「1809」 『思想劇画 属国日本史 幕末編』が発売される。 2019年2月23日
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SNSI・副島隆彦の学問道場研究員の古村治彦です。今日は2019年2月23日です。
今回は、『思想劇画(しそうげきが) 属国日本史 幕末編』(副島隆彦、青木ヨシヒト著、コスミック出版、2019年)をご紹介いたします。
本書は、2004年に早月堂書房から刊行された『思想劇画 属国日本史 幕末編』に加筆訂正を加えた復刊となります。「思想劇画」シリーズの第一弾です。副島先生の主著『属国・日本論』(五月書房、1997年)で展開された幕末の歴史に関する暴きを劇画として読みやすくしたものです。
以下に、今回の復刊で新たに加えられた「Q&A」を特別に掲載いたします。このQ&Aを読み、大筋を理解してから本書を読んでいただくと、内容が断然分かりやすくなると思います。是非参考にしていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
(貼り付けはじめ)
属国日本史 幕末編 副島隆彦Q&A
Q 「公武合体(こうぶがったい)」について聞かせてください。
大政奉還(1867年9月14日) の後も、徳川慶喜(とくがわよしのぶ、1837-1913年、76歳死)は、「天皇を元首にして、将軍が総理大臣(自分、徳川慶喜)で、三百諸侯がそのまま300人の国会議員になる」それでいいと考えた。プロイセン型国家に日本はなろうとした。それで立憲君主政体(りっけんくんしゅ・せいたい)になる。
徳川慶喜
ところが、ここで、討幕(とうばく)の密勅(みっちょく)が出て、慶喜(よしのぶ。ケイキさま)は、朝敵(ちょうてき)にされた。しまった、と思ったが、もう後(あと)の祭りだった。彼は薩長にずっと表面上は恭順(きょうじゅん)の意を表した。実は幕府の重臣たちは、終始一貫して尊王攘夷思想だった。松平容保(まつだいらかたもり、1836-1893年、57歳死)(会津藩主)は尊王攘夷バリバリの人だった。それなのに朝敵にされてしまったところに、幕末の悲劇がある。
松平容保
こういうことをみんな知らない。薩長善玉、幕府悪玉論にされている。そうではなくて、「公武合体(天皇と将軍が団結する)」で、日本が団結しようとした。これが正しい。このときに邪魔したのが、悪辣(あくらつ)なイギリス戦略だった、と知ることが重要だ。
イギリスは、自分たちにとって都合の悪い日本の民族主義(みんぞくしゅぎ。ナショナリズム)の政治家や指導者をみんな潰して殺してしまった。そのやり方が穢(きたな)い。
国内での足の引っぱり合いがあった。だが、やはりイギリスとアメリカのいうことを聞く者たちだけが、明治まで生きのびた連中で、それが「維新の元勲(げんくん)、大官(たいかん)」と呼ばれた人たちだ。
Q 尊王攘夷(そんのうじょうい)について聞かせてください。
「尊王攘夷」を意図的に「尊皇攘夷」と書く人たちがいる。「皇」(こう)は間違い。「尊王」と書くのが正しい。天皇陛下は「王」だ。日本は「王国(キングダム、モナーキー)」なのです。
主権在民なんて、今でもホントかな? と私は思う。今は一応、内部はデモクラシー(議会制・民主・政体)で、民衆が選挙で選んだ代表たちがつくる政治家の集団、つまり内閣(ないかく)が、権力を握ることになっている。その権力がおかしなことをしたら、民衆が彼らを罷免する。次の選挙で落とし、そして別の政治家たちに新しい政府をつくらせる。それをデモクラシーという。
しかし、日本は外側は、立憲君主政体(すなわち王国である。コンスティチューショナル・モナーキー)に決まっている。憲法によって国王の権限が制限される政治体制だ。 今の日本国憲法でさえ、1条から8条は天皇陛下のことを書いている。日本は天皇中心の王国(君主国)だ。その内側はデモクラシー(民主政治)だ。日本人は、日本国の、この二重構造(にじゅうこうぞう)を知らない。外国から見たら、日本ははっきりと王国(キングダム、モナーキ monarchy )に見える。タイ国や、サウジアラビア(サウド家のアラビア国)と同じだ。
「攘夷(じょうい)」というのは、神州不滅の神聖なるこの国土を、外国人に踏ませるな、という思想だ。欧米白人、すなわち南蛮人(毛唐、けとう、紅毛人 こうもうじん))を見かけたら、ただちに殺せという思想だ。「欧米の先進国と仲よくしよう」ではない。それを実践したのが、幕末の志士たちだ。そういう思想を本気で実践した人たちは、みな捕まって、斬首の刑にされたり、磔にされたりした。かわいそうな話だ。政治思想を真(ま)に受けて実行する人間が一番かわいそうだ。
