甘樫丘について(後半):鼠は穴に伏して生き、穴を失って死ぬ

会員番号2054 投稿日:2026/10/17 06:24

2054です。本日は2026年10月17日です。前半では、蘇我氏の出自について論証しました。後半では、蘇我満智以降の系譜と甘樫丘について考察します。

(3)韓子(からこ)→高麗(こま)の実在性について
蘇我氏の系図では、蘇我満智のあとが、韓子(からこ)、その次が高麗(こま)です。この絶妙なネーミング(いかにも朝鮮半島)によって、この2人も実在を疑う学説があります。また、この2人が実在しないから、やっぱり蘇我満智も存在しないと言いはる説(蘇我氏は蘇我稲目以降だけ説)もあります。
しかし、蘇我満智は雄略天皇時の475年に倭国に移住しましたが(『百済本紀』蓋鹵王21年条)、継体天皇3年の509年に百済に戻ったようです。継体天皇3年2月条には、「使いを百済に遣わす」とあり、その古注に「百済本紀にいう。久羅麻致支弥(くらまちきみ)、日本より来る。未だ詳(つまびらか)ならず」とあるからです。

久羅=大蔵を司った
麻致=蘇我満智

古注は百済からみて「大蔵担当の蘇我満智は日本からきた」とあるので、蘇我満智は倭国の使者として百済に行ったことがわかります。百済に行った理由は日本書紀にはありませんが、当時の政治情勢では、雄略朝から継体朝への王朝交代の頃です。そのため、倭国に居づらくなったことが考えられます(小林恵子『史上から消された聖徳太子・山背王朝』p46)。
そして、蘇我満智がいちど半島に退去すると、倭国での基盤も消滅します。韓子、高麗は日本書紀では影が薄いが、それは彼等の主要な活動地が倭国ではなかったからです。
しかし、だからといって彼等が存在しなかったことにはなりません。韓子も高麗もその活動が日本書紀に見えます。

(4)蘇我氏は高句麗系の百済人
蘇我高麗の「高麗」は百済系の木刕満致の一族に似つかわしくないように見えるが、「百済本紀」の末尾には高句麗は高辛氏の末裔とあります。高辛氏は木徳の帝王なので、木刕満致の「木」は木徳を意味し、この一族が高句麗系の百済人であることを示しています。
つまり、蘇我氏とは、百済、任那、高句麗、倭国などをまたにかけた国際的な氏族であったようです。

(5)蘇我稲目以降は、拠点が増えています
日本書紀等の史料から見ると、以下のような邸宅があります。
1 蘇我満智(木満致):田家(なりどころ、橿原市曽我町)…【本願の地】
2 蘇我稲目:小墾田の向原(桜井市大福か)、軽(橿原市大町)
3 蘇我馬子:槻曲(所在地不詳)、嶋(明日香村・のちの嶋宮)
4 蘇我蝦夷:大津(泉大津市か)
5 蘇我蝦夷・入鹿:甘樫丘(明日香村)、畝傍山の東

これを見れば明らかなように、蘇我氏の本貫・根拠地は始祖・木満致が定住した「橿原市曽我町」であり、その後も政治情勢に応じて拠点を移転させています。
そして、蝦夷・入鹿が甘樫丘に邸宅が確認されるのは皇極3年(644年)11月です。その後、皇極4年(645年)6月の乙巳の変において入鹿が誅殺され、追い詰められた蝦夷が自邸に火を放って自害したため、甘樫丘の邸宅は焼失しました。
つまり、甘樫丘が蘇我氏の拠点であった期間はわずかで、また、後述するように甘樫丘は宮廷というよりも軍事拠点です。伊勢神宮を自らの本拠地と関連付けたいのであれば、もっと適した地点があるはずと思います。

