「1340」橋下徹(はしもととおる)大阪市長や一部大阪市特別顧問による「週刊朝日」に対する“言論弾圧”問題について考える。言論の自由が死ぬときとは、デモクラシーが死ぬときである。2012年11月5日

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 副島隆彦を囲む会の中田安彦(アルルの男・ヒロシ)です。今日は2012年11月5日です。まず、先日、3日のSNSI・副島隆彦を囲む会の定例会にご参加いただきありがとうございました。頂いたアンケート等は集計次第、この場所で公開していきます。

 さて、今回、私が書かなければならないことは、週刊誌『週刊朝日』と大阪市長である橋下徹・日本維新の会代表との間で先月半ばに沸き起こった、週刊朝日の記事をめぐる一連の騒動に関する最も重要な視点である。

 結論だけをまず最初に述べる。「週刊朝日」に対して、橋下徹・大阪市長が、ツイッター上でという限られた場所とはいえ、行った行為は、公権力(行政権力)による、「日本国憲法21条」違反の言論弾圧行為であり、日本の立憲民主体制(デモクラシー)を毀損する行為であり、許されるものではない、ということである。

 この文章だけを読んで、全て理解した人は以下の文章を読む必要はありません。しかしながら、「週刊朝日の連載は明らかに血統による差別を助長しているのであるから、橋下市長には当然抗議する権利があるので問題がない」というふうに考えておられる場合は、ぜひ、以下の文章を読んで下さい。

 確かに、この「週刊朝日」の記事は、橋下徹大阪市長が一個人として憤ってしまうのも仕方がない内容である。しかし、地方自治体の首長である橋下氏はそれに対して一般人が取りうるすべての行動を自由にやっていいわけではない。民間の個人や民間団体とは違う。ここが重要な点である。ただ、このことは順をおって説明していく。

 問題の経緯を知らない人のために、まずこの騒動について説明する。「週刊朝日」(2012年10月26日号)に緊急連載として、作家・ジャーナリストの佐野眞一氏による「ハシシタ:奴の本性」という記事が掲載された。この記事は橋下徹市長の生い立ちから現在に至るまでの半生をインタビューなどの取材によって明らかにするという趣旨だったようだ。しかし、この記事の中で、橋下徹市長の父親が大阪市の同和地区の生まれであったことが書かれており、さらに、その連載の書きぶりがそのことを関連して同和地区出身者に対する差別を助長するものであるかのように書かれていることが、橋下徹市長本人によってツイッターや会見の場で指摘された。そのことをマスコミも報じた。雑誌の発売から数日後の先月19日に早々と連載そのものの中止を週刊朝日側が決定している。

 私は佐野眞一の本は結構読んでいる。『日本のゴミ 豊かさの中でモノたちは 』(ちくま文庫)のような、社会の端っこを代表するゴミ問題を描いた作品から、政治家鳩山由紀夫の一族について、かなり批判的に感情的な筆致で描いた作品もある。最近で一番良かったのは、沖縄の基地地主などについて掘り下げた取材を行った、『沖縄-だれにも書かれたくなかった戦後史』(集英社)や原発事故後に警戒区域に入ったり、津波被害を受けた東北の地に足を運んで書かれた、『津波と原発―ルポ・東日本大震災』 (講談社)のような優れたルポルタージュ作品がある。現在の日本を代表するノンフィクション作家の一人といっていい。それだけに今回の週刊朝日に載った記事は異質さを放っていた。

 この雑誌記事は、私も読んだが政治家・橋下徹をその政治手法や周辺の取り巻く人脈や支持者層の人柄を恣意的に下品に描いていると感じた。しかし、それは作者である佐野の執筆手法であるといって割り切ることもできるだろう。

 ただ、問題は、「血脈主義」というべきものを前提にしているかのように取れる編集部サイドの「見出し」の立て方がありありと見て取れることだ。例えば、雑誌本文ではないが、表紙に「橋下徹のDNAをさかのぼり本性をあぶりだす」と書かれていることによって、DNA(父親の生まれ)が彼の「本性」に影響を強く与えているというふうに主張しているように見える。一般論として言えば、生まれ育った生活環境や周囲の人脈が後天的にその人物の人生観や生き方に影響を与えるということはもちろんある。しかし、人種や血脈のみがその人のネイチャー(本性)を決定するという考え方は、やはり問題がある。

 この点において、当の橋下市長がツイッターで次のように、この連載について論評したことは事実の面で正しいと言えるだろう。これは彼の10月17日の一つのツイートである。

(引用開始)

 僕は実父に育てられた記憶はない。それでもなお、実父の生き様が、僕の人格に影響しているという今回の週刊朝日の連載目的を肯定するなら、それはまさに「血脈主義」そのものである。僕が母親にどう育てられ、育ち、友人関係がどうだったのか。こちらが僕の人格形成の主因ではないのか。

https://twitter.com/t_ishin/status/258713465806540800
(引用終わり)

 ここでいう、橋下市長の主張をわかりやすく言い換えると、「僕は父親に育てられた記憶がない。だから、父親の人格、DNAが僕の人格に影響するというのは血によって人物像が決まってしまうという血脈主義である。僕が実際に育ててもらった母親や友人関係のことを書いた上で、それが人格形成に影響を与えたというならまだしも、面識がない父親からのルーツをたどっていくのは問題がある」ということになる。