尊王攘夷というのは幕末にできた思想で、水戸学が中心の思想だ。それと同時期に、平田篤胤(ひらたあつたね、1776-1843年、67歳死)の復古神道 と、その先生の本居宣長(もとおりのりなが、1730―1801年、71歳死)の国学の思想が全国の豪商・豪農層のあいだに 広まっていた。それがネットワークをつくっていた。商人たちや豪農層までが、難しい本を読み書きできるようになっていた。その息子たちは武士ではなかったが、本気でいきり立っていた。彼らを草莽(そうもう)、惣士(そうし)(=壮士)といった。
一番本物の尊王攘夷だったのが水戸の天狗党(てんぐとう)だ。この商人、豪商層の支持のネットワークをたどって京都を目指していったのである。
その頃から「国家」という意識が芽生えていた。天皇(天子、てんし)を中心とする王国だ、そこに戻せ、という思想が出ていた。幕府(徳川氏、とくがわし)にたいする強い反感が鬱積して、充満していた。藩を超えた意識というか、藩幕体制を壊さなくてはいけない(回天、かいてん)という思想だ。そして四民平等にしなければいけない。惣士たちは、自分たちが、ずっと百姓、商人として、武士階級に、蔑(さげす)まれていたことに、怒り狂っていた。それが攘夷思想と重なり合っていた。
この二重(尊王と攘夷)の意識を体現し、実践したのが、幕末の尊王攘夷の志士(惣士、草莽、そうもう)たちだった。「草莽崛起(そうもうくっき)」というのは、中国語だ。中国人は、このことを知っている。
日本が欧米白人の属国になることを断固として拒否した立派な人たちだ。わずかだけ転向して生きのびた人たちがいる。だが、彼らも、イギリスに操られた奴らに殺されていった。
それでは、本物の尊王攘夷の志士たちが生きのびていれば、日本は属国にならなかったのか、と、自問すると、あの当時の欧米列強の暴力(近代軍事力)のすごさから見ると、属国化は免れ得なかっただろう。尊王攘夷思想のまま、明治まで生きのびて、仕方なく列強の属国化を受け入れた残党がいる。それが西郷隆盛(さいごうたかもり、1827-1877年、50歳死)たちだ。でも彼らも殺された。今からでもこの辺りをじっくり再検証しなくてはいけない。
Q 新選組(しんせんぐみ)だって、尊王攘夷がはじめにあったんですよね?
最初に幕府に対して江戸で、発案、構想された浪士隊(ろうしたい)というのがあった。これのトップに清河八郎(きよかわはちろう、1830-1863年、33歳死)と山岡鉄舟(やまおかてっしゅう、1836-1888年、52歳死)が就いた。清河八郎は「回天一番(かいてんいちばん)」を密かに唱えて、自分が幕府を倒して王政復古をやると信じていた。激しい信念と実践の塊の人だ。江戸に戻ったところで 幕吏(ばくり)に 殺された。 山岡鉄舟は、勝海舟と組んで明治まで生きながらえた、裏切り者だ。
清河八郎
山岡鉄舟
清河は浪士隊が京都に着いたとたんに、「俺たち浪士隊は尊王攘夷だ」と言い出した。「天子さまを奉(たてま)って江戸幕府を攻める」といい出した。そうしたら京都守護職の会津藩がびっくりして、「解散、解散」にされた。残った、12人の 親幕府派の近藤勇(こんどういさみ、1834‐1868年、34歳)たちが新たに新選組をつくった。だから「しんせんぐみ」なのだ。新選組は徳川幕府に雇われた最後の反革命突撃隊(はんかくめいとつげきたい)だ。
近藤勇
彼ら新選組は、三多摩郡(さんたまごうり。今の八王子市辺り)の百姓だ。だが、その頃、長州その他の脱藩浪人たちの過激な尊王攘夷主義者と、実際に刀でわたり合える、斬り合いを出来る本格的な人殺し集団は、もう旗本(はたもと。本当は、旗の下で、旗下だ)たちには、残っていなかった。みんな、ええとこのボンボンになって刀なんか怖くて抜けない。
この三多摩壮士(惣士)である新選組しか、幕府側の本気の戦闘集団は残っていなかった。この他に幕府内の尊王攘夷の堅い決意のすばらしい戦闘集団が水戸藩にいた。それが天狗党だ。だが、藩内で諸生党(しょせいとう。親幕府派。体制派 )と殺し合って、みんな死んでしまった。
突撃隊になれるだけの思想の強固な連中は、幕府側に残っていなかった。新選組は百姓の出(惣村の出)なので、武士にしてもらえるなら人殺しでも何でもやると堅く決めた人たちだ。それぐらい、士農工商というのは屈辱的な制度だった。だが新選組には思想などない。あんな連中が英雄だったとされるのは、くだらない発想だ。
Q 坂本龍馬(さかもとりょうま、1836‐1867年、31歳死)も英雄とされていますが、どうですか?
彼は開明的な人では有ったのだろう。自分の役割もよくわかっていた。感覚的には優れていたと思う。商業が大事だ、士農工商の身分差別はくだらない、徳川体制は終わらせるべきだなど、よくわかっていたと思う。
坂本龍馬
しかし、龍馬がやったことはイギリスの代理人(手先)だ。最後には、用済みにされて殺された。だから、悲劇の英雄なのだ。たった31歳で死んでいる。吉田松陰は、29歳で小伝馬町の牢獄で、処刑だ。死体は、小塚原(こづかっぱら。今のJR南千住の駅の南側)に刑場に棄てられた。
Q 「武士道」や「サムライ」にというものに対して、どう考えますか?