(6)甘樫丘を軍事施設化した理由 『鼠は穴に伏して生き、穴を失って死ぬ』
日本書紀皇極3年(644年)11月条に、甘樫丘の邸宅についての記載がある。
それによると、「蘇我蝦夷と入鹿は家を甘樫丘に2つ、並び立てた。」という。そして、「蝦夷の家を上の宮門といい、入鹿の家を谷の宮門といい、子供たちを皇子と呼ばせたという。家の周囲には城柵を構え、兵庫を作り、50人もの護衛に守られて外出した」とあります。
記紀は蘇我氏を悪人にする意図があるため、天皇がいないようにふるまっていた点は割り引いて解釈する必要があります(※4)。しかし、少なくとも、この甘樫丘は、雅な宮廷などではなく、こんもりした丘において城柵、兵器と兵士に囲まれた「軍事拠点」ということが読み取れます。
蘇我蝦夷・入鹿は、なぜ、軍事要塞に立てこもる必要があったのか?
それは、甘樫丘の記述の前月に起こった山背一族の誅殺事件にかかわっています。

山背一族を誅殺したときに、蘇我宗家では入鹿の軽率な行動に周囲が怒っています。
蘇我蝦夷は入鹿が山背一族を滅ぼしたと聞いて怒りののしっています。「ああ、入鹿は本当におろかだ。悪いことばかりする。自分の命も危うくなるではないか」と言っています。そして、蘇我一族の血を引く古人大兄王は、『鼠は穴に伏して生き、穴を失って死ぬ』(鼠である蘇我氏は、天皇という穴があるから生きていけるのに、山背王朝を失ったら滅亡してしまう)と言って蘇我入鹿を止めています(※3)。
そしておそらく645年1月ごろには、蘇我蝦夷は、将来に多大の危惧を感じて、大臣の位を入鹿に譲って引退しています。
危機感を持った蘇我一族が、急いで城柵を設けて軍事拠点を構築したのが「甘樫丘」と考えられます。
じっさい、蘇我入鹿は、「3日天下の明智光秀」のように、645年6月(太陽暦7月)にあっさり殺害されます。これは、山背王朝を滅ぼした真犯人が別にいることを示しています。

(7)結論:甘樫丘と伊勢神宮の関係について
以上のように甘樫丘は、下條氏が述べるような「和化政策をアピールするための雅な王宮」などではなく、山背一族誅殺によって、かえって身の安全を図る必要を感じた蘇我氏が、わずか7ヶ月間だけ立て籠もった「追い詰められたネズミの防衛シェルター」に過ぎません。
恐怖に怯えながら城柵を築き、兵庫(武器庫)に囲まれていた蘇我氏に、「伊勢神宮との正確な東西軸の測量」などという悠長な都城計画を企てる余裕はまったくなかったと私は思いますが、皆様はどのように判断されますでしょうか。

※3 山背大兄王の即位について
私見では、山背大兄王は聖徳太子(タリシヒコ)の長子で、629年から即位しており、唐の信任も得ていたと解釈しています。山背大兄王の後見人は百済の武王ですが、記紀はその後見人の百済の武王を舒明天皇を表記して山背王朝がなかったように隠ぺいしています。古人大兄の『鼠は穴に伏して生き、穴を失って死ぬ』は山背王朝が存在してこそ意味をなす表現です。このことからも山背王朝の存在がほの見えます。

※4 甘樫丘の記述において「宮門・皇子」が明示されている理由について
2つの考えがあり、私はどちらもあり得ると思っています。
1つは、宮門・皇子と蘇我氏が呼称した事実がないのに、捏造したという解釈です。記紀は蘇我氏をことさらに悪人にする意図があるため、そういうこともありえます(ただ、もし完全なでっち上げなら、わざわざ「宮門」「皇子」という具体的な用語を用いたのか、疑念を拭いきれません)。
もう1つは、それは捏造ではなく、理由があったという考えです。蘇我氏の悲願は「自らが天皇に即位すること」ではありません。蘇我氏直系の「古人大兄王」の即位です。そして山背王朝を滅亡させたあと、おそらく645年1月~6月までは「古人天皇」だったと考えられるからです。古人大兄は警護を固めるために甘樫丘に移住した、あるいは一族の多くを避難させていたかもしれません。そうであれば、甘樫丘を「(古人天皇の)宮門」とか「(古人天皇の)皇子」と呼ぶことは十分にありえます。
ただ、記紀は古人大兄の即位を絶対的に隠蔽しますから、その事実は明示できません。だから「入鹿の子供たちを皇子と呼ばせた」「天皇がいない邸宅を宮門と呼ばせた」とすり替えたのだろうと考えられます。十分にあり得る推論と思います。