「1514」「思想対立が起こした福島原発事故」相田英男 第2章 「札束で引っぱたかれた科学者達」をシリーズで短期連載します。(第1回)2015年2月25日

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 副島隆彦を囲む会の中田安彦です。今日は2015年2月25日です。今回からシリーズで、会員の相田英男(あいだひでお)氏の大作論文、「思想対立が起こした福島原発事故」の第2章を掲載します。ちょうど3月11日で東日本大震災から4年になります。

 この論文は目先の事象にとらわれないで、あの原発事故に至る問題点を思想的対立という着眼点で解き明かそうとするものであると思いました。同時に、この論文は戦後の左翼系理科系物理学者の流れをおさらいできる読み物にもなっています。日本の原子力導入について関われたこれまでの歴史の取りこぼした部分について知ることができます。

 実は、この論文の第1章は、実は去年の中頃から、「重たい掲示板」にて掲載されていたものです。この第1章をお読みになりたい場合は、「重たい掲示板」に入っていただき、その右上のページ検索のところに「相田」とキーワードを入れていただくと、過去の投稿が全部出てきます。(投稿番号「4175」から)

 相田氏が第1章の前に書いた序文はこうなっていました。

(貼り付け開始)

はじめに

 本論考は戦後の日本の科学者、技術者の間で広く存在した左翼思想が、原子力開発に及ぼした経緯と影響について調査し、まとめたものである。

 シンクロニティ(意味のある偶然の一致)というべきか、本論考を書いている2014年5月に、漫画の中の登場人物達が福島を訪れた後に鼻血を出し「原発の放射能の影響だ」と訴える「美味しんぼ」の騒動が、マスコミを賑わせることとなった。ここで私は、「美味しんぼ」で描かれた山岡の鼻血が放射能に由来するかどうかを議論するつもりは毛頭ないのだが、この事件の中心人物である原作者の雁屋哲(かりやてつ)氏が、原発問題に強くこだわる理由はよく理解できる。

 雁屋氏の経歴によると1960年前後に東京大学に進み、教養学部基礎科学科で量子力学を専攻したとされている。大学には残らずに電通に就職した雁屋氏であるが、この東大時代に「量子力学を専攻した」という箇所が、今回の事件で実は非常に重要である。雁屋氏の「量子力学を専攻した」という経歴の真の意味については、今の若手評論家は誰も説明できないだろうなと思えるので、私がここで明確化しておく。

 終戦直後の1945年から60年代の時期において「量子力学を勉強する」ということは、武谷三男(たけたにみつお)、坂田昌一(さかたしょういち)という二人の物理学者の影響を強く受けたということなのである。

 武谷三男、坂田昌一は普通の学者ではなく、ノーベル物理学賞を日本で初めて受賞した湯川秀樹(ゆかわひでき)の直接の弟子であり、湯川の執筆した一連の「中間子(ちゅうかんし)論」に関する論文の共同執筆者に名を連ねる、超一流の理論物理学者である。

 その一方で武谷と坂田は強固な左翼主義者でもあり、素粒子物理学の理論研究に打ち込む傍らで、左翼思想や共産主義に関する思想・哲学の論説を数多くの雑誌や新聞等に発表した。武谷、坂田の二人は戦後の自然科学者、技術者達に向けて、左翼思想の啓蒙活動を積極的に行うことで、反体制、反原子力開発の今につながる大きな流れを作り出した張本人達といえる。

 今回の「美味しんぼ」騒動に関するニュースやネットの報道を見ながら、私は地の底に封印されていた武谷、坂田の二人の怨念が、現代に再びよみがえったような印象を感じた。同時に私には、中曽根、正力(しょうりき)達により捻じ曲げられた戦後日本の原子力研究を、正しい方向に引き戻すべく奮闘しながらも、その理念を無残に打ち砕かれた菊池正士(きくちせいし)の魂が、無縁仏となって福島:F1(エフイチ)の周辺を彷徨(さまよ)い続けているようにも思えてならない。

 そもそも私がこの論考を書こうと考えた最初のきっかけは、さかのぼること2004年頃に、東大名誉教授で応用化学分野の大家である西村肇(にしむらはじめ))先生と、副島先生とによる幻の対談「理科系研究者のトップ百人を斬る」の原稿を読ませてもらったことに始まる。この対談は惜しくも未発表のまま10年を経過して今に至っている。

 その内容は宇宙ロケット開発、原子力、コンピュータ、半導体、バイオ等の多岐に及んでいた。その中で西村先生は、「日本の原子力開発に携わった技術者の多くは共産党員であり、彼ら左翼系技術者と政府の対立により日本の原子力開発は大きな影響を受けてきたのだ」という驚きの指摘をされていた。私は自分の学生時代に、大阪の熊取(くまどり)市にある京都大学原子炉で実験を行う機会があった。

 その時に原子炉実験所の職員でありながら原発廃止運動を続けている、数名のけったいな助手の方達がいることを知った。(その中の一人の小出裕章(こいでひろあき)氏は、3.11福島事故後に反原発の論客として一躍脚光を浴びることとなった)他にも企業で原子力開発に従事しつつも組合活動にのめり込み、仕事の傍らで反原発を訴え続ける技術者の話、等を度々聞く機会があった。 私には、幻の対談の中で西村先生が述べられた、左翼思想と原子力開発に関するコメントがずっと頭の隅に残っていた。

 その後の2008年には、益川敏英(ますかわとしひで)、小林誠(こばやしまこと)、南部陽一郎(なんぶよういちろう)の日本人物理学者3人がノーベル物理学賞を同時受賞するニュースがあった。私は理論物理には詳しくなかったため、受賞理由について当時はよく理解できなかったが、TVのニュース報道は大変興味深い物だった。

 受賞者の一人の益川氏はインタビューの際に、「(受賞については)大してうれしくない」「純粋な学問の追求こそが目的であり、賞を得ることが目的ではない」等の、ひねくれた趣旨の発言を連発し、スウェーデンでの授賞式でも「私は英語が得意ではない」と公言し、招待講演は日本語で押し通した。私はこれらの一連のニュースを見ながら「ああ、典型的な左翼物理学者がここにいるな」と直感で理解した。

 それ以前の2002年に田中耕一(たなかこういち)氏がノーベル化学賞を受賞した際も、「英語が得意ではない」とのコメントがあったが、授賞式の講演で田中氏は不得意ながらも英語でプレゼンを行っている。私は同じ変人とはいっても、益川氏の不遜な態度は田中氏の謙虚な物腰とは全く異なると感じた。益川氏の長い人生経験を重ねて来た大人(老人)が、周囲から見られる様子を全く気にせず不遜な態度を貫く姿勢は、反体制を生き甲斐とする左翼主義者によく見られるパターンだと私は思った。京大原子炉の小出裕章氏の振舞いも益川氏と全く同じように私には見える。