 この橋下市長の主張には理がある。週刊朝日のタイトルの付け方からして、「橋下(ハシシタ)」である。橋本市長の父親は昔はハシシタと名乗っていたということは、以前、週刊文春や週刊新潮が連載を企画した時に取り上げられていた。これが事実かどうかは私には判断する方法がないが、ハシシタとは「橋の下」という意味もあり、それをタイトルにするあたり、「週刊朝日」にはデリケートな差別問題を取り扱うときの配慮がない。

 日本の社会に同和問題というものが歴史的に存在しており、現在までに多かれ少なかれ行政のあり方や立法措置に影響を与えてきたということは紛れも無い現実である。特に、アメリカで言う格差是正措置(アファーマティブアクション)に相当する、同和対策事業特別措置法などが過去に存在していたことは社会的に利権問題と絡んで論じられてきた。そのような差別と反差別のせめぎあいの構図があり、政治家の評伝を書く場合に、その人物が若い頃に置かれたそのような社会環境について書くことそれ自体は何ら問題ではないと私は思う。

 また、記事を批判する側が、「記事の中で同和地区の名前が載っているのが問題だ」としている点に関しても、過去に同種の記事があるほか、橋下市長自身が演説でこの地区の名前を上げて演説していたということもあったというから、これもまたそれ自体が問題になるとは私は思わない。そんな事まで規制してしまうのはいけない。問題はどうやって取り上げるか、である。

 なお、同和地区出身であることを自ら公表して日本の「路地」について優れた本を買いている、ノンフィクション作家の上原善広氏は『最も危険な政治家橋下徹研究』という記事を月刊『新潮45』2011年11月号に寄稿しているのには注目する必要がある。(http://zasshi-journalismsyo.jp/pdf/12_taisho_hashimoto.pdf

 この上原氏のルポをを読むと、佐野眞一氏が「週刊朝日」の記事で名前を上げた地区の名前がこの上原氏の記事の冒頭にも出ているのに気づく。この記事が大問題になったということを私は聞いたことがない。もちろん、上原氏のことを批判する人もいる。(http://kanrishoku.jp/column.html

 ただ、あくまで事実問題として取り上げることには、様々な意見はあるにしても、取り上げ方に気をつければそれ自体は問題はないのだろうと思う。

 週刊朝日の問題は、単に地区の名前を書いたことにあるのではなく、それも含めて全体的に、見出しも含めて、血による差別を容認するスタンスにあると疑われても仕方がない構成にあると私は思う。

 そのことを丁寧に説明しているのが、同和問題を通じて人権問題を考えてきた団体である「部落解放同盟」がこの記事に対して、連載中止直後の22日付で出した抗議文である。(http://burakusabe.exblog.jp/17042374/

 週刊朝日の記事の中では、日本維新の会の旗揚げパーティ会場で佐野氏が話を聞いた、阪神タイガースの野球帽をかぶった九〇歳の老人の発言が長々と紹介されている。橋下市長の支持層にはこんな珍妙な大阪のおっちゃんもいる、という趣旨で紹介されているのだが、この人物が被差別部落にたいする差別意識を出した内容を話している。それは、「橋下さんの父親は水平社あがり(被差別部落出身)で、それに比べて母親の方は純粋な人やと思う」という発言だ。

 解放同盟の抗議文では、「橋下氏の実父は年齢的に見ても水平社運動には参加しておらず事実と異なる」と事実関係の間違いを指摘しているほか、「母親の方は純粋な人」という部分について「被差別部落出身は『純粋』ではないと言っていることになる」という指摘をしている。これはその指摘の通りで、記事の中で書き手である佐野氏がこの九〇歳の老人のコメントに「それは違うと思うが」という横槍も入れていないので、この老人の事実誤認はそのまま垂れ流しの形で残っている。

 このように、「週刊朝日」の連載は問題点が多い。佐野氏にしてもデリケートな問題を扱う取材をしているのだから、表現ひとつひとつには十分に気をつけるべきことはわかっているのに、週刊誌連載ということもあってか、扇情的な見出しばかりが目立つ記事になった印象は拭えない。佐野氏は、在日韓国人である孫正義・ソフトバンク会長の伝記『あんぽん』も書いており、こちらはまわりから問題になるような指摘は出されていない。優れた評伝として評価する声が高い。

 いかなるテーマであっても取り上げていけないと、いうことではないだろうが、それを取り上げる場合には、公平かつ冷静な記述が求められる。これはジャーナリズムが表現の自由を振りかざすときのエチケットのようなものだと思う。その意味で、この連載は問題があった。連載など全体像が一度の記事ではつかみにくいものではなく、はじめから「全部完成版」の形で単行本として出すべきだったのではないかと思う。一回目に消化不良の形で内容を中途半端に入れてしまったのが大失敗だったと言わざるをえない。

