿府の山川風物に非常に愛着を持っていた。これは、人質として滞在していた者の感情というより、幼児から山に遊び川に釣りした者の感情ではあるまいか。

<引用終了>

松永です。以上、八つの項目が、村岡氏の着眼点(研究の出発点)だ。

小和田氏は、つづけて「村岡素一郎は、強引に、この世良田元信が松平元康を殺し、元康にすり替わり、それがのちの家康になったとしているのである。」と何の根拠も示さずに書いているだけだ。村岡氏の『史疑』は、森山くずれや、人質の身分では到底ありえないような、各地の事績に関する古文書を根拠とし、それを村岡氏なりにきちんと解釈して、世良田元信が松平元康に入れ替わったと主張している。

決して強引ではないし、そもそも、村岡氏は、「世良田元信が松平元康を殺した」とは書いていない。「森山くずれは、実際には元康に起こった事件であり、弥七郎に刺し殺されたのは清康ではなく元康である。」と明確に主張している。

そして、これで最後ですが、小和田氏が書くとおり、「家康=元康=元信 の祖父の清康が大檀那(だいだんな)となって大樹寺に多宝塔(たほうとう)を建立したとき、その心柱に「世良田次郎三郎清康」と書かれている」のは事実だし、「家康が元康と名乗る前、元信と名乗っていたことは、「大泉寺文書」や「高隆寺文書」などによっても明らか」だ。しかし、なぜ、いきなり「名前の点からも「家康替え玉説」の成り立つ余地はないといえよう」という結論に達するのか、理解に苦しむ。

確かに、村岡氏は「世良田二郎三郎元信」という名前が、どこから見つけたのか、その根拠を示していない。この点については、私も村岡氏に一言文句を言いたい。

村岡氏は『史疑』を書き上げるために、各地へ取材旅行をしている。上州(群馬県)の新田郡世良田郷で、なんらかの情報を得たのかもしれない。

『史疑』の原文を読む限り、松平元康と松平権兵衛重弘(まつだいらごんべえ・しげひろ)との間に起きた、山中城(やまなかじょう)の攻防

(副島隆彦注記。世良田元信が、岡崎城に潜り込むための方策として、1560年中に、織田方に寝返った三河の武将たちの小城をわざと、攻め落として回った。その一つの戦い。)

を研究中に『大久保松平記』にある「三州加茂郡(さんしゅうかもぐん)の山中城に対し、酒井、石川、大久保ら息もつかず攻め立てければ、城兵若干 討死(うちじ)にし防戦(ぼうせん)かないがたく思いにしや、夜中に篝火(かがりび)を多くたき城兵共(ども)は、間道より次々に落ち失せ(たのでこれを)占領したり。山中城が 徳川発祥の地 といわれるは、これがためなり」という記述が『史疑』にある。

それともうひとつ、「山中城主 世良田二郎三郎元信」という伝承にふれて、この二つを根拠とし、世良田二郎三郎元信=徳川家康 と確信したと思われる。

村岡氏は、おそらく、松平元康は生涯通じて世良田姓を名乗っていないし、もともと、山中城は松平家のものだから、一時、今川氏が所領としていた時期があったにせよ、わざわざ、山中城主・世良田二郎三郎元信と主張するのはおかしい、これは別人である、と考えたのでしょう。また「発祥の地」とは、多くの史疑研究家が指摘するとおり、願人坊主あがりの世良田元信の記念すべき初の持城(もちじろ)という解釈だ。

これも私の推測だが、願人坊主として諸国を歩いていた頃の浄慶(じょうけい。6歳で寺に出された世良田元信が、付けられた名前 )が、多宝塔の心柱に刻まれてある「世良田次郎三郎清康 」の名を見て、「自分こそが、新田源氏の末裔であり、世良田姓を名乗るべき人間だ」と思い、元服後、自らを「世良田二郎三郎元信」と称したのではないだろうか。

いずれにしても、ほんものの元康が、「(松平)二郎三郎元信」と名乗っていたことと、多宝塔の心柱に刻まれている「世良田次郎三郎清康」の二つでもって、「名前の点からも「家康替え玉説」の成り立つ余地はないといえよう。」と結論づけるのは、論理の飛躍である。