 益川氏は名古屋大学の理学部出身であり、坂田昌一の研究室に所属していたという。先に述べた通りに、坂田はあの湯川秀樹が中間子理論を構築する際の共同研究者であり、戦後日本の素粒子物理学を構築した碩学である一方で、強固な共産主義者としても知られている。湯川秀樹、朝永振一郎のノーベル賞の栄光の影であまり広くは語られない。

 だが、西村先生が指摘されたように、終戦直後の日本の物理学者の多くは共産党員かそのシンパであったことは事実である。彼ら物理学者に代表される自然科学系左翼主義者達の活動とその変節が、戦後日本の学術方針や技術の発展に大きな影響を与えていると私は考えている。もちろん日本の原子力技術の勃興と3.11福島事故に至る過程に関しても然りである。

 3.11福島原発事故以来、マスコミでは「原子力ムラ」の存在とその害悪について盛んな報道や攻撃がなされている。しかし、現在の原子力ムラが形成されるに至った背景にある、終戦後の原子核物理学者や技術者の間に存在した左翼思想家達と体制側との激烈な対立に目を当てないと、福島事故が起こった理由を十分には理解できないと私は思う。

 本稿で私は、戦後の原子力開発に携わった研究者の政治思想の側面に着目して、福島原発事故に至る過程を纏めてみた。最初に本論考の結論を言ってしまうと、福島原発事の責任は国(政治家、官僚)や財界、企業(東電、メーカ等)にあることは当然ではあるが、少なくとも3割、場合によっては責任の5割は、左翼系の反原発技術者や活動家にもあると私は考えている。なぜ左翼技術者に3~5割の責任があるのかについては、本論考を最後までご覧頂ければ理解して頂けると私は思っている。

「思想対立が起こした福島原発事故」第1章 はじめに

(貼り付け終わり)

中田安彦拝

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題目「思想対立が引き起こした福島原発事故」(相田英男)

(前回までの項目)

はじめに
第1章 素粒子論グループの光と影
1.1 量子力学の成立過程について
1.2 大阪大学の湯川研究室
1.3「哲学者」武谷三男と三段階論
1.4 エンゲルス、レーニンの自然科学論
1.5 素粒子論グループの形成
1.6 坂田昌一、哲学にこだわり過ぎた巨人の挫折
1.7 ルイセンコ論争と武谷
1.8 〔番外編〕南部陽一郎、朝永門下生のキリスト
1.9 そしてユダ、福田信之

第2章 札束で引っぱたかれた科学者達

 日本の原子力開発の発端は、サンフランシスコ講和条約締結後に日本学術会議に提出された茅(かや)・伏見(ふしみ)による原子力委員会設置の提案に始まるといってよい。

 その後に中曽根康弘を中心とする改進党(かいしんとう)の若手政治家数名が秘かに計画して、衆議院に提出した原子力予算とその可決により、大まかな筋道が決められたことはよく知られている。ここでは、茅・伏見提案から原子力予算成立を経て、正力松太郎(しょうりきまつたろう)によるコールダーホール型改良発電炉の導入に至るまでの状況について、従来の論考とは異なる視点から検討してみたい。

 ちなみにこの第2章では、中山茂 (なかやましげる)という科学史家が代表となり、1982~91年の約10年の時間をかけて纏められた、戦後日本の科学技術史をたどるプロジェクト研究の成果である、「通史 日本の科学技術(全4巻)、学陽書房」の「第1巻占領期1945-1952」 の記述から、多くを参考にしている。トヨタ財団の援助により作られたこの本は、全四巻の百科事典のような大著であるが、都会の大等の図書館等に行けば、閲覧は出来ると思う。この本からの引用がある場合は、以下では「中山本」と略する。

 中山茂はハーバード大学に留学して、著名な科学史家で哲学者のトーマス・クーンの指導を受けた人物で、帰国後は東大で科学史を研究した(2014年5月に死去)。中山はクーンの有名な「パラダイム論」の日本への紹介者でもある。

 中山茂の考え方はざっくり言うと広重徹(ひろしげとおる)に近く、「中山本」の記述内容も広重の「戦後日本の科学運動」、「科学の社会史」の内容を、基本的には踏襲している。終戦直後のGHQ保護下にあった日本の科学者達は、戦前の封建体制打破を旗印に左翼思想を広く受け入れていた。しかし、米ソの冷戦体制が始まる1950年代になると、アメリカの姿勢が反共に代わり、日本を中ソに対抗させる目的から経済復興を急ぐようになる。

 多くの科学者達は、このような政治・社会情勢の変化に対応することが出来なかった。科学者達は日本学術会議を舞台として、反体制活動を繰り広げるものの、時代の流れに押されてゆき、60年代になるとほとんどは「科学の体制化」に組み込まれてしまった、というものである。

2.1日本学術会議成立の裏側

  最初に茅・伏見提案の舞台となった、日本学術会議という組織について述べる。1948年に発足した日本学術会議は、現在も存続する日本の代表的な科学者団体であるが、終戦直後の発足当時と現在では、学術会議の活動の意味合いはかなり異なる。発足当時の学術会議は、単なる科学者達の寄合(よりあい)集団などではなく、科学を拠り所にした民主主義の積極的な普及を、日本政府に対して提言するために組織された、強力な意見団体であった。
 
 広重徹 の著作「戦後日本の科学運動」によると、戦前の日本の科学研究体制は、各種の賞の授与や研究援助を行う「帝国学士院」、自然科学、工学に関して国内外の折衝にあたると共に文部省に協力して研究費の配分も検討する「学術研究会議」、学術研究への財政援助を行う財団法人「日本学術振興会」の3つの団体により代表されていた。しかしいずれの組織も、東大を中心とした強固な学閥支配の下にあり、戦時中には政府、軍と結びついて戦時体制を支える等の体制的なゆがみを作り出していたという。

 戦後になって、これらの旧来の科学体制の抱える問題を抜本的に解決するために、新たに作られたのが日本学術会議である。しかしその設立にあたっては、アメリカによる背後からの強力な支援が行なわれた事実がある。

 学術会議の成立過程については、広重の「科学の社会史」に詳しく書かれている。ここではより簡潔にまとまった説明として、大阪大学出身の物理学者の中井浩二(なかいこうじ)氏がネットで公開されている、「大型研究を支えた研究体制」という論考から引用する。