 この連載は、橋下徹市長が記者会見やツイッターで抗議を始めた一七日の翌々日、一九日に連載中止が決まっている。橋下市長の抗議だけではなく、部落解放同盟とは別の自民党と友好関係にある「自由同和会」という団体が、橋下市長の抗議の記者会見のあと、一八日に、「橋下市長の論理的傾向や政策に批判があるのであれば、その子と批判すべきであり、出自を絡めての批判は、同和問題に対する偏見を肯定するもの」という抗議文を出している。だから、橋下市長の抗議だけが連載中止の要因になったわけではないのだろう。この抗議文では「連載の中止」も求めているからである。この民間団体の抗議を受け入れたのかもしれない。

 以上の通り、この「週刊朝日」の連載には確かに表現・内容ともに多くの問題があり、解放同盟を始めとする人権団体が抗議することは全く妥当であると思う。

 民間団体である人権団体が、民間企業である朝日新聞出版の出す週刊朝日の記事の内容に抗議をすることは必要な意見の表明であるからだ。

 それでは、やはり橋下市長の対応にも問題はないのか。そうではない、と私は考える。それは彼のツイッターの書き込みをよく読んでいくことでわかってくる。また、橋下市長だけではなく、その大阪市特別顧問の上山信一・慶応大学教授のツイートにも日本国憲法の21条、99条に照らして問題があると考える。

 そこで、確認のために日本国憲法21条、99条の条文から引用する。

=====

第二十一条  集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。2  検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

第九十九条  天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

===== 

 その上で、橋下市長が「週刊朝日」の連載に対して抗議した一連のツイート(書き込み)を引用する。まず最初は10月20日付けのもの。

(引用開始)

  僕は今回の件で、週刊朝日の表現の自由としては認めない立場なのですから、言論で同調者を増やすのは当たり前。それが言論というものですよ。そして言論市場で淘汰される言論も出てくるのです。これが言論の自由の世界 RT @s_hakase: 橋下市長がTwitterでご意見するのは自由
https://twitter.com/t_ishin/status/259862592649064448

(引用終わり) 

 この書き込みは橋下徹・大阪市長のものである。この書き込みには「週刊朝日の表現の自由としては認めない立場」と述べて、「言論で同調者を増やすのは当たり前」と述べている。この発言は、週刊朝日が持つ憲法21条の権利を市長が否定しているものとしか読めない。多くの問題をはらんだ書き込みである。

 ただし、橋下市長が書かれっぱなしでいいかというとそういうわけではない。ちゃんとそのような時のために、司法の仕組みを通じて、刑法上の名誉毀損を問うたり、名誉毀損による不法行為に基づく損害賠償請求をすることが認められている。だから、週刊誌に政治家がプライバシーについて書かれた時には、雑誌やその編集部を相手取って損害賠償と謝罪広告を求める提訴を行うことがよくあるのである。

 さらに橋下市長は、22日の記者会見で、次のように述べたと報じられている。

(記事の貼り付け開始)

橋下代表、執筆者への非難継続 おわびには不満
(2012年10月22日:共同通信)

 日本維新の会代表の橋下徹大阪市長は22日、自身の出自に関する記事を週刊朝日に執筆したノンフィクション作家佐野真一氏について「明らかにペンの力での家族抹殺だ。逆に僕は佐野を抹殺しに行かなきゃいけない」と述べ、記者会見やツイッターで非難を続ける考えを示した。
 週刊朝日が、23日発売の最新号でおわびを掲載することについては「これから検証すると言っているが、再起不能で矯正不可能だ」と不満の意を示し、「次の記者会見に来るかどうか。そこにかかっている」と、市長記者会見で掲載経緯などを説明するようあらためて求めた。
2012/10/22 20:38 【共同通信】

http://www.47news.jp/CN/201210/CN2012102201002213.html  
(貼り付け終わり) 

 この発言内容を、先程のツイートとあわせて考えると、一連の橋下市長の行為は、権力を握った人物の行為として行き過ぎであり、99条で定められている、21条を含めた日本国憲法21条(言論の自由)を擁護しなければならないという義務を逸脱している。橋下市長は弁護士でもあるので、そのことの重要性を知らないわけでもあるまい。

 更に橋下市長は、「グダグタ呟いてないでさっさと佐野氏や週刊朝日に法的手段をとらなかったのはなんでや?と、疑問に感じている市民は少なくないはず」と司法制度の活用を指摘したツイッターのユーザーに対して、「司法手続きでは優に3年はかかります。それでは書き得になるだけです」と述べている。ただ、政治家の親族がこの種のメディア報道に対して、出版差し止め訴訟を行った事例は過去にもある。

 重ねて言うが、橋下市長は弁護士でもある。この際に、司法制度の活用ではなく、どう見ても言論弾圧にしか読めないツイートをするのか私には理解できない。(ただ、この記事が書いている事実関係で争っても、橋下市長は「公人」であるから「公共の利害に関する事実」であり、「公益を図るもの」であるという主張を被告側となる週刊朝日と佐野眞一サイドからなされてしまって、それが認められ、名誉毀損が成立しないという可能性もある。この判例は「表現活動の萎縮」を防止するために存在する。)

 「たかがツイートではないか」、と言われる方もおられるかもしれない。しかし、橋下氏はツイッターを駆使して自分の政治信念を有権者に訴えてきた人物であり、権力者、地方自治体の長である大阪市長の発言は、すべてが公人による政治的な圧力になりうる。