私の家系は佐賀の出である。初代外務卿(がいむきょう)になった副島種臣(そえじまたねおみ、1828-1905年、77歳)の傍系の家系だ。
種臣は、藩の有名な神道家で国学者 の今枝南豪(いまえだ・なんごう。神陽 しんよう は実兄)の子で、副島家の養子だ。藩校で幼い頃から秀才で江藤新平(えとうしんぺい、1834-1874年、43歳死。初代司法卿)とともに蘭学がものすごくできた。漢学の素養もすごく、本場の中国官僚(清朝の高官、知識人たち。マンダリーンという)も驚くほどの書家だった。
そういう日本人が、時々、出てくる。藩主の鍋島直正(なべしまなおまさ、1815-1871年、56歳)が、長崎警備役で優れた人物だったので、肥前(ひぜん)佐賀藩は維新の雄藩に名を連ねる。ライセンス生産のアームストロング大砲を自力で作っていた。
佐賀には「武士道とは死ぬことと見つけたり」の『葉隠(はがくれ)』の思想がある。私は小さい頃、祖父から『葉隠』を素読させられた記憶がある。 本当は、戦国時代が終わって、『葉隠』は平和になった時代のサラリーマン哲学だ。ひたすら我慢しろ、君主(社長)のために死ね、という思想である。常に君主のために犠牲になれという忍従の美学の思想だ。
たとえば、「急に斬り合いになって死んだときに汚い下着だといけないので、常にきれいにしておけ」、「身辺をきちんと保っていないと、身を滅ぼすぞ」といった教養書だ。当時は男中心の社会なので、ホモ(衆道、しゅどう)を肯定している。三島由紀夫が『葉隠』を好きだったはずだ。
あの当時の武士階級(国民の2%しかいない)を中心としたインテリ階級は徹底した東アジア文明なので、中国古典の漢文を真剣に読んでいた。何が書いてあるか分からなくても、朝から晩まで、漢文(漢籍、かんせき)を読んだ。今のフランス語やドイツ語文献など、たいしてわからないのに、読んでいるフリだけする大学教授たちのように、漢文を読んでいた。
後に強国願望と戦争の時代になった、だから、日本人の実感で書かれた、簡単な日本人漢文で書かれた本が、幕末に、ワーッと爆発的に売れた。頼山陽(らいさんよう)の『日本外史(にほんがいし)』や会沢正志斎(あいざわせいしさい)の『新論(しんろん)』や、平田篤胤の『出定笑語(しゅつていしょうご)』 だ。 それより200年早いのが、宮本武蔵の『五輪書(ごりんしょ)』や『葉隠(はがくれ)』だ。
ひらがなのルビが振ってあってわかりやすく、中国思想も入っておらず、えらそうな思想は一切使わずに、日本人の日常や本音が、実感で、すらすら書いてあるからウケたのだろう。
幕末期には徳川氏(とくがわし)のためにではなく、天皇(天子)のために死ぬという尊王と攘夷の思想(国学、神道)になった。これ自体は、古くさい思想だ。 外国から日本が狙われているということを国民が敏感に感じとった。
全国三百諸藩のほとんどに「勤王同盟(きんのうどうめい)」という尊王攘夷の過激派の集団が、各藩に各々(おのおの)誕生した。それは各藩で一番頭のいい、インテリたちの過激派の集団だ。各藩で数十人から数百人だ。その一人が長州の吉田松陰(よしだしょういん、1830-1859年、29歳死)である。
吉田松陰
松陰は山県大弐(やまがただいに)という藩の儒学者と論争した。その争点は正統(せいとう)論である。「君主(徳川将軍)がアホだったら、見捨ててもいい」というのが、松蔭の主張で、体制変革(易姓革命)の思想だ。ところが、松陰のいけない点は、中国の易姓革命(えきせいかくめい)を支持しながら、日本国は、そうではない、と、主張した。
「日本は中国とは異なる、万世一系の天子(てんし。天皇)の国である」という、偏狭な皇国史観だ。天皇は、太陽の嫡子(ちゃくし。長男坊)である。日嗣(ひつぎ。太陽から生まれた男の子)という思想だ。ここで、易姓革命(朱子学)を捨てた。 実は、朱子学(易姓革命)を支持して、ずっと、教えさせたのが、徳川氏である。 幕府(徳川氏)は、「自分たち徳川氏が、戦争で勝って天命(てんめい)が下りたのだ。だから幕府に従え」と、中国正統の支配の思想を日本に広めた。
それに対して、天皇は、太陽の長男坊で、日嗣(ひつぎ。にっし。太陽の子)だ、という思想と作ったのは、水戸学(みとがく)だ。松蔭は水戸学の一派だといっていい。
そして、水戸学は水戸光圀(みとみつくに、1628-1701年、73歳死。黄門さま)が、中国からの亡命知識人の朱舜水(しゅしゅんすい。清=満州人に攻められて滅びつつあった明帝国の皇帝の重臣 )の助けを借りてつくった思想『大日本史(だいにほんし)』だ。水戸は、徳川氏で、御三家なのに、それなのに、徳川氏を嫌う。「宮様将軍(みやさましょうぐん)」すなわち、代々の将軍は、その時の天皇の子供=親王(しんのう)でなければいけないという思想だ。ここから水戸の天狗党の乱の悲劇が生まれた。幕末で、藩内で一番、残酷な殺し合いをしたのは、水戸だ。6000人ぐらいが、前述した、天狗党(藤田東湖=ふじたとうこ=の思想) と諸生党(体制派)で、武家の女子供までを、互いに殺しあった。
それに較(くら)べれば、会津(あいず)が、奥羽列藩同盟で、一番、討幕軍(薩長)に逆らったから、と言っても、死者は、2400人だ。 水戸学にあるのは、京都にいる天皇に対する崇拝観念だけだ。日本をまとめる思想は天皇家を中心とした社稷(しゃしょく。国家社会)だけだ、という強烈な思い入れしかない。ここが水戸学の限界だ。
水戸は、自分たちが徳川氏なのに、武家の棟梁である徳川氏打倒(討幕の思想)にまでたどり着く。そこへ、ペリーがやってきた(1853,4年)。だから、カーッとなって、国内が一気に騒乱状況になってしまった。外圧、外敵を世界の空気から感じたのだろう。
Q 幕末期に最も優れていた人物とはだれでしょう?