『家康について、その他の異説』

家康について書かれてある膨大な量の書物すべてに目を通しているわけではないですが、調べてゆくうちに、『史疑』以外にも色々な説があることが分かった。

時代小説『影武者(かげむしゃ)徳川家康』隆 慶一郎(りゅう けいいちろう)著 (新潮社) は、家康は関ヶ原の合戦で死に、その後影武者であった世良田元信と入れ替わったというストーリーだが、ところどころで『徳川実紀(とくがわじっき)』をもとにした隆(りゅう)氏の独自の物語づくりがなされており、徳川家を美化するために計画的に編まれた『徳川実紀』も読み方によってはこのように解釈できるものかと、感心させられた。

ほかにも家康は、大阪冬の陣もしくは、夏の陣で死に(副島隆彦注記。大坂城内からの決死の覚悟で、家康の本陣を突いてきた、真田の軍勢(それが、後世「真田十勇士」の話になる)に家康は殺された、という説がある。) その後、入れ替わったなどという説もあるようだが、ここでは、それら数ある異説の中で、特に私が興味を覚えたものを紹介する。

まずは『戦国史の怪しい人たち』鈴木眞哉(すずきまさや)氏著(平凡社)の25~26ページから引用する。

<引用開始>

家康の死んだ直後に、秋田の佐竹義宣(さたけよしのぶ)が、国元に送った書状(「秋田・佐竹史料館所蔵文書」)にある家康の遺言などがそれである。義宣はもともと常陸(ひたち・茨城県)の大名だったが、関ヶ原の戦いのとき、西軍寄りの態度を取ったというので秋田へ移封された人で、家康臨終の前後には江戸にいたようである。

家康の遺言については、側近の金地院崇伝(こんちいん・すうでん)が書きとめたものが一般に知られている。それは、遺骸は駿河久能山に納める、葬儀は江戸の増上寺で行う、位牌を三河の大樹寺に立てる、一周忌の後に下野日光山に小堂を建てるといった項目から成っている。(中略)

それをどういう手づるによるものか、義宣はキャッチしていた。内容は崇伝の記しているところとほぼ同じであるから、出所はたしかであることがわかるが、一ヶ所だけ大きな違いがある。大樹寺に位牌を立てるのではなく、遠江(とうとうみ。浜松。浜名湖のあたり一帯。静岡県西部)に先祖ニ代の塚があるので、そこに自分の塚も築くようにと指示したというのである。

そこに言う「御せんそ(先祖) 御りょうだい(両代)」が誰を指すのかは明らかではないが、少なくとも、三河松平家歴代の中には遠江に墓所のあるような者は見当たらない。

<引用終了>

松永知彦です。遠江に先祖あり、というのは『史疑』にも若干つながります。諸国を流浪する祈祷僧(きとうそう)が実父だとすれば、直近の先代は遠江で没したということも言えなくはない。この遠江、浜松 で、又衛門につかまり、駿河の酒井常光坊の元へ売られた、とも言えるかもしれません。鈴木氏は『史疑』には否定的立場だが、家康にまつわる文献や伝承に疑問が多いことも指摘している。

つづいて、榛葉英治氏の『史疑 徳川家康事績』の185~186ページから引用する。

<引用開始>

最近、「日本出版販売」発行の「出版ニュース」という冊子で、作家の加賀淳子(かがじゅんこ)氏が、家康について書いた一文を読んだ。徳川家康の出生と、その後について、『史疑』の内容と、ほとんど同じことを書いている。左に、それから大要を引用させてもらう。

―家康の素性しらべをするには、「徳川実紀」や「徳川系譜」、「重修譜」などは、信用がおけない。それらは、徳川の御用学者(ごようがくしゃ)によって、でっちあげられた系譜書であるからだ。清和源氏とか、上野新田氏の後裔(こうえい)といっても、なっとくのいく証拠は見あたらない。

「家康自身は、もともとその松平家の出身でもなかったかのように、わたしは推理している」と加賀淳子氏は書いている。

―かれは、世良田元信と称して、不頼の徒をあつめ、旗あげした。その頃、松平の当主元康は、陣中で家臣に殺された。世良田元信は、松平家にはいりこみ、元康の夫人をたらしこんだうえ、その元康のあとにすわりこんだ。元康の未亡人は、築山殿であり、その嫡男は、信康である。

だいたい、子ぼんのうで有名な家康が、自分よりも大切な嫡男を殺すなど、常識では考えられないし、当然、次代の将軍であるべき信康が、武田家と内通して、父親を裏切るなど、すこしも合理性がない。