 これは行政権のトップである市長でなくとも、例えば、大阪市議会議員であっても同じ事で、特定のメディアの記事に対して、「この記事は問題であるから、このような記事を出版できないようにする法律や条例の制定を働きかけるぞ」と言って圧力をかけて出版を断念させてしまった場合には、これも問題になる。

 橋下市長は、これらのツイートをしたあと、ツイッター上でこれは言論弾圧ではないかという指摘があったことに気づいたのだろう、以後は、「僕と週刊朝日のやり取りが、表現の自由を抑制していることにならないか、非常に重要な報道の自由、表現の自由にかかわること」(10月24日ツイート)と一転して週刊朝日の表現の自由を尊重する発言をするようになっている。

 また、11月に入っても、震災瓦礫(がれき)処理受け入れを表明した大阪市に対する抗議を、自分の自宅前で行おうとしている一部の市民団体の動きについても、「僕の自宅前でのがれき受け入れ反対運動も表現の自由として法的には認められるんでしょうが、普通の住宅街ですからくれぐれも社会常識としてのマナーは守って下さいね」(11月4日ツイート)としており、市民の表現の自由を尊重する発言をしている。

 しかしながら、週刊朝日がいかに愚劣で下品な記事を出したからといって、「週刊朝日の表現の自由としては認めない立場」と書いたり、「佐野を抹殺」というような発言をしてしまったことは大きな問題である。民間団体との抗議もあったので、厳密には連載中止の直接の原因が橋下氏のツイートにあったかをハッキリと断定することは出来ない。しかし、行為として橋下氏は憲法違反の行為をしてしまった。(ただ、公務員の憲法違反行為には罰則はない。このように言論で批判されるだけである)

 また、更に問題なのは、橋下氏のブレーンとして、大阪市が特別顧問に迎えている、上山信一・慶応大学教授のツイートである。橋下市長が抗議を開始する前の、17日の段階で上山氏は次のように、週刊朝日への広告出稿を取りやめる呼びかけをツイッター上で行なっている。

(引用開始)

週刊朝日「ハシシタ」部落差別の記事の真横に経済産業省の広告。そういうことか!その他の広告主は名古屋観光ホテル、ソニーミュージック、キョ―レオピン、白松がモナカ、JR東海、小鶴くろ。各社広報の皆さん、反社会勢力への出稿は見直しを!

広告主は「名古屋観光ホテル」「ソニーミュージック」「キョ―レオピン」「白松がモナカ」「JR東海」「小鶴くろ」など。 週刊朝日への広告出稿が続けば、それぞれ不買、抗議運動の対象にすべき企業である。

http://togetter.com/li/394668

(引用終わり)

 この不買運動の呼びかけ、上山氏が慶応大学の一教授に過ぎなければ何も問題はない。言論の自由があるからだ。しかし、上山氏は大阪市特別顧問という立場の「地方公務員」であるようなのだ。産経新聞が2012年9月に以下のように報じている。

(記事の貼り付け開始)

大阪府市特別顧問を公務員に あいまいな立場を明確化
2012.9.22 07:19

 松井一郎大阪府知事と橋下徹大阪市長の政策ブレーンである府市の特別顧問や特別参与について、府と市が特別職の地方公務員として任用する方針を固めたことが21日、分かった。特別顧問や参与はこれまで「外部有識者」としての立場で行政実務にも深く関与していたが、議会などから「権限の範囲があいまい」といった声が上がっていた。

 府市は条例に基づかずに設置している、エネルギー戦略会議などの有識者会議が地方自治法に抵触する可能性があるとして、改めて会議の設置条例案を議会に提案。対象の会議には特別顧問らも加わっており、立場や責任を明確にする目的から、非常勤職員として任用すべきと判断した。

 現在、府と市の特別顧問や参与は計71人。内規では外部有識者として位置づけられ「政策への指摘・助言を行う」としている。

 一方、府職員の報酬を定めた条例では、非常勤職員の日当の上限が特別顧問や参与の日当の上限(5万5千円)を下回る。府は21日開会の定例府議会に、報酬の上限を引き上げる改正条例案を提出した。

http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/120922/waf12092207190003-n1.htm
(貼り付け終わり)

このように、特別顧問は単なる「外部有識者」ではなく、「特別職の地方公務員」になる。また、日本維新の会の政務調査会と総務会に所属する方向と同じく産経新聞に報じられた、山田宏前東京都杉並区長と中田宏前横浜市長の二人の市特別顧問についても、市職員らの組織的な選挙支援を禁じた「政治的中立性確保に関する条例」があるので、非常勤の特別職である特別顧問の身分を持ったまま「選挙活動に入るのはまずい」と判断されて、次期衆院選での公認候補としての擁立が正式に決まれば、両氏を特別顧問から解任する方針であると報じられている。

 上山信一氏は大阪市特別顧問のリストの五十音順で筆頭(http://www.city.osaka.lg.jp/seisakukikakushitsu/page/0000157541.html)に登場する人物であり、彼もまた特別職の地方公務員であるということになる。