 中井氏は阪大時代に伏見康冶の指導の下で原子核物理の研究を行い、茨城県東海村の日本原子力研究所(原研、げんけん)に第一期生として入所して研究され、その後に阪大に戻り、東大、東京理科大教授を歴任された方である。

-引用はじめ-

 日本学術会議誕生の物語を聞くと、日本国憲法の誕生物語を思わせるところがある。憲法が、GHQ(占領軍総司令部) のイニシャティブにより理想に満ちた民主主義を植え付けたように、学術会議は GHQ 科学顧問のイニシャティブによって研究者民主主義の基礎を作った。(中略) 戦後の科学技術に関する占領軍の政策は極めて粗っぽいものであったが、やがて米国内にも批判が生まれてきた。そこで、GHQ に本当の科学者を顧問として入れることが必要であるということになり、1946 年に H.C. ケリー という物理学者が GHQ の科学技術部に赴任してきた。

 ケリー氏は、精力的に各地の大学を訪問し日本の学術体制について学者の意見を聞いてまわったそうである。北大を訪ねて化学科の堀内寿郎(ほりうちとしろう)教授と話した時、同教授から日本にも学士院があるが単なる栄誉機関のようなものでアメリカの科学アカデミーのように積極的な活動はしていない、新しい組織を創る必要があるということを聞いた。

 ケリー氏は、早速この問題に取り組むことにして、堀内教授の助言により東大植物学科の田宮博(たみやひろし)教授に学術体制の刷新策を建てるように求めた。田宮教授は、その頃北大から東大に移られた物理学科の茅誠司(かやせいじ)教授に協力を求め、また英語に強い人にいて欲しいというので同じ物理学科の嵯峨根遼吉(さがねりょうきち)教授にも協力を求め、田宮・茅・嵯峨根の「3人組」を作ってケリー氏との交渉を重ねられた。

 「3 人組」が中核となって科学渉外連絡委員会(通称 SL: Science Liason Group) を形成し、さらに工学系のEL、医学系のML、農学系のAL ができたそうであるが、これらはGHQ のケリー氏側の刷新努力であった。一方文部省の側では、戦前から日本の研究体制を構成してきた学士院、学術研究会議、学術振興会を改組しようという動きが、学術研究会議の建議に基づいて始まっていた。

 学術研究会議や文部省でいろいろな議論を重ねたが、3団体の改組は内部の反対にもあって進まなかった。そこで、GHQ の方から改組案は白紙に還してもっと全国的な視野で民主的な審議をするようにという助言があり、SL などの渉外連絡委員会は文部省の世話で学術体制世話人会に移行し、さらに学術体制刷新委員会が作られた。会長は東大工学部の兼重寛九郎(かねしげかんくろう)教授であった。こうしてできた学術体制刷新委員会が、学術会議の構想を固めた。

-引用終わり-

 相田です。上の中井氏の記述にあるように、日本学術会議の設立にあたりその屋台骨を作ったのはケリーというアメリカ人物理学者であった。ケリーが日本に来た理由は、米軍が理研、阪大、京大が所有していたサイクロトロンを破壊した事件に由来する。これに対して、日本の科学技術の復興を妨げる野蛮な行為であるとの非難が、世界中の科学者の間で巻き起こり、まともな科学者をGHQに派遣するべきとの意見が米国でも出たためとされる。

 しかし、ケリーが日本に来た本当の目的は、日本の科学技術の状況について各地を巡って調査し、アメリカに役立つような技術や人材を見出すこと、であったらしい。

 ケリーとの交渉に際しては、田宮・茅・嵯峨根による「3人組」が結成され、「3人組」が中核となって科学渉外連絡委員会(略称リエゾン) という若手科学者の集まりが形成され、学術制度の改革が着手されたとされている。このリエゾンが作られる様子に関しては、当事者の一人である茅誠司が後年インタビューの形で述べている。

 茅の話によるとケリーが最初に日本に来たのは真冬の一月であった。ケリーは、戦時中の北大でマイクロ波(波長の短い電波)を兵器に応用した通称「殺人光線」の研究が行われた、との話を確認する目的で、最初に北海道を訪れた。行ってみるとその設備は、大学ではなく当別という場所に疎開してあるという話であったため、ケリーが更に兵卒と二人で出向くと、大きさ2m程のマグネトロン(電子レンジ等に使われる高周波発生装置)であることを確認した。

 「殺人光線」とは程遠い実体に安心したものの、大雪に遭遇した二人は動きが取れなくなり、田舎の牧場に1泊する羽目になった。そこで一人の老婆から暖房や食事等の世話を受けたケリーは、日本に滞在する間その親切を忘れることは無かったという。その際にケリーが北大に出向いたことが、そもそもの事の始まりであったらしい。以下に茅の話を引用する。

―引用はじめ―

(茅)リエゾンというのはケリーさんが北海道へ行ったわけでしょう、今の事件で。そうしたら堀内といういうやつに出会ったわけです.堀内というやつはむちゃくちゃな野郎だから、北海道の熊だというわけです。怒って,アメリカは何だ,この大学の中に入って来て勝手に振舞って、女を連れて来たりしてけしからん、とやっちゃったらしいんです。そしたらケリーさんがえらい感激しちゃって、文部省と付き合っていたんじゃ本当の事はわからないということになっちゃった。科学者、学者と直接の触れ合いを作ろうという事になったのが、リエゾンの最初です。

(茅)僕はこっち(引用者注:東京のこと)にいて何もしなかったんだ。堀内と仲のいい男に田宮博という男がいて、田宮と仲のいいのに嵯峨根がいた。嵯峨根はもちろん僕と仲が良かった。そういう集まりをやるから(上野の)科学博物館に集まれというので、何の気なしに行ったんですよ。(中略)とにかくこういうものを作ろう、誰かを委員長にしなければいけない、という話になったんですよ。

 委員長はケリーさんの専門の物理がいいそうかなと思っているうちに、しかし物理でも東京にいるやつじゃないと駄目だというと、僕一人きりなんです。それじゃ俺じゃないかといったら、そうなんだという訳です。それでとうとう掴(つか)まっちゃって、S.L.(scientific liaison)の委員長をやって、ケリーさんの考えを直接学者に伝えて、そういう役目をやった。それが中心になって日本の学術体制をどうするか考えよう。それには最初にそういうものを審議する委員会を作ろうということになったんですよ。

(茅)一番最初は学術委員会の世話人会を作らせた。その後に体制刷新委員会というものが、その世話人会の考えでいろんな所で選挙して刷新委員会ができて、出来上がった時に、片山(哲、かたやまてつ)内閣だったかな、湯川さんが挨拶に来てその結論は重んじるというようなことを言ったんですよ。兼重(かねしげ)さんが委員長になったんですよ。