幕末に、日本人で自覚的に世界の動きを自力でなんとか理解したのは、横井小楠(よこいしょうなん、1809-1869年、60歳死)と佐久間象山(さくましょうざん、1811-1864年、53歳死)でしょう。 この2人は、本当の大秀才であり、自分の頭で、中国文献(漢籍)でキリスト教(陽明学)のよい面である人間平等思想を理解し、蘭学の素養の両方で、なんとか見抜いた。
横井小楠
佐久間象山
見抜いたのだが、やはり尊王攘夷、自力更生(じりきこうせい) から外に出ない。イギリスの手先になって転落した連中(高杉、木戸、井上、伊藤、山縣ら)を再度、説得しようとした。重厚な「独立自衛しつつ開国」という思想にまで到達したが、殺された。残念でならない。
佐久間象山も、国内団結理論までである。公武合体で、天皇と将軍が団結して外国軍の侵略を阻止しようとした。しかし、幕府の手先 という誤解で殺されてしまった。象山をかん違いで殺した河上彦斎(かわかみげんさい、1834-1872年、38歳死。熊本藩士 )も優秀な男だったのだが。攘夷は単純なゲバルトだ。イギリスからすれば、坂本龍馬や西郷隆盛はイギリスの日本操りを知りすぎたから殺せということだったのだろう。
Q 小栗忠順とは、どういう人物だったのでしょう?
小栗忠順(おぐりただまさ、1827-1868年、41歳死 )については、私はこれまであまり知らなかったのだが、幕末史についてあれこれ調べたら、ものすごく優秀な人物だったという結論に達した。幕府の使節で、ワシントンで、アメリカのブキャナン大統領に堂々と謁見している。金(小判)の流出もくい止めた。
だが、高杉晋作がクーデターで支配していた、下関から金(きん、小判)を流出させた。それで、第2次長州征伐になったのだ。 列強(ヨーロピアン・パウアズ)の全権公使(今の大使)たちが、日本人商人たち(白石正一郎たち) を使って、自分たちの懐に入れた。本当にワルい奴らだ。オールコック英国全権公使たちが、本当に悪い。日本人の商人たちから彼ら各国の公使たちが、直接、小判(金貨)を安くで買い占めた。 これで日本国内は金貨(きんか)不足で、激しいインフレ(ハイパー・インフレ)になって、「ええじゃないか」の激しい民衆騒乱になり、それで幕府(徳川氏)は倒れたのだ。
小栗忠順
小栗忠順(おぐりただまさ。赤城山の埋蔵金伝説 の人)は、ワルの勝海舟(かつかいしゅう、1823-1899年、76歳)と嫌い合ったライバルだった。この事実からして、小栗はきわめて端正で、剛直な人物だった。勝は、幕臣の最大の裏切り者だ。このことは、福澤諭吉も書いていて、明治になったあとも、この”ほら吹き男爵” (「氷川清話」という本に残っている)のことを、嫌った。
勝海舟
私から見れば、水戸の天狗党と、土佐の勤王同盟の武市瑞山(たけちずいざん、1829-1865年、36歳)の2つが幕末で、一番哀れだ。純粋の尊王攘夷の単純ゲバルト派の人々だ。そして、無念にも惨殺されていった。この人たちが一番、正しい。私は彼らの文献、資料を読むと、今でも涙が流れる。生粋の混じり気のない正直者の尊王攘夷の実行者たちだ。彼らが一番かわいそうな死に方をしている。
それに比べて、幕府の幕閣(老中、譜代大名クラス)の一つ下の勘定・外国奉行まで実力で上りつめた小栗(おぐり)のような大秀才が責任ある行動をとり、優れた決断を下し、部下たちからも慕われ、けっして暴力的ではない人間だった。公武合体策(孝明天皇と家茂将軍が団結した)が、正しい。
それなのに、孝明(こうめい、1831-1866年、36歳天皇)も家茂(いえもち、1846-1866年、20歳)将軍も不可解な急死をしている。このことを幕末の研究家たちは、学者も歴史小説家が、誰も追究しない。関わろうとしない。恐ろしいのだ。私、副島隆彦が、『属国・日本論』(1997年刊)で正面から、このことを主張した。
インテリ性という意味においては、佐久間象山(吉田松陰が彼の弟子。二人で動いた)と横井小楠(よこいしょうなん)のほうが、私の気持ちと通じている。本物のインテリというのは、個人で勝手に自分の能力と判断で行動する人間である。だから、集団や組織、団体の代表にはならない。自分勝手に先へ先へと動く人間だからだ。
どうして私が象山と小楠の気持ちがわかるかというと、「混合体」だからだ。彼らは中国式の学問をきちんと修めながら、一方で洋学(蘭学)をやり、一所懸命に西洋世界のことを学んでいる。そうやって混ざっているのだ。私もそのように混ざった人間なので、彼らの気持ちがよくわかる。