 つまり、それはどういうことかというと、上山氏が「週刊朝日に対する広告出稿の停止」をツイッター上で呼びかけることは、広告掲載という対象企業の言論・表現の自由に対する公権力をちらつかせた弾圧となってしまう行為である。橋下市長は、同時に国政政党である「日本維新の会」の代表でもあり、憲法上の権利の擁護については敏感になるべき存在である。

 このように、橋下市長と上山顧問らの行動は、橋下市長のその後の軌道修正ということもあり、結果的に甚大な表現の自由の抑制に繋がらなかったかも知れないが、行為そのものは行政権による言論に対する統制になっている。

 ところが、今回の週刊朝日問題では、そもそもの問題として週刊朝日の記事の内容に問題があったことや、その後、週刊朝日を「鬼畜集団」と罵倒した橋下氏が、その自分の発言につながった、自らの不備について詫びていることから、この憲法21条に関わる問題があったことが有耶無耶(うやむや)になってしまっている。

 しかし、週刊朝日の側の問題も批判されるべきところは批判されなければならないが、橋下市長の行き過ぎた行為も批判され無くてはならない。

 この点がいい加減にされると、今後、似たような事例が橋下氏にかぎらず他の政治家に対する報道で起こった場合にも権力を持った統治機構側の圧迫的な行動が批判されないまま素通りしてしまうこともありうるからだ。

 私たちは、例えばロシアでプーチン大統領が民主化デモを弾圧したり、反プーチンのスローガンを歌った女性バンドが拘束されて裁判にかけられたことを言論の自由に対する弾圧だと受け取る。

 週刊朝日・橋下問題も、物理的強制力が行使されていないなどの点で程度が違うだけで本質的には同じ問題である。橋下氏も徹底的に週刊朝日と戦いたければ、一度、政治家を辞任して、その上で「言論人」として敢然と抗議すればよかったのである。どうせ、再選挙では彼がトップ当選するのだから、一度辞任しても問題なかっただろう。

 なぜ、私がそのようなことを、わざわざ、クドクドと書き続けるかというと、小室直樹先生が言うように、「言論の自由がデモクラシーの評価にとって致命的な重要性を持つ」ということであり、この認識をもっと持ってもらいたいと考えているからである。

 憲法は国家の統治機構にいる人間たちへの命令であり、一般私人に対する命令ではない。「言論の自由を保証する」と書いてある21条は、「国家の立法権、司法権、行政権の三権は、この言論の自由を守らなければならない」と命令している条文なのである。だから、一般私人であるジャーナリストが、ある雑誌に自分の原稿の掲載を拒否されたからといって、それが政治家や官僚や裁判官等による圧力を背景にしたものでなければ、それは言論弾圧には該当しないということなのである。

 そのことを繰り返し説明し続けたのが、小室直樹先生である。小室直樹先生は、ロッキード裁判の折、「たかが賄賂をもらったくらいで、国民の代表である政治家田中角栄が検察官によって有罪判決で葬り去ることはデモクラシーの否定である」という論陣を張った。ロッキード事件については、いろいろ書かれており、私自身も自分なりの見解を他のところで繰り返し述べてきた。だからここでは述べない。重要なことは、ロッキード裁判については、小室直樹先生は、徹底して民主主義の擁護という立場から、国内で角栄バッシングが続く中、敢然と角栄を擁護しつづけたが、別の問題では、小室先生は同じ、「デモクラシーの擁護」という観点で、角栄を強く断罪していることである。

 それが、『創価学会を斬る事件』における田中角栄の行動である。この問題があったのは、1969年のことだからもうだいぶ前のことになる。小室直樹先生は、『田中角栄の大反撃』(光文社・1983年刊)のなかで次のように事件の概要と、その中での田中角栄が果たした役割について述べている。以下は、『田中角栄の大反撃』からの引用。

(引用開始)

  公明党が、藤原弘達(引用者注:政治評論家)著『創価学会を斬る』を闇にほうむり去るために陰謀をたくましゅうしたという記事が『赤旗』(引用者注:日本共産党機関紙)にのったのだ。サア、これから一年、この事件をめぐって、日本国中、ひっくりかえるような大騒ぎになってしまった。

  結果は、誰でも思い出すように、弘達側の圧勝、創価学会・公明党の無条件降伏に終わったのであったが、ここで、決して忘れてはならないことがいくつかある。

  その一つは、この事件における田中角栄の役割である。この出版の自由妨害劇は、ときの自民党幹事長田中角栄が、直接の関係は何もないのに、竹入公明党委員長に頼まれて、『創価学会を斬る』をほうむるべく、ノコノコと介入してきて、藤原弘達と対面するところから幕開きとなる。
角栄は、なんとか出版を思いとどまらしむるべく、せめて配布を制限せしめるために、おどしたり、すかしたり、利益を提供したりしてお得意の手練手管をあらんかぎりをつくして、弘達をかきくどいたのだが、そこは言論の自由の立役者として大見得を切って大向うをうならせたくてウズウズしている弘達にとっては、オットセイの面に水だ。『男角栄一生の借りができる』とまでいうのを断乎としてはねつけたので、大向うの見巧者(みごうしゃ)から「藤原屋ア」と声がかかった、いや、恩師丸山真男教授から絶賛激励の葉書を拝領することにあいなった。

『田中角栄の大反撃』(130~31ページ)
(引用終わり)