(質問者)その辺のは政府の委員会になっていたわけですか。

(茅)政府じゃないです。政府の委員会じゃないですが、政府はその結論を尊重するよということを言ったわけです。全然政府の機関じゃないです。大変な騒ぎだったですよ。それで学術会議というものを作って、日本の復興というものは学術に対して学者が全部力を合わせてやろうと言ったのです。こと志と違って、私の思っていたようにはならなかったですがね。

〔茅先生を囲んで 日本物理学会誌 第32巻 第10号 1977年 より〕

-引用終わり-

 相田です。GHQと交渉するための組織とはいうものの、茅の話によると、リエゾンが出来た経緯は、成り行きまかせというか、ケリーが北海道で偶然に知り合い親交を深めた学者同士の、単なる顔のつながりにすぎないことがわかる。知り合ったきっかけは偶然であったが、茅をリーダーとする若手研究者たちは、ケリーをはじめとするGHQの強力な後ろ盾の下で、学術体制の改革案を纏めて行き、1949年1月に発足した新たな組織が 日本学術会議 である。

 発足直後の日本学術会議の最大の特徴は、そのメンバーが、一定の条件を満足する科学者または研究者を有権者とする「直接選挙」により選ばれることである。選挙への立候補には政府への事前連絡やお墨付き等は一切必要なく、学術論文を書くか学会の推薦を受けた科学者あれば、誰でも立候補できるのである。

 さらに、学術会議は日本国政府から独立した組織であるとされ、政府の政策とは独立した提言を行うことが可能であり、政府は学術会議の提言を尊重しなければならない、とされていた。組織の運営は政府予算で行われるものの、場合によっては政府の意向に反する提言を出すことも、学術会議には許されていた。ケリー等の米国スタッフの意向により、強力な権限と政府からの独立性が、科学者達に与えられていたことがわかる。

 上の引用文で中井氏は「学術会議は GHQ 科学顧問のイニシャティブによって研究者民主主義の基礎を作った」と述べている。この記載からわかるように、日本学術会議という組織は、GHQが遅れた人種である日本人に、理想的な民主主義を植え付けるための、ソーシャル・エンジニアリング(副島隆彦のいう「文明化外科手術 (ぶんめいかげかしゅじゅつ)」)の一環として、半ば強制的に作られたのは明白である。原子力開発に関する茅・伏見提案は、このような場で俎上(そじょう)に上げられて議論されたことを、よく認識する必要がある。

 本論考の第1章で述べたように、終戦直後の研究者の間では 武谷三男(たけたにみつお) の「弁証法の諸問題」がバイブルとされており、学者の多くは左翼思想への共感を抱いていた。学術会議の初期の選挙ではこのような背景もあって、左翼的思想を有する学者が多数当選する結果となった。1948年12月に行われた第1回総選挙では、210名の定員に対して944名の候補者が立つ激戦であった。

 「中山本」の記述によると、日本共産党からは61人の候補者が立ち26名が当選し、そのほかに40名ほどの同調者がいたという。共産党の影響下にあった民主主義科学者協会(民科、みんか)に擁立された候補からの当選者も、総会員数の1割以上を占めた。

 一方で、東大出身の体制派の学者の多くは落選する羽目となった。学術体制刷新委員会の会長で、東大教授として当時最大の権力を持っていたとされる 兼重寛九郎(かねしげかんくろう) でさえも、第1回総選挙では落選した。「三人組」の中では茅誠司(かやせいじ)は辛うじて当選したが、 嵯峨根遼吉(さがねりょうきち) は落選した。

 嵯峨根は戦前に、サイクロトロンの発明者であるアメリカのローレンスの下に留学して、本場の加速器による原子核実験の手解きを受けてきた日本随一の実験物理学者である。帰国した嵯峨根は、理研で仁科(芳雄、にしなよしお)と協力してサイクロトロンの建設と実験に尽力した。

 しかし嵯峨根と仁科との間では次第に意見が異なるようになり、戦時体制の色合いも濃くなるにつれて、嵯峨根は理研から東大に活動を移し、海軍の要請に応じて軍事研究にも積極的に協力するようになった。このため左翼系の学者達から、嵯峨根は体制側に協力する学者として快く思われていなかったようである。

 嵯峨根は、原子核の周囲を電子が回転するという「土星の輪」のような原子構造モデルを、ラザフォードの実験よりも早く提唱したことで有名な長岡半太郎(ながおかはんたろう)の息子である。長岡半太郎と菊池大麓(きくちだいろく) は、今の岡山県美作(みまさか)市の出自の蘭学者の 箕作阮甫 (みつくりげんぽ)から始まる、数多くの著名な学者・研究者を輩出した、箕作家(みつくりけ)という名家の一族であった。

 阮甫の婿養子となった箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の息子で、菊池家の婿養子となったのが大麓である。また、箕作阮甫の孫にあたる法学者で官僚・政治家でもあった箕作麟祥(みつくりりんしょう)の娘婿が、長岡半太郎である。ただし嵯峨根家に養子に出された半太郎の五男の遼吉は、半太郎と後妻との間の子供であるため、箕作家の直接の血筋は継いでいないという。大変ややこしい話ではあるが、菊池正士と嵯峨根遼吉という、日本の原子核実験を立ち上げた理研出身の二人の物理学者は、お互いが親戚筋の関係にあったのである。

 学術会議選挙に落選した嵯峨根は東大を離れて、再びアメリカのローレンスの下に留学することになる。しかしアメリカに渡った嵯峨根は、おとなしく研究に専念していただけではなく、ある目的を持って活動していたらしい。アメリカでの嵯峨根の様子については後述する。

 このように、結成直後には強力な権限を与えられていた学術会議であるが、現在の学術会議ではこのような政府への意見団体としての性質は失われてしまっている。この経緯について、中井氏の「大型研究を支えた研究体制」から再び引用する。

-引用はじめ-

  日本学術会議の毅然とした姿勢は、声明として表明されることが多かったが、そのなかには政界・財界の耳に逆らうことも少なくなかった。破壊活動防止法案、大学管理法案など自民党政府の政策を厳しく批判する声明は、明らかに自民党の中の学術会議批判を煽った。総理府所轄の機関である学術会議が、政府批判を繰り返すことは困ったに違いない。

 学術会議第2期のころ、吉田内閣が学術会議の文部省移管或いは民間移管を検討したことがあった。学術会議は第2期最後の総会で要望をまとめ、また、第3期の冒頭の総会でも政府に対する申し入れを採択して移管を回避することに成功した。