小栗忠順(おぐりただまさ)は、外国奉行も務めた外国との交渉係である。国家や体制を担い、先へ先へと組織全体を動かしていく役職の人間だ。だから、一心に責任を引き受けている。また、そういう人間が重要なときには選ばれる。小栗は重厚だ。人間が重いといってもいい。
重大な役職に小栗が抜擢されたのは、彼しかいなかったからだ。小栗がずば抜けて優れていたということだ。それで、自分がひどいかたちで殺されることで、幕府方の責任をとった。小栗には、その責任を背負って担うだけの力があったということだ。
機会があって、私は今の自民党の政治家たちとつき合っていてわかるのだが、「この人(政治家)は、国民の重たいものを背負っているなあ」というタイプの人がいることはわかる。大変だなあ、と同情する。それに対して、まったく能力がないのに、血筋とネットワークに守られ、高官(大臣)の地位に就いた政治家や、官僚たちは、そばで見ていてわかる。生来の卑怯者だから、自分だけが生き残ろうとする。アメリカとの交渉でも、どうせアメリカの手先だから自分は泥をかぶらず、逃げまわる。それで、部下の者たちが詰め腹を切らされる。それが今の日本だ。私はそういう政治家たちをたくさん見てきた。
しかし、それでも組織の中には、幕末の小栗のように能力もあり、優れた人物で、いろいろなことがわかった上で、しかもじっと我慢して重荷を一身に背負っている人がときどきいる。そういう人は今の企業経営者の中にもいる。抜擢され、這い上がってきた人だ。そういう「端正な指導者」という人がいる。それが大事なのだ。
老中の阿部正弘(あべまさひろ、1819-1857年、38歳)にも、堀田正睦(ほったまさよし、1810-1864年、54歳)にも、井伊直弼(いいなおすけ、1815-1860年、45歳)にも、そのような先見の名の優れた資質があった。しかし、井伊直弼は、安政の大獄で、前述した吉田松陰たちを殺した。だから、自分も殺された(桜田門外の変。1860年2月。万延元年。関鉄之介 せきてつのすけ、有馬新七 ら、水戸藩と薩摩藩を脱藩した本物の過激派、尊王攘夷派)。幕末の危機のときは、優れた人材しか登用されない。
林大学守(復斎)(はやしふくさい、1801-1859年、58歳)という人がいた。彼はペリーが来航した際(1853、4年の2回 )、横浜で交渉をした人物だ。すぐに辞めている。他の人に任せた。林家(りんけ。林羅山=はやしらざん=以来の家柄)は当時の東京大学学長のような立場にあったので、一番インテリで学識がある、と周りから見なされていた。だが、交渉をさせてみたら、自分には対応力がないので、すぐに後ろに引っ込んだ。
林復斎
適切な人物がポジションに就くことが、その人物を創るので、大きな意味で政治はドラマなのだ。私としては、この本全体で、「本物の尊王攘夷派」と「偽ものの尊王攘夷派」の対立軸だけは絶対に捨てられない。これを描き出したことが私のここでの学問業績だ。青木氏とT氏がすばらしい思想劇画にしてくれた。感謝します。小栗忠順(おぐりただまさ)は幕府側( 幕臣。大身旗下)だが、本物の尊王攘夷派である。幕府の中にいて枢要の地位にありながら、日本国を裏切っていない。必死で欧米列強と交渉している。「再(さい)鎖国を実行したい」と2度も使節団をヨーロッパに送っている。
それが、なぜか、その後の評価、判断でも、ちょうど逆にされてしまった。小栗たち幕府側が開国派=外国の手先、ということにされてしまった。まさしく「勝てば官軍」だ。このことのおかしさを、この本で私は徹底的に明確に暴いた。この思想劇画の本で描かれたように、私は、後にねじ曲げられた歪んだ歴史観でなく、理論矛盾のないすっきりとした日本史をつくりたい。大きな一本の筋を通して、ここでようやく本当の幕末の歴史解釈の統一ができた、ということである。私が本書で示した見方以外は、虚偽であり、おそらく歴史の捏造だ。私はここまで豪語する。
今の歴史学者たちは、重箱の隅でもつついて、「文献考証」ばかりやって、小さなことに執着していればいい。彼ら学者たちは、本当の歴史資料は、隠されていることを知っている。それは、東大の史料編纂所(しりょうへんさんじょ)と、宮内庁の書陵部(しょりょうぶ)にある。彼らは、それの見張り番たちだ。 隠されている国家文書には、多くの「日本は属国である」の証拠が書かれている。
歴史ものの作家たちにしても、幕末・明治の人物評伝で食べている人たちがたくさんいる。しかし、彼らには、大きな枠組みでの世界基準(ワールド・ヴァリューズ)の政治思想がわからない。だから駄目なのだ。私は彼らに何も期待していない。私は、日本史に本当の一本の大きな筋を通しつつある。
Q 明治政府をどう評価しますか?