 このような経緯で、要は言論人である藤原弘達が創価学会を批判する本を保守系の日新報道という出版社から発刊しようとしたが、それを食い止めるべく公明党が動き、その中で自民党幹事長であった田中角栄が、藤原弘達の言論の自由を侵害するような圧力をかけたという事件であった。ウィキペディア『言論出版妨害事件』にはこの事件の経緯についてさらに詳しく書かれている。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E8%AB%96%E5%87%BA%E7%89%88%E5%A6%A8%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 小室先生は『田中角栄の大反撃』のなかでロッキード裁判批判とあわせて、この角栄による言論弾圧事件を取り上げている。それは、田中角栄を批判する場合には、彼こそ金権政治の元凶であるとするものがもっぱらであり、「彼が言論の自由妨害事件において演じた役割を問題にするものは誰もいない」からであり、その本末転倒ぶりを批判したいがためだと述べている。

 それは「言論の自由」と「金権腐敗を除去すること」がどちらがデモクラシーにおいて致命的に重要(ヴァイタル・イムポータンス)かを考えれてみれば、「いかに金権腐敗が染み渡っていようとデモクラシーは成立しうる」ということだと述べ、清潔な独裁制よりも金権政治の蔓延しているが言論の自由が保証されている政治であるほうがデモクラシーは成立するというわけである。
 言論人・藤原弘達は小室先生が書くように、最終的には言論の自由を守りぬいたのだが、今回の週刊朝日の問題では、佐野眞一氏は「僕自身がどうするかは、また自分で発表しなければならない」と述べている。差別問題に対するデリカシーのなさを払拭した上で、新しい納得できる形で政治家・橋下徹に対する伝記を発表して欲しいと私自身は思っている。

 アメリカではPAC(ポリティカル・アクション・コミティー)と言われる民間団体が特定の候補者を応援する広告を出すことが法律で認められている。極端な話では、2010年の米連邦最高裁判決では、最高裁は、企業や組合などの団体にも国民一般に保障される言論や表現の自由があると判断しており、あらゆる団体が一定の条件の下で意中の候補を支援することが可能になった。これにより、PACは各候補の政治資金団体から独立しており、献金の上限規制を受けなくなった。米大統領選挙が選挙CMによる中傷合戦になっているのはこの判決により、スーパーPACと呼ばれる、事実上は陣営と一体化しているが、表面上は別々の団体である団体に対し、多額の企業献金が流れ込んでいるためである。

 これはカネを多く持っている陣営や企業が自分達の主張を政治広告に反映させられるという事を意味する。行き着くところは金権政治であるが、だが、これにしても、ロシアのプーチン大統領による「権威主義的体制」に比べればマシであるという判断もすることができる。

 なお、同じように、『創価学会を斬る』問題と同じような形で政治家が「表現の自由」を侵害した疑いが持たれている問題としては、慰安婦問題を取り上げたNHK番組に対する、複数の自民党政治家達による介入が行われたという疑いが残る「NHK番組改編問題」が挙げられる。

 この問題では、NHK教育テレビで放送されることが決まった、「VAWW-NETジャパン」という左翼系の民間団体が主催した慰安婦問題を裁く模擬裁判をテーマにした番組の構成に対して、民間の保守系団体から「問題の取り上げ方がバランスを逸している」という抗議を受け、NHKが中立的な学者である歴史家の秦郁彦氏のコメントを数分間挿入したという事実があった。(詳しくは以下を参照。http://ja.wikipedia.org/wiki/NHK%E7%95%AA%E7%B5%84%E6%94%B9%E5%A4%89%E5%95%8F%E9%A1%8C

 この問題でも、橋下・週刊朝日問題と同様に、民間の保守系団体による抗議活動と同時に、自民党の安倍晋三、中川昭一(故人)という二人の政治家が動いていたと報道があった。それは朝日新聞の報道で、「NHK『慰安婦』番組改変 中川昭・安倍氏『内容偏り』前日、幹部呼び指摘」という見出しで報じられた。これに対して、二人の政治家は朝日の報道を全面否定し、NHKも朝日を批判する公開質問状を出した。

 安倍晋三は「放送法に基づいていればいい」と言っただけだという。一方で、この問題についてはNHKのプロデューサー側のが政治介入があったとする内部告発もあり、結果的に民間団体の抗議に応じてNHKが自主的に編集したということが公式見解になっている。しかし、放送法の問題があるとはいえ、与党の政治家が放送の前後に報道機関の報道内容に関して、NHKと面会していたことは事実である。これも、朝日新聞が報道しているとおりであれば「言論弾圧」であり、そうではなくとも「事後介入(以後の報道活動に対する牽制)」とは言える、と思う。

 このような形で、時々、報道に対する政治家の介入と疑われたり、実際にそのような実態をもつ「事件」は起きている。小室直樹先生は、「創価学会を斬る」をめぐる一連の事件は「言論の自由とデモクラシーを考えるための貴重な教材」であると宣言しているが、橋下・週刊朝日問題も、NHK番組改編問題にも同じようなことが言えるだろう。「言論の自由」は思想信条が保守であろうとリベラルであろうと関係ない。

 自分の政治・宗教・信条や思想を公に語ることができない「権威主義的体制」、あるいは「ファシズム体制」に日本の国家が陥らないために死活的に重要な条件であるといえる。橋下市長は「ハシズム」などとありがたくない称号をジャーナリストから授けられているのだから、余計に敏感になるべきであるでしょう、そうじゃありませんか?