 しかし、その後にも学術会議の足元を揺さぶるような立法・行政措置が続いた。1956 年に科学技術庁が設置され、1959 年には科学技術会議が創設された。また、1967 年には文部省に学術審議会が発足した。特に、学術審議会が発足したことにより、学術会議における審議に基づいた勧告や要望の重みがなくなってしまった。

 このような状況に対し、学術会議の中にもその「在り方」を検討し改革を進める努力が始まっていたが、学者の議論はなかなかまとまらなかった。そうこうするうち、1981 年になって突然に、鈴木内閣の中山太郎(なかやまたろう)総務長官が改革問題に火をつけた。中山長官が、きっかけとして取り上げたのは国際会議への科学者の派遣問題であったが、会員の公選制に対する政府自民党の反発が背景にあった。会員の公選制により反政府的な左翼勢力の学者が学術会議を牛耳っているという考えであった。

 結局1983 年の秋に「日本学術会議法の一部を改正する法律案」が国会を通過・成立し、学術会議は大幅な組織改編を強いられることとなった。直接選挙による公選であった会員の選出は、学・協会が選んだ候補者の中から同じく学・協会が指名する推薦人が選考し、内閣総理大臣が任命するというように変わった。

 会員選出方式の変更が学術会議の性格を変えた要素は無視できない。しかし、何よりも政府自民党の主導によって進められた改革は、研究者の総意に基づいて学術政策を立てるという精神を踏みにじるものであった。このことは、その後の学術会議の運営の中で陰に陽に反映し、創設当初の学術会議の理念が希薄になっていく原因となっている。

―引用終わり―

 相田です。終戦直後の科学者達には GHQ の意向により強力な権限が与えられたものの、政府の意向に反する提言を繰り返す学術会議に対して、自民党政治家により、その牙(きば)が少しずつ抜かれるような組織改正が進められた、という事である。1983 年には直接選挙による会員の選出が、推薦人による選考に変えられたことで、学術会議の体制は実質的に骨抜きにされた状態になってしまっている。

2.2 義理人情を越えた合理の人- 茅誠司

 ここで 茅誠司 (かやせいじ)という人物について触れる。 茅誠司は物理学者であるが専門は素粒子論や原子核実験ではなく、金属の磁性の理論と実験である。茅誠司の先生は 本多光太郎 (ほんだこうたろう)という理研出身の高名な学者である。本多光太郎は理研から仙台の東北大学に拠点を移して、近代的な鉄鋼冶金学(てっこうやきんがく)を日本に興した大学者である。本多の活躍があったことから、日本金属学会の事務局は今でも仙台に置かれている。

 本多は KS鋼 という材料を開発したことで知られるが、KS鋼とは通常の鉄骨材やパイプなどの構造材用の金属ではなく、開発当事は世界最強の性能を誇った磁石であった。


茅誠司

 これは有名な事実であるが、日本の研究者は磁石材料の開発にものすごく強い。これまで知られている磁石の多くは日本人が発見したものである。 本多のKS鋼の発見から少し後に東京工業大学の三島徳七(みしまとくしち)が、より強力な MK鋼 という磁石を発見した。さらにほぼ同時期の東工大では、加藤与五郎 (かとうよごろう)と 武井武 (たけいたけし)により酸化物(セラミックス)を原料とするフェライト磁石が発見された。フェライト磁石は磁力はそれ程強くないが、金属磁石よりも安価で加工が容易であることから、現在でも幅広く用いられている。

 戦後になると海外で、希土類元素(レアアース)を添加したより強力な磁石が開発されて広まったが、60~70年代には当時の松下電器にいた俵好夫(たわらよしお、歌人の 俵万智 の実父である)が、独自のサマリウム-コバルト磁石を開発して、磁石性能の世界記録を更新している。しかし日本の磁石開発のハイライトは何と言っても、80年代半ばに 佐川眞人 (さがわまさと)により発見されたネオジム-鉄-ホウ素(NdFeB)磁石である。

 富士通の研究所にいた佐川は学会講演などを聞きながら、ネオジム-鉄-ホウ素の組み合わせにより強力な磁石が出来る着想を抱き、会社に研究の提案をおこなった。しかし、富士通では材料の研究から撤退する方針であったため、佐川の提案は却下されてしまう。やむなく佐川は、時間の合間をみて秘かに実験を進めていたが会社に知られる処となり、会社の方針に従わない人物として佐川は上司から激しく叱責されたという。

 退社の意思を決めた佐川であったが、辞めるまで3ヶ月の猶予があったことから、その間に乳鉢と焼成のための古い電気炉やX線評価装置等の空いた実験道具を借りて、佐川は研究を続けた。新磁石の手応えを得た佐川は、数社のリクルート活動を経て、大阪の住友特殊金属に迎えられる。

 そこで佐川が開発に成功したのが、現在でも最強の性能を誇るNdFeB素磁石である。80~90年代の日本の電子部品産業の躍進は、佐川によるNdFeB磁石の発見が理由の一つと言って良い。

 しかし史上最強の佐川の磁石も大きな弱点を抱えていた。NdFeB磁石 は熱に弱く100℃以上に加熱すると磁力が大幅に低下してしまうのである。この解決法として、重希土類(じゅうきどるい)金属のディスプロシウム(Dy)という聞きなれない元素を、NdFeB磁石に少量添加する方法が佐川たちにより見出された。しかしディスプロシウムは稀少元素であり、その産出の9割が中国による等と産地も偏在していた。日本は当初、特に使い道も無かったディスプロシウムを、比較的安価で中国から購入していた。しかし近年になり、中国政府はディスプロシウムの生産、流通を管理する方針を強め、価格が次第に上昇する傾向にあった。

 そうした中で起こったのが、2007の東シナ海での海上保安庁による中国漁船の拿捕事件と、それに続く中国のレアメタル輸出の停止である。レアメタル問題の核心は ディスプロシウムにあり、これがないとNdFeB磁石 の性能が十分に発揮できなくなる。 中国のレアメタル輸出停止が日本に与えた影響は甚大で、1~2兆円規模の損失が日本経済に生じたとされる。

 これだけの経済的損失を与えたにもかかわらず、本事件を引き起こした当事者の前原誠司外務大臣に対しては、マスコミからの批判はほとんど行われなかったように思う。当事のマスコミは、小沢一郎の会計処理の単なる手続き不備について、「政治とカネ」等という大それた言い回しの一大キャンペーンを展開中であったが、前原の引き起こした日本経済への損失については全くの不問にされたまま、コトはお終いにされてしまった。日本は一体どういう国家なのであろうか? 北朝鮮並みの情報統制国家と言われても、否定できないのではないのか?