もともと、家康は、伊勢方面のササラ者の名もない者の子であった。かれは、願人坊主の酒井浄慶坊 (俗称常右衛門か) に、銭何貫文かで買われ、彼に弟子入りしている。

徳川家と、酒井家の関係は、他の譜代とはちがって、特殊な関係にあった。これは当の酒井家でも自認していることだ。名もないササラ者の子を世良田元信へ前進させた酒井浄慶坊にたいする、かぎりない家康の報恩のしるしだと考えてはいけないだろうか・・・

以上の大要は、加賀氏の文章から、ばっ萃したものである。氏が「史疑」を読んだかどうかは知らないし、この文章には「史疑」の名は出てこない。私とちがって歴史にくわしいこの女流作家が、自分の信じたところを書いた文章であると考えられる。

<引用終了>

松永知彦です。「源氏とは関係なく、伊勢方面のササラ者」としているところが史疑と大きく違います。この加賀氏の見解は、ぜひ全文を読んでみたいと思っているのが、手に入らない。

次に、家康の数多い異母兄弟のなかでも、特に謎めいた二人についての伝承です。元康の父である広忠とお久(松平乗正の娘とされている) の子で、松平忠政(ただまさ)と恵最(けいさい)だ。弟である恵最は、伝承では、家康と同年、同日、同時刻の生まれだったので、それを憚って僧となり、広忠を弔うために建てられた、広忠寺(こうちゅうじ)の住持となったという。

兄忠政のほうは、従五位下・右京大夫に任ぜられ、慶長四年に没し、宗賢という法名まであった。しかしこの二人、『松平忠政 遺状』と『酒井雅楽頭 家来松平孫三郎久典 系譜』には経歴が記載されているものの、公式書である『徳川幕府家譜(かふ)』には載っていないばかりか、松平家の正式な系譜にも、どこにもでていない。

そればかりか、江戸時代、寛政(かんせい)年間に編纂された、『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ) では、このふたりに関する伝承は編者によって否定されている。それを受けるかたちで、中村孝也博士 もその著書『家康の族葉』のなかで、「おそらくは誤伝であろう」としている。

しかし、この二人の母である、お久 (広忠没後、妙琳尼(みょうりんに)と称した)の要望で、家康が建立を許したという広忠寺は、現在の岡崎市桑谷(くわがい)に現存している。そこには、忠政らの墓があり、門前の案内板には、岡崎市教育委員会による寺に関する紹介文が書かれてある。 案内板には恵最ではなく、「えい新」という名が書かれてありました。

この恵最(えい新?)が、本来であれば、(ほんものの)元康の死後、松平宗家を継ぐはずの人だったのではないか。それが、世良田元信が、元康と入れ替わるかたちで岡崎城へすべり込んできたので、現在の岡崎市桑谷へ逃れたのだろう。

正式な系譜に一切載っていないのもそのためで、僧になるよりほかなかったのではないか。生年が、家康と同年、同日、同時刻、というのは、地元の人々が、恵最のことを忘れないための、意図的につくった伝承だろう。直接確認したわけではないが、恵最は広忠寺の開祖である、にもかかわらず、寺の寺社記にも、なぜか詳しいことがまったく記載されていない。

最後に『新・歴史群像シリーズ⑫【徳川家康】』の36~39ページに掲載されている、家康の幼少時の人質時代に関する平野明夫氏(國學院大学講師)の新説である。

平野氏は、田島進左衛門尉 宛 松平親乗 (たじまさえもんのじょう あて まつだいらちかのり)の古文書(本光寺所蔵田島家文書)の記述を根拠として、のちの松平元康である竹千代は、天文十八年十一月から弘治元年三月まで、吉田 (現在の豊橋市) に今川の人質として滞在していた、と主張している。八歳から十四歳までで、満年齢では六歳から十二歳までとなるそうだ。

平野氏はこの自説にかなりの自信を持っている。興味のある方は是非確認してください。この新説が証明されることになれば、その同時期において、駿府で源応尼と智短上人のもとで元気に活動していた、のちに徳川家康と名乗ることになる少年は、一体何者だったのか。

そして、吉田に住んでいた元康自身と、『駿府政事録』、『駿府記』にあるように、その頃、駿府又は駿河国に住んでいたと言う、家康自身の述懐とも当然かみ合わなくなる。この平野氏の新説は 村岡『史疑』を支持する立場の者にとって強力な援護になる。

(了)

これで、松永論文を終わります。

副島隆彦拝

(終わり)

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