 そのように書いていたら、また別の形でこの表現の自由(憲法21条)に関する問題が浮上してきた。それは国民の大衆抗議活動に対する規制の問題という形をとって登場した。

 昨今、反原発デモというものが盛んに首相官邸前や霞が関周辺で行われている。このデモの主張のすべては私は支持しないが、福島の原発事故によって吹き出した官僚機構に対する不信の現れであり、震災前の官僚機構の不作為が原因で起きなくてもいい原発のメルトダウン事故を起こしてしまった原因であるわけだから、どのような形であれ街頭行動で、国民が表現の自由の権利を行使することはもっともなことだと思う。デモクラシーにとって、表現の自由を守ることは致命的に重要であり、その主張の内容が他人にとっては違和感のあるものであっても、これは守られなければならない。

 ところが、このデモに対する規制が今始まっているという。これが11月4日の朝日新聞が報じた以下の記事に書かれている日比谷公園の東京都による使用制限の問題である。

(記事の引用開始)

日比谷公園、都がデモ制限 市民「集会の自由に反する」
(2012年11月4日・朝日新聞朝刊)

 【西本秀】東京都が、官庁街に隣接する日比谷公園をデモ行進に利用することに制限を加え始めた。反発する市民団体が、これまで通りの利用を認めるよう裁判に訴えている。

 都が、対応を変えたのは今年8月から。従来、デモ隊は公園の一角に集まり、出発してきたが、都はこれを禁止し、集まる会場として園内の日比谷公会堂や大音楽堂を有料で借りるよう求めるようになった。

 突然の変更に、市民団体側は「集会の自由を侵害する」と反発する。首相官邸前で抗議行動を続ける市民団体「首都圏反原発連合」(反原連)のメンバーは先月30日、都が公園内の一時使用を認めるよう、東京地裁に行政訴訟の一環である「仮の義務付け」を申し立てた。仮の義務付けは、時間が迫り、早急な判断が必要な時などに用いる、行政事件訴訟法の制度だ。

 申立書などによると、反原連は今月11日、公園周辺で1万人規模のデモを計画しており、先月26日、公園を管轄する都東部公園緑地事務所に一時使用を申請したが許可されなかった。事前の交渉で公会堂などを借りることも考えたが、別の予約が入っていたという。

 反原連が3月に数千人、7月に数万人のデモをした際は、現場にある都公園協会の窓口に届け出て、公園の一角から出発できた。これまで他団体も同じ手続きでデモをしており、申し立てた反原連の男性メンバー(39)は「公園はだれもが自由に無料で使える場所のはず。国会や官庁に近い日比谷公園で、デモを制限するのは集会や表現の自由に反する」と訴える。

 一方、東京都側は地裁に出した意見書などで、使用を認めてきたのは、現場の公園協会の「誤った処理」だったと主張する。公会堂など施設以外では以前から集会を禁じており、8月から徹底した、とする。

 現場の対応を都が見直したきっかけは、ツイッターなどで呼びかけた、7月の反原連のデモの人出に驚かされたからだという。朝日新聞の取材に、都東部公園緑地事務所は「参加人数も予測できず、一般の利用者への影響も大きい」とする。11日には園内で菊花展や農産物フェアなどがあり、「混乱を避ける必要もある」と説明する。

 ただ、混乱を懸念して一時使用を一律に禁止した結果、9月に東京電力に向けて計画されていた100人規模のデモなども中止に追い込まれている。

 東京地裁は2日、都側の主張を認めて反原連側の申し立てを却下した。地裁は、1万人規模の雑踏が生じ、「具体的危険性が見込まれる」とした。反原連側は即日抗告し、週明けにも東京高裁が判断を示す。  

http://digital.asahi.com/articles/TKY201211030634.html?ref=comkiji_txt_end_s_kjid_TKY201211030634
(引用終わり) 
 
 この記事で重要なのは、反原連が企画しているような万単位のデモだけではなく、100人規模のデモも日比谷公園を利用しての開催が中止に追い込まれているという点である。日比谷公園にデモに参加する人が集まるのは、別に原発に関する抗議運動だけではなく、農協が主体になって行われるTPPに対する反対運動などの場合もある。100人規模のデモについての使用を制限したことで、他の趣旨の抗議運動に対する萎縮効果を狙ってもいることは明らかである。

 私自身は、今の原子力行政を問題があると思っており、そのために改善を促す意味での抗議行動や反対行動には基本的に賛成である。しかし、一方で、宗教的な熱狂を帯びるばかりで、あまり実効性のある改善策を提示することが出来ない、反原連主催の抗議活動には限界があるし、むしろ冷静な議論にとって害があることもあると考えている。