 話がだいぶそれてしまったので茅誠司に戻すと、本多光太郎の指導の下で茅の行った研究は、上記のような日本の磁石材料開発の礎となる重要な内容であった。東北大時代の茅の最大の研究成果は、鉄、ニッケル、コバルト等の金属の磁性が、結晶方向を変えることで徐々に変化してゆく「結晶磁気異方性」の発見であり、磁性物理の教科書には必ず茅の論文のグラフが引用される優れた研究である。しかし研究者としての茅の最大の成果は、茅自身が東北大の「本多スクール」の一番弟子であったにも係わらず、師匠である本多光太郎と袂を分かち北海道大学に移り、独自の「茅(かや)スクール」を興したことにあるとされる。

 本多が活躍した1900~1920年代は、鉄などの金属が磁性を示す理由についての詳細な説明はされていなかった。フランスのワイスという物理学者は様々な実験データを元に、金属の結晶内部には「分子磁場」という一定領域に影響を与える磁場が存在し、この分子磁場が向きや大きさを変えることで金属の磁性が発現するとした。

 一方の本多は、「分子磁場」が形成される理由が不明であることから、ワイスのモデルに反対し、独自の「本多モデル」を提唱した。マックスウェルの電磁場方程式によると磁場が形成される要因は、電荷をもった物質(電子や陽子などの素粒子も該当する)の運動によるとされていた。本多はボーアの前期量子論のモデルを参考として、原子の内部に存在する電子と陽子が核の周囲を回転することで、結晶中の個々の原子が単一の磁石として振舞い、磁性が発現すると考えた。

 しかし金属が磁性を示す本質は、原子核の周りを電子、陽子が回転する運動ではなく、「スピン」と呼ばれる電子の「自転運動」が支配していることが、1920年代後半になり次第に明らかにされた。スピンはディラックの唱えた相対論的波動方程式 を解く際に導かれる現象で、本多の時代にはまだ広く認識されてはいなかった。茅は当初は本多のモデルに従って自分の研究をまとめていたが、1928-30年にドイツに留学したことをきっかけとして、次第にワイスの「分子磁場説」の優位性を認識することとなった。

 量子力学の立役者の一人のハイゼンベルクは1928の論文で、ワイスの分子磁場の形成は、結晶内の多数の電子のスピンによる相互作用に起因することを、数理モデルにより明らかにした。ハイゼンベルクのモデルは、彼の提唱した行列力学を拡張した概念である「群論(ぐんろん)」を駆使した、当時の量子力学の最先端の極めて難解な内容であった。ドイツにいた茅は、ハイゼンベルク理論を理解するべく格闘して、結果として本多モデルから離れるに至ったという。

 茅が本多の下から離れて、ワイスの分子磁場説を日本で初めて受け入れて普及させたことが、日本の磁性物理の遅れを最小限に留めることが出来た要因として、科学史の世界では高く評価されているそうである。

 茅の考え方の特徴を挙げると、1)グローバルな最新の情報に敏感である、2)左翼思想家ではない、3)状況判断が非常に正確である、4)義理人情よりも合理的な判断を優先させる、等の点にあるといえる。研究者として非常に優秀であると共に、考え方が現実的かつ合理的な人物である。戦後の学術体制の建て直しをGHQから任されるのも、むべなるかなと思える。終戦直前に北大から東大に移った茅は、ケリーとの出会いをきっかけとして研究マネージャーとしての頭角を表し、最終的には東大総長にまで上り詰めることとなる。

 茅がドイツに滞在していた1928-30年は、湯川、朝永もまだ学生であり、共に京都で独学で量子力学を学んでいた時期である。奇しくも茅は湯川、朝永と同じ時期に、当時の最先端の量子力学理論(ハイゼンベルク・モデル)の習得に打ち込んでいたことになる。材料実験が専門の茅は、日本に戻ってからは量子力学の最先端から離れるものの、その大まかな流れについては掴んでいたであろう。

 また嵯峨根遼吉とも親しくしていた茅は、原子核実験に関する最先端の情報も、嵯峨根を通じて得ていたであろう。したがって茅は、原子力については別に素人だった訳ではなく、当時の最新技術やグローバルな状況についても、十分に把握していただろうと、私は考える。後に 伏見康治(ふしみこうじ) から原子力研究の開始について相談された際に、茅が伏見を積極的に支援したのは、以上のような事前準備を整えていたからだと私は考えている。

 茅の出身大学は東大ではなく、戦前は「蔵前(くらまえ)」と呼ばれていた 東京工業大学 である。そこから東北大、北大を経て東大総長まで登ってゆく茅の生き様には、叩き上げのしぶとさがある。伏見康治の生き方にも、茅と同じく叩き上げの強さが感じられる。

 伏見は東大出身であるが、師匠である数理物理学者の 寺沢寛一 (てらさわかんいち、応用数学の参考書の著者として有名)の指示により、卒業後すぐに新設の阪大に移ることになった。伏見は当初は流体力学の友近教授に師事する筈であったが、たまたま 菊池正士 から声を掛けられたことで原子核実験に興味を持ち、専攻を変えたとのことである。しかし、伏見と菊池の関係もそれほど良好ではなかったらしい。

 阪大理学部出身の物理学者の 福井崇時 (ふくいしゅうじ)氏の回想によると、学生時代の伏見の講義の話の中で、次のようなエピソードがあったという。ある時、バンデグラフという加速器装置の設計を行っていた伏見は、狙っていた性能が十分出せないことを菊池に相談したところ、菊池からもっと高価な部品を用いるように強く要請されたという。しかし伏見は、「自分の育った環境での価値判断、金銭感覚を超える高価な機材を使うことは出来ない」と菊池に伝えて、実験物理から理論物理への転身を決断したそうである。

 伏見は数学の能力が非常に高く、その実力は朝永を超えているという評価もあったという。一方の菊池は、物理学者としての天才的なカンやひらめきは持ち合わせていたものの、緻密な論理を地道に積み上げることは苦手であったらしい。研究者としてのスタイルも菊池と伏見では水と油のように相反するものだったようである。

 伏見は非常に頭の切れる学者であったため、物理のどのような分野であっても、少しの勉強により、相当に深いところまでその内容を理解できたらしい。その反面、伏見には研究対象が一つに定まらず発散する傾向があり、物理学の歴史に残る大発見に至ることなく、器用貧乏(きようびんぼう)に終わってしまった、という意見もあるようである。

 それでも伏見は、茅が第一線を退いた後の1960-80年代にかけて、学術会議会の副会長、会長を歴任し、公明党から参議院議員に出馬・当選するなどの離れ業を演じた後に、2008年に98歳の長寿を全うした。学術行政や国会議員としての積極的な活動も、研究以外の広い対象に伏見の興味が向かった結果なのであろう。