明治政府は、すでに近代資本主義(モダーン・キャピタリズム)の初期の形態を備えている。イギリス型の金儲け主義で、金儲け主義の資本家たちによる政治体制を「文明開化」といった。東アジア(中国)式の古い思想や制度や文化をすべて叩き壊そうとした。
それでも明治大正時代まで、多くの日本国民のメンタリティを支配している美意識や秩序感は依然として中国式だった。脳の中は中国式の美意識のままであり、欧米人の理論ではない。大正時代まで、漢文の素養というものがあり、新聞には漢詩の投稿欄があった。三井=ロスチャイルドの実質大番頭だった井上馨(いのいえかおる。聞太 ぶんた、と読む。内務卿 )がつくった鹿鳴館(ろくめいかん)は、奥方たちがドレスを無理やり着て西洋式に踊ったが、彼女たちは新橋芸者みたいな人たちだ。
身長は、男は、だいたい150センチぐらい、女たちは、140センチぐらいだ。ピグミーのようなものだ。江戸時代に、肉を食べなかったので、日本人は、小さくなったのだ。室町、戦国時代までは、武士は、180センチぐらいの大男がなるものだった。そうじゃないと腕力がない。刀の長さも江戸時代には、短くなっている。
鹿鳴館での舞踏会の様子
( 副島隆彦が、あとからここに加筆。あーあ、どうして、こういう、ウソ寒い、立派そうな、欧米白人への劣等感丸出しの、毛唐=けとう=の世界に、日本の支配階級が、どっぷり浸かった、気持ちの悪い、絵を、ここに貼るんだろう。
日本人は、もっとチンチクリンで、チビで、みんな、あばた面(づら)だったのだ。 何で、こんな、ええカッコしいの、ウソ八百の、何の現実味の無い、絵を、古村君は、貼り付けて、平気なのだろう。他に無いからだろう。日本人は、本当に、チビだったのだ。これを私、副島隆彦が、しつこく書くと、日本人への排斥感情、自己卑下が過ぎる、ということになるのだろうか。私、大きな真実しか、信じない。虚偽と虚飾 は、すべて拒否する。副島隆彦 加筆終わり)
ただし、明治になって、上のほうの階級だけが一気に、急激に豊かになる感じは、すごい。あのときの日本の生糸や絹織物の売上高は、世界から見て、すごかったのだ。それで、一気に「文明開化」と「殖産興業」をやった。愚劣なる歴史小説家で、ウソばかり書いた、司馬遼太郎が、「大久保利通(1830-1878年、48歳死)が偉かった」と言った。だが、大久保も西郷が死んだ翌年には、殺されてる。
世界基準からは、日本の明治の政治体制は「オリガーキー」(oligarchy 寡頭=かとう=政治体制)といって、少数の有能な独裁者による指導体制だ。これがものすごく上手くいった例だ。世界的に評価されている「明治オリガーキー」という。。国力が飛躍的に増大した。だが、それを実現したのは、生糸と絹織物だ。
当時は群馬県の高崎や桐生、八王子など関東一円で蚕(かいこ)を飼って生糸と絹織物を生産し、全部横浜に集まるようにしていた。それは今も貨物線路が北関東一帯から横浜に残って通っていることでわかる。生糸をヨーロッパに輸出して、ものすごいお金になった。しかし、1901年にナイロン(化学繊維)が発明されて、次第、次第に需要がなくなった。それでも、生糸の輸出で一気に日本は大金をつくって、一等国になった。この生糸、絹地による 大儲けは、昭和まで続いた。その資金で鉄道や発電所をつくった。明治というのはそういった時代だ。
Q もし幕府が薩長に勝っていたら、どうなっていたでしょうか?
