「2217」 原節子と小津安二郎監督(第3回・全4回) 2025年9月6日

 副島隆彦です。今日は2025年9月6日です。

 原節子と小津安二郎の話の3回目です。

 大事なことなんだけど、映画産業というのは、ずっと戦前からつながっている。戦争で負けた直後も、どんどん映画だけはつくり始めた。なぜなら当時はヒトラーなんかもよく分かっていたけど、ベルリンという大都市をきれいなビル、大きいビルをばーっとつくって並べることが一番大事なことだった。ニューヨークや、ワシントンも日本の東京もビルを建てた。それと、映画産業だ。ラジオと、新聞は、もうあったけど、映画産業が死ぬほど出た。戦争中だけはちょっと衰えても、すぐまた復活してすごい。日本全国、ちょっと余裕のある人たちは映画館に通った。テレビはない。そのすごさが今の日本人にはもう分からなくなっている。

 それで、歌舞伎役者たちがまだ威張っていたんだけど、旅芸人の一座みたいなのがどんどん滅んでいく。だから私がほかのところで書いたとおり、阪東妻三郎(ばんどうつまさぶろう、1901-1953年、51歳で死)とか嵐寛寿郎(あらしかんじゅうろう、1902-1980年、77歳で死)というのは歌舞伎の中では家柄がよくない。だからいい役をもらえないから映画のほうに行った。

阪東妻三郎

嵐寛寿郎

 阪妻の九州博多の「破れ太鼓」(1949年作)、「無法松の一生」(1943年作)とか、これらの映画からものすごく人気が出た。でも歌舞伎の本流の名家といわれている人たちからは、「映画なんて、ろくでもないもんだ」と悪口を言われていた。でも、結局は映画に出たほうが勝ちだった。

「破れ太鼓」(1949年作)

「無法松の一生」(1943年作)

 それで、全国に映画館があって、映画産業がものすごく大変なお金を稼いだ。2年、3年、5年経ったフイルムも、ぼろぼろになっちゃったフイルムも、ずーっと田舎の小さな映画館にかけられる。僕らも小さい頃、九州で見た映画館なんて、フイルムが途中でパーっと切れた。しばらく待っている。それで、つなぎ合わせて、またぐるぐるとやり出す。そういうことが、結構あった。本当にあった。馬鹿みたいにあった。

 私が高校時代に見ていた場末の名画座みたいな、200円か300円で見られるようなところにもいい映画がかかっていた。例えば「心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)」(1969年作)とか、岩下志麻(いわしたしま、1941年-、84歳)が奥さんで篠田正浩(しのだまさひろ、1931-2025年、94歳で死)監督が撮ったなかなかいい作品です。歌舞伎よりさらに古い浄瑠璃(じょうるり)の人形劇そのものの動きをして見せて、すばらしい映画でした。

「心中天網島」(1969年作)

篠田正浩と岩下志麻

 だから映画界というのは、ものすごく光り輝いていた。映画産業でロケーションか何かやると、みんなでお弁当を持ってきて3000人か5000人も集まったというのだから。こっちから入るなの紐が引いてあって、そこでみんな一日中、見ていた。それが死ぬほど楽しかったみたい。最初から雇われるんだろうけど、何百人もエキストラで出演できるとかなると、死ぬほど舞い上がった。出演料なんて、通行人とかエキストラは無給(ただ)だったと思う。

 戦前からだろうけど、戦後の日本人って何か輝いていた。一言で言うと、空襲で死んだのは200万人ぐらいだろう。都市は焼け野原で400万人ぐらい死んだ。何が大事かというと、誰も書かないけど、「もう死なないで済む」、これは大変なことだ。ご飯なんか無い。日本人は雑炊みたいなのを食いながら、腹減ったまんま戦後も生き延びた。何とか食いつなぎながら生き延びたんだ。その片方でセックスを死ぬほどする。だから第一次ベビーブーマーが、1946年、47年に生まれた人たちだ。私は53年だから、そこから5~6年後だ。だから、山の中とか公園とかでも死ぬほどセックスした。

 それを言わないことになっているんだけど、それが『武蔵野夫人』(1950年)という小説だ。別に公園でセックスする訳じゃないけど、大岡昇平(おおおかしょうへい、1909-1988年、79歳で死)の恋愛小説。戦後小説で、田村泰次郎(1911-1983年、71歳で死)の『肉体の門』とかいろいろある。だから、死ぬほどセックスがはやった。貧乏で食えないのに、子供をいっぱいつくった。それが日本の戦後だ。だから生き生きしていた。死ぬほど楽しかった。なぜなら、もう死なないから。死んだ人はもう仕方がないけど。そのことをみんながわかってない。それが映画の光り輝く世界と合体している。大衆の幻想のすごさが映画産業に向かった。だからそこで光り輝くということは、大変なことだった。

 ただ、戦争で負けている。だから、戦前と戦後の映画の違いは、戦前の映画の建物はきれいで立派で、いかにも金持ちのお屋敷と西洋風の建物。戦後の映画は小津安二郎や黒澤明でも、ぼろぼろ、いかにも貧乏の感じ。だって、周りが貧乏だから。そこでようやく立ち上がって立派そうな背広を着て、丸の内のサラリーマンを描いたりするんだけど、それでも周りの貧困が見える。電車が走っているときに、周りの瓦屋根のぼろいのがごろごろ並んだり、大変だ。それが丸見えに見えている。そこをじっと見なきゃいけない。

 だから「青い山脈」なんていったってきれいごとで、あんな立派な校舎なんかあるもんか。それこそ日本全国もうぼろぼろだ。田舎に行けば行くほど貧乏で、貧困もすごかったんだと思う。それなのに、映画だけは輝いていた。ここのずれのところが、日本人はもう言わないことになっている。

 「東京物語」と同じ年の1953年に、「白魚」の撮影中に、東宝のカメラマンだった実の兄貴の会田吉男(あいだよしお、1910-1953年、43歳で死)と、その助手が電車でパーンとひかれて、飛ばされて、列車事故で死んでいる。原節子の本名は会田昌江(あいだまさえ)だ。原節子は、その死体を見ているし、病院までも行った。これが不思議な事件で、そのときからちょっと具合が悪くなって、次の年の1954年には体調を崩した。それでも、その次の「ノンちゃん雲に乗る」(1955年作)という映画で明るいコメディタッチの映画でお母さん役を演じている。監督は倉田文人(くらたふみんど、1905-1988年、83歳で死)だ。

会田吉男

「ノンちゃん雲に