 2.3 民主主義科学者協会

 これまで度々名前が挙がった 民主主義科学者協会 (通称「民科」)とは、終戦直後から1950年代後半までの十数年のあいだ活動した科学者達の団体である。その活動の趣旨は、「戦争中の軍国主義の下で歪められた学問体制を民主主義科学者達の手に取り戻し、民衆のための科学と技術を構築するため」とされた。ここで確認するべきことは、終戦当時に主張された民主主義とは、実質的には共産主義を意味することである。すなわち民科とは、共産主義を信奉する科学者達を主体した、科学技術の分野に新しい流れを作り出すための運動である、といえる。

 21世紀に入った今現在では、民科の活動の概要についてわかりやすく記した書籍はほとんど見あたらない。ここでは主に、広重徹の著書「戦後日本の科学運動」の中の、「第五章 民主主義科学者協会」から引用して解説する。広重によると、「民科は哲学、社会科学から自然科学までのほとんどあらゆる学問分野の専門家を会員にもち、一時は会員数11,000名をこえた(ただし、学生をはじめ非専門家会員を含む)民科は、たしかに学会の有力な一勢力であった」とある。広重自身も学生時代は民科の積極的な活動員の一人であった。

 以下に広重の本から、民科の発足時の状況について引用する。

-引用始め-

 民主主義科学者協会は1946年1月12日に東京で創立大会をおこなって発足した。発足に至るまでの準備に中心となって努力したのは、主として戦前に、プロレタリア科学研究所、唯物論研究会で活躍した人たちであった。しかし、これらの戦前の科学運動は、マルクス主義者だけのものであり、またとくに自然科学部門の場合、現場の科学者とのつながりをほとんどもたなかったところに、大きな制約があった。

 民科が自由主義者からマルクス主義者まで、また、社会科学者だけでなく、自然科学者・技術者までを幅広く結集しようとしたのは、わが国の科学運動にとって画期的なことであった。創立当時の幹事の名簿を見ると、三分の一近い自然科学者がおり、(中略)創立間もない頃の会員名簿には、坂田昌一、武谷三男だけでなく、湯川秀樹、朝永振一郎の名ものっている。

 このように広汎な科学者が集まったというのも、当時のいちじるしい民主主義の高揚を無視しては理解することができない。大部分の科学者が戦争強力に対して反省ないしはにがい気持ちをいだいていたし、解放的なふんい気は、とくに社会科学者のあいだに、これからは本当の学問がやれるという気持ちを一般化させていたのである。創立大会の議事録をみると、GHQ民間情報局 のヒックス(W. W. Hicks)が個人の資格で祝辞を述べ、他の民主団体からのメッセージがつぎつぎと読まれ、科学会の戦争犯罪人を清掃するための特別委員会をおけという緊急動議が満場の拍手で可決されるという有様で、当時のたかぶったふんい気が古びた紙面からいまなおじかに伝わってくるような感じがする。

-引用終わり-

 相田です。SNSIとして興味を引かれるのは、GHQ民間情報局のヒックスにより祝辞が述べられたという記載である。

 終戦直後の数年の間は、GHQのニューディーラー達が日本共産党を積極的に支援していたことは有名な事実である。として、マッカーサーと協力して日本国憲法をまとめ上げた、GHQ民政局次長のケージズは真正のアメリカ共産党(CPUSA 、シー・ピー・ユー・エス・エイ Communist Party USA)の党員であった。これらの事実については、片岡鉄哉(かたおかてつや)氏の著書で、SNSIのバイブルの一つでもある「日本永久占領」に、余すことなく述べられている。 広重の記述から、民科の結成段階においてもGHQのバックアップがあった事実がうかがえる。

 ただし民科が発足してしばらく経つと、GHQとのつながりは薄れていたらしい。日本学術会議の立上げに協力していたケリーが、民科の事務局まで調査に出向いた際に、話を聞くことが出来ずに門前払いを食らったことが、「中山本」に記されている。

 創立時の民科の活動方針を端的に言うと「民主主義革命のために科学運動をなす」であると、広重は記している。以下に民科の具体的な活動についての記述を引用する。

-引用始め-

 民主的革命のために、ということから当然ひきだされるのは、啓蒙活動である。民科内部での研究会はもちろん活発におこなわれたが、それに劣らず、あるいはそれ以上に会員がエネルギーをそそいだのは啓蒙活動であった。その主目標は、敗戦までの日本の天皇制・封建制・軍国主義への批判から民主主義革命の必要をとき、さらには戦前の学問・学者の時局便乗を批判することに向けられた。また、マルクス主義諸科学の普及も力をそそがれたテーマであった。

 民科はマルクス主義者以外の科学者を包含することを目指し、事実かなり包含もしていたのであるが、啓蒙活動に現われたかぎりではマルクス主義が圧倒的であった。(中略)他方、出版活動もさかんにおこなわれた。(中略)これらの出版物には、戦争のあいだ発言を抑圧されて来た進歩的科学者の啓蒙への情熱があふれており、学問的にも高い内容のものが少なくなかった。そして当時の学生層に与えた影響はまことに大きかった。

-引用終わり-

 相田です。21世紀を迎えた現在の状況から考えると、研究者達が通常の学界活動とは別に、実質的にはマルクス思想である「民主主義」を普及させるための組織的な活動を行うことなど、ちょっと想像もつかないことである。民科の存在と活動は、終戦直後の特殊な社会情勢を強く反映した出来事であることは間違いない。

 先に少しだけ触れた 井尻正二 (いじりしょうじ)をリーダーとする 「地学団体研究会(地団研)」 は、民科とは別組織として1947年に結成されたが、49年4月の民科の総会で正式に民科との合同がきめられた。井尻は1960年代に長野県野尻湖で進められたナウマンゾウの発掘作業の中心人物として有名な、地質学・古生物学の専門家である。

 広重によると、井尻は「地質学は歴史科学である」という独自の方法論を唱えており、井尻の思想を強く信奉していた地団研のメンバー達は、「地団研でない他の奴らはみなバカだ」といった、独特の非寛容性というか偏狭なエリート意識を、民科に持ち込んでいたという。地団研と合同した民科において、井尻はその発言力を次第に強めることとなる。

 一方で朝鮮戦争が始まる前年の1949年頃になると、それまでのGHQの容共的な姿勢へのアメリカ本国からの批判が強まり、日本を共産主義ソビエトへの防波堤とするべきだとする、所謂「逆コース」の流れが本格化する。翌1950年には、共産主義者を公職から追放する所謂レッド・パージが、日本でもおおやけに開始されると、民科の会員にも動揺が広がり脱会者が相次ぐようになる。