歴史の「もしも」は、私は嫌いだ。「どうなるべきでしたか?」という問いには、私は不愉快だから答えない。現実がすべてだ。そのような「だったら、であれば」の観点でものをいいたくない。今からでも一切合財の真実を明らかにし、真実の歴史書につくり直さなくてはいけない。偽ものの尊王攘夷派(=イギリスの手先)がつくった歴史では、あちらこちらつじつまが合わない。
だから、新選組をほめてみたり、逆に勤王の志士とかいって倒幕派 に憧れたり、英雄にしたりしている。だが、本当に刀(人斬り包丁)が抜けた、本物の勤王の志士はみんな殺されている。生き残ったのはいない。尊王攘夷といいながら、いつの間にかコロッと開国論になっている偽ものの勤王の志士ばかりだ。言っていることと、やっていることが違う人間は、いかん、ということだ。
「政治の世界は穢(きたな)い」という言葉は一応、人間誰でも知っている。私はその世界を間近で見てきた人間だ。だから、普通の人とはちょっと、この穢(きたな)さの理解の仕方が違う。マキアベリズムという言葉がある。これは近代ヨーロッパ政治学の原理だ。「政治の中心は悪(あく)だ」といっている。「悪いことをしたほうが生き残る」ということだ。「政治は悪で構成されている」といいきったから、近代政治学の原理となったのである。
まっとうな精神の正直な人たちは、みな順番に殺されていく。これは今の日本の政治でもそうなっている。だから、策略にかかって負けて、つぶされていった人のほうが正義かというと、やはり正義だろう。田仲角栄(たなかかくえい、1918-1993年、75歳死 )が正義に決まっている。彼は日本の国益と、国民の繁栄を守ろうとした。だから、アメリカにつぶされた。アメリカに追従した官僚と他の自民党の政治家たちはワルだ。小物のワルだ。どうせ、こいつらの名前は、後世に残らない。自分の利益ばっかり考える人間は、大きな、歴史判定を、民衆、国民から受ける。
純粋な尊王攘夷で戦った人たちは、順番に倒れて死んでいった。そこに光を当てなければ、本当の幕末維新編にはならない。正確な歴史理解にはならない。だから、この思想劇画では学問的な正確さも目指している。ただ単に歴史の解釈の違いとか、小説家のように物語だからどうにでもなる、わけではない。大きな全体の中における事実の組み立てということを、この思想劇画において私は主張しているのである。
Q 「属国」とはどういうものなのでしょうか?
「属国日本」という言葉は、今の日本人の多くが使うようになった。私がつくって広めた言葉だ。
やはり、日本はアメリカの属国である。事実そうだ。しかし、今の日本の指導的立場というか、わかりやすく言うと支配階級は、それを言われるのが嫌だ。自分たちがアメリカから抑えつけられている事実を認めたくないのだ。自分たちよりも、もっと上に強い権力者がいる、と日本国民にバレるのがイヤなのだ。もうバレているのだが。庶民というか大衆、サラリーマンは、みな社長の家来(けらい)で、事実上、現代の奴隷だから、私が唱えはじめた属国論を案外素直に認め、すっきりと受け入れている。しかし、この国の支配階級が認めたがらない。
もう少し言うと、言論人や新聞記者も属国論が嫌なのだ。自分たちの裁量や知恵や判断力でこの国をうまくマネージメントして、管理していて、知識でも自分たちはすばらしいと思い込みたいのだ。だが、そんなのはみんな嘘だ、と、私が1990年ぐらいからいい出した。もう30年になる。文化、思想、科学技術も欧米のマネばかりしてきた、と私は率直に思う。それを日本人の能力で改良したりした。するとやはり、そんなことはいわれたくない。認めたくない、ということになる。
属国論というのは、「帝国 ― 属国 関係」が人類史(世界史)を貫いているということだ。現在の世界政治を見ても、やはり帝国(エムパイア empire )というものがあり、その周りをとり囲むように周辺属国( ぞっこく。トリビュータリー・ステイト tributary states 朝貢国。ちょうこうこく)がある。
属国のひとつひとつの支配者のことを「王(おう)」という。日本王国である天皇も王(民族の指導者、ナショナリスト)にすぎない。ナショナリスト nationalist というのは、そこらの、バカ右翼が、「オレは、愛国者で、ナショナリストだ」というのは、間違いだ。 ナショナリストというのは、帝国と交渉する、属国の指導者たちのことだ。 そして日本は、中国の漢帝国(紀元1世紀。丁度2千年前 )から、中国の歴代の皇帝に服従してきた。
周辺属国は、対外的には自由だったり、半独立したりしてきた。帝国 は毎年の要求項目、つまり資金(年貢。貢納金)の提出と軍事、兵役を課す。それさえいうことを聞けば、後は放っておく。わかりやすい歴史事実でいえば、元寇というかたちで1274年、1281年に2回モンゴル軍が日本に攻めてきた。
このとき、実際に攻めてきたのは、指揮官のモンゴル人たち以外は、モンゴル軍に占領された高麗の朝鮮人たちと南宋軍の中国人の兵隊たちだ。彼らは使い捨てだ。いらない兵隊だ。日本遠征の名を借りて、北九州の海に捨てられたのだ。10万人、20万人の大軍を捨てた。モンゴルが中国(漢民族)に勝った後、軍事力が余っていた。彼らを放っておくと反乱を起こすので、それなら潰してしまえという考え方がある。属国軍というものは哀れなものだ。