 反原連(首都圏反原発連合)の抗議活動の主な特徴は、シュプレヒコールの多様と、鳴り物によるエモーショナルなスタイルである。私は3日の学問道場の講演会で何回も出てきた、イタリアの修道士サヴォナローラが、フィレンツェの町で行った辻説法に見られるラディカルな宗教的熱狂にちかい姿を反原連のデモに感じていた。私自身、その熱狂を体感するべく、一度だけ国会前で大規模行動が行われた時に行ってみたことがある。まさにカオスというべき状況が目の前に広がっていた。

 民主党の川内博史議員や自民党の河野太郎議員のようなどちらかと言えば脱原発派と見られている国会議員らが応援でデモの群集に呼びかけても、むしろブーイングが起きる始末だった。

 反原連のデモ活動は、金曜日の夜に首相官邸前を、ほぼ「独占」「占拠」する形で今年の春からで行われている。 大飯原発の再稼働を反対する運動から始まり、原子力規制委員会の5人の委員人事についても「原子力村」からの人選がほとんどだとして(なぜか外務省出身の委員については問題であるとしていない)批判活動を繰り広げた。

 新聞報道によると、金曜日の夜の首相官邸前抗議活動は、東京都公安条例に基づく集会の申請を特にしているわけではないという。要するに、憲法21条だけを根拠にした、表現活動ないしは言論活動をやっているだけであり、デモの参加者は通行人の集合体であるという解釈になる。上のように都の施設の使用申請をするように公道の使用許可を申請したら、間違いなく公安条例によって規模やルートの変更を強いられるからというのが理由だろう。

 私が反原連の表現の自由を行政は尊重すべきだとしながらも、反原連についても釈然としないのは、意図しているわけではないというだろうが、結果として、反原連主催のデモで金曜日の官邸前がうめつくされたため、その時に喫緊の課題であった消費税反対の運動やTPPに対する抗議活動が金曜日には実施不可能になったということである。

 例えば、ある「世に倦む日々」というネットブログの書き手が、述べているのだが、反原連が「大飯原発の再稼働停止」というシングルイシュー(単一の目標のみに限定するやり方)で抗議活動を継続するために、それ以外の問題、例えば、今であれば、相次ぐ沖縄の米兵の犯罪やオスプレイの問題に絡む、日米地位協定の改定に対する要求行動ができなくなっているという結果を生んでいることだ。もちろん、これは行政権によるデモの規制とは別の問題である。

 ただ、インターネット上では、私以外のユーザーもシングルイシュー規制に対しては批判を行なっていることも事実である。そして、反原連による活動は、辻元清美衆議院議員が仲介する形で実施された、反原連メンバーと、野田佳彦首相との面会をピークに下火になっているという印象は否めない。

 今回の東京都による公園の使用規制だけではなく、規制当局はデモや集会の規制を行なっていくのではないかと疑わせる人事が行われているのには注目する必要がある。それは原子力規制委員会のなかで事務局として位置づけられる「原子力規制庁」における長官人事である。

 その規制庁長官には、警視庁の警備畑を長年経験してきた、池田克彦前警視総監が起用されたのである。新聞報道では、横浜市で開催されたアジア太平洋経済協力会議(APEC)に伴う首都警備や、東日本大震災の被災地への警視庁の大規模な部隊派遣などを指揮した人物であるという。朝日新聞は、「事務局のトップに原発と関係のない省庁出身者を充てることで、『原子力ムラ』のイメージを払う狙いもある」(2012年9月12日電子版記事)と間抜けなことを述べている。

 実際に再び大規模な原子力事故が起きれば、避難や誘導のために警察人脈の中で警備に詳しい人物が必要なことがあるにしても、規制庁長官人事に警備のトップを据える意味としては、首都圏における大規模な抗議活動に対する警戒という意味もあると気づかなければならない。普段の仕事は、広報広聴を通じた反原発運動を始めとする政府への抗議活動への監視活動だと思う。

 デモの規制というのは反原発デモの規制だけではなく、その他の表現の自由に対する規制につながる。反原連は官邸前で革命でも起こしたかったのだろうが、結果的に起きたことは、権力による統制である。権力側はある程度までは抗議活動を野放しにしておいて、反原連に勢いが消え始めたら、他のデモも規制する形で統制に入っていく。

 ここにおいて、週刊朝日に対する橋下市長の「言論弾圧」問題と、この官邸前デモの問題がリンクした。

 繰り返す。言論の自由はデモクラシーにとって致命的に重要である。憲法99条をすべての国会議員、官僚、裁判官は今一度、拳拳服膺(けんけんふくよう、心に銘記し、常に忘れないでいること)して欲しいと思う。

 「言論の自由が死ぬ時、デモクラシーは死ぬ」と言った小室直樹の発言がやっぱり偉大だ。

 余談になるが、政治家・小沢一郎があれだけ大新聞、マスコミから、ボロカスに書かれても、じっと抗議もせずに、沈黙していることに対しては、いままでは私は理解できないところもあったが、やはりこの「デモクラシーを守る」という確たる信念が必要ということかもしれない。このことを師匠である角栄の姿を見ることで気づいていたのかもしれない。
 

以上

橋下徹・大阪市長のツイートは全て削除されずに以下のログで閲覧できる。
http://twilog.org/tweets.cgi?id=t_ishin&word=%E9%80%B1%E5%88%8A%E6%9C%9D%E6%97%A5
 

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