 日本におけるレッド・パージは、1949年に、GHQ経済財政顧問 として来日したジョセフ・ドッジの要求による、超緊縮予算の実行 -所謂ドッジ・ライン- の一環として実施された。

 ドッジ・ラインによる国家予算の大幅削減により、公務員、企業において大規模な組織の合理化と人員削減が強行された。東大にいた南部陽一郎等の、朝永の弟子筋にあたる若手素粒子物理学者達が、軒並み東大を追放されたのも、このドッジ・ラインによる人員削減のあおりを受けたものである。ここで各職場において解雇者のリストを作成する際に、GHQ及び日本政府の意向を反映して、共産主義活動家や民科の関係者が積極的に挙げられたのである。

 当時、国立科学博物館に勤務していた井尻正二は、博物館の人員整理者に含められて解雇され、その後の十数年を在野で過ごす羽目となった。また東大農学部を卒業して農林省に勤めていた 福島要一(ふくしまよういち)という農学者がいた。福島は共産党系科学者達の強い推薦を受けて、第一回学術会議選挙に当選したものの、直後にレッド・パージにより農林省を解雇されてしまう。しかし解雇された井尻、福島は共に、無所属のままで学術会議員に立候補して、分厚い左翼系研究者の固定票を背景としてその後も当選を続けた。

 福島は1986年までの36年もの間、無所属のまま学術会員の資格を失わず、様々な委員会を取り仕切り活躍したことから、後には「ミスター学術会議」とまで呼ばれることになる。井尻、福島に代表される「民科系」の左翼学者が、何度も議員に選ばれ続けることが、体制側から学術会議が警戒される大きな要因となっていた。

 話を民科に戻すと、逆コース開始以降の民科への逆風を乗り切るために、1952年に民科の指導部が打ち出した新たな方針が「国民的科学(こくみんてきかがく)」である。

 「国民的科学」とは歴史学者の 石母田正 (いしもだしょう)が提案したスローガンである。石母田によるとその趣旨は「日本の対米従属、植民地化が深まる状況下では、日本民族のアメリカ帝国主義からの解放こそ最重要の課題である」とし、「民族解放のたたかいに大衆を立たせて民主革命に奉仕することに、貢献する学問である」、という、一体何を意味するのかはっきりしないものである。石母田の説明はさらに続き、「国民の中にはいり、国民に学ぶことで、科学者の人間改造が行われる」ことと、「国民の中に受けつがれて来た文化遺産を掘り起こす」ことが重要であるとした。

 この一見して意味不明な「国民的科学」の実践として民科首脳部が提案したことは、「国民がどのような科学的な要求を持っているかを聞き出そう」というものであった。具体的には、地方の農村、漁村を回って話を聞いたり、「村の歴史、工場の歴史」といった紙芝居やスライドを見せる、といった自然科学者がやるべきとは思えない、驚くべき内容であったという。

 このような地方に出掛けて、地元の人々との交流を深める活動は、地質学の野外調査を生業とした地団研が広く行なっていたもので、井尻正二の考えが大きく影響していたらしい。また、当時民科への介入を強めていた日本共産党の選挙活動の一環という、裏の目的もあったようである。

 しかし、独立した研究者である年長の会員達は、これらの引き回しともいえる活動について行けずに、当然ながら民科から離れてゆくこととなった。代わってこれらの「農村調査」の主体となったのは、新たに加わった学生や大学院生などの若手会員であった。しかし農村調査から戻った若手会員達は、「田舎に行っただけで何かをやり遂げたような気になる」ことで、活動に消極的な年長者をバカにするような気風が生じ、民科は求心力をますます低下させて行くことになる。

 1954年のビキニ事件が起こった際には、一般市民への放射線や核兵器の問題についての説明会が、民科の主催により数多く行われた。その際には、この農村調査で培われたネットワークが大いに役に立ったというメリットもあった。しかしこれが、民科の活動の最後の輝きとなる。翌55年の7月には遂に、日本共産党の第6回全国協議会(六全協)において、「党の強制的な介入が民科の混乱を招いた要因である」という、民科への梯子(はしご)を外すような自己批判が行われた。これにより民科の体制はガタガタとなり、翌年の全国大会を最後に民科の実質的活動は停止した。同時期に地団研も民科からの脱会を宣言した。

 民科の活動停止から約10年後の1965年には、左翼思想科学者の全国組織として日本科学者会議が結成されて、現在も活動を行っている。民科末期の混乱を反省し、日本科学者会議設立の際には、首脳部による政治的な引回しを避けるような配慮がされたらしい。反原子力活動に積極的な科学者の多くは、今でも日本科学者会議の所属である。

 民科に関して一つ記しておくべきことは、伏見康治が民科の物理部会のリーダーとして活動していたという事実である。原子力研究の推進を提案した伏見は、当然ながら共産党員ではなかったが、民科の有力メンバーの一人でもあり、中曽根による原子力予算の提案時には副会長の要職にあった。伏見が民科に加わった理由は私には不明であるが、一つの可能性として師である菊池正士への反発があるように思える。

 これは有名な事実であるが、戦争中の軍による科学動員に最も積極的に協力した科学者が菊池正士であった。広重の「科学の社会史」によると、菊池は阪大理学部の 赤堀四郎 (あかほりしろう)、 浅田常三郎 (あさだつねさぶろう)の同僚二人と協力して、理学部、工学部に働きかけて、阪大戦時科学報国会という組織を1943年1月に結成した。

 伏見の回顧によると、菊池は以前から理研の仁科等と原子爆弾の可能性について議論を行っていたが、高濃度ウランの製造が当面は困難との結論に至ったことから、より緊急の課題とされていたレーダーの高性能化に菊池は目的を変えて、海軍のレーダー開発に積極的な協力を行った。

 菊池の意気込みは相当のもので、自ら志願して海軍技師となり、菊池研の主だったメンバーを説得して、海軍の研究施設に引越しして、レーダー技術に関する組織的な研究を推進した。それ以降、戦争終結まで、阪大菊池研は実質休業状態となったが、伏見は菊池の誘いに従わず、一人阪大に残って研究を続けたという。伏見の真意は不明であるが、師である菊池の軍事体制への協力に対する反省が、伏見の民科への参加を後押しした可能性があるように思える。

 しかし、伏見は自らの民科での活動に関して、「時代の証言」(同文書院、1989年)、「私の研究遍歴」(みすず書房、1988年)等の回顧録の中では全く触れていない。伏見が民科の活動について書かないのには訳がある。それについては後で明らかになる。

(次回に続く)

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