1991年の湾岸戦争の時には、40数カ国が、アメリカ帝国の出兵命令(形式上は国連安保理の決議)で兵隊を出した。日本は金だけ出した。「日本は、不戦の憲法がありまして、兵隊は出せません」と、日本にやって来たブトロス・ガリ国連事務総長に説明した。2003年のイラク戦争のときには、形だけ、600人ぐらいイラクのサマーワという都市に出した。
このことは、幕末の1866年の第二次長州征伐(金の海外流出が原因)のときの各藩の態度とまったく一緒だ。「ウチは250人出します」とか、藩の力に応じて人数まで決まっていた。しかし、みな嫌だから、実際に長州藩との戦いになったら、逃げてしまった。バカらしくて殺し合いなんか、やっていられないよ、だろう。誰しも自分は死にたくない。 やる気がないから、負けてしまう。
この年(1866年)に、将軍家茂(いえもち。紀州藩。 20歳死。7月20日)と孝明天皇(こうめい 35歳死。12月25日)が暗殺された。イギリスがやったのだ。 日本の最高権力者2人が相次いで殺された。誰に? なぜ? ここのところに、歴史家たちは誰も踏み込まない。私、副島隆彦が、初めてこの幕末の「地獄の釜の蓋」を開けた。
このような「帝国 ― 属国」の構造は人類の歴史のあらゆる時代、あらゆる地域にあり、大きな世界政治の骨組み(構造)は、必ず「帝国 ― 属国」関係だ。それを見ないようにしてやってきたのが、この2000年間の日本の歴史だ。学者たちも悪い。日本は天皇(エンペラー)がいる帝国だなんて、バカを言うな。日本は歴代中国王朝(帝国)という東アジア覇権国(ヘジエモニック・ステイト)の周辺属国の1つでしかない。天皇(てんこう。とは、北極星の意味である)その後、日本国は、イギリス帝国、そしてアメリカ帝国に服属して今に至る。この大きな真実をみんなで認めればいい。
Q 幕末期に日本を属国にしたイギリスの目的とは?
ロシア帝国(ロマノフ王朝)の積極的な領土拡大方針である南下政策に対し、イギリス海洋帝国が東アジアにも防波堤をつくりたかったからである。イギリス帝国とロシア帝国は、他の地域(リージョン)でもトルコやイラン、チベット、インド、アフガニスタンでも取り合いをずっとしている。
ロシアの領土拡大
ロシアのロマノフ王朝の南下を阻止するというのが、イギリスの戦略だった。地政学(ゲオポリティーク)という学問に、ユーラシア大陸全体をハートランド(中心圏)と呼び、それに対抗するリムランド(端の圏)という大きな考えがある。ハートランドと対抗して、ユーラシア大陸のリムランド(へり、ふち)を、海洋国家であるイギリスの海軍の軍事力、物資輸送ラインを使って封じ込めるという戦略の一環だったのだ。日本はこれに組み込まれた。
これを、世界史規模では、「ザ・グレイト・ゲーム」 the Great Game という。日本は、それに組み込まれていた。だから、1904,5年の日露戦争を、やった、いや、イギリスがやらせた。そうやって、ロシア帝国の南下を防いだ。
ハートランドとリムランド
ロシアとイギリスが幕末期に日本をめぐって奪い合いをしたのは、当時の産業革命の技術革新で、最新のデリバリー・システム、すなわち蒸気船ができ、輸送手段がものすごく発達したからでもある。
Q 日本は属国になることを免まぬがれなかったのでは?
その通り、免れない。今も免れない。でも、ここで絶望感に浸り、「しょうがないじゃない」と弱音を吐いてはいけない。まず、事実を大きく解明することが大切だ。自分勝手に「日本は強いんだー。日本人は世界一の民族だー」と愚かな妄想を起こして、強がってはいけない。そういう右翼言論は、劣等感(れっとうかん。インフェリオリティ・コンプレックス)の裏返しだ。 そうではなくて、私たちは冷静に事実を知るべきだ。思想、学問の力で闘うのだ。冷酷に謎を解明し、大きな真実を知ることだ。このことを自覚しさえすれば、対策はどれだけでも立てられる。「だまされないぞ」という態度をとっていれば、いくらでも対策は立つ。
たとえば、会社の社長が「みんな会社の繁栄のためにがんばって死ぬ気で働こう」といっても、冷静に現実を自覚していれば「嘘いえ、バカヤロー、お前のためだろう」と(腹の中で)いえる社員になれる。だまされないから、過労死で死なずに、対策を立てて生きていくことができるのだ。簡単に手なずけられないから、好き勝手に外側の力(宗教でも勢力でも)踊らされることがなくなる。ここが重要である。
日本人は自分たちが属国民であることを自覚しないままに、ずっとやってきた。自分たちが属国民であることを認めるのが、嫌なのだ。アメリカの実に周到な戦後日本人への洗脳は、見事なものだった。驚くほどの長期計画である。
しかし、私たちが自分の国が属国であると意識しさえすれば、いろいろなことが見えてくる。私自身、そうやって長年解けなかった問題が、解けたことがたくさんある。自分は支配されているのだ、と心情的に認めたくないのはわかる。だが、日本は属国であると自覚することは、ものごとを考えるときのよいツールになる。何度もいうが、自覚していれば、だまされて好き勝手に操られることがなくなる。
属国であることに悲観するのではなく、なんとか対策を立て、だまされることなく、真実を見抜いていく。この姿勢を確立することで、日本国民は自らの頭脳、知能をクリアにすることができる。このことを私は本書を通して伝えたい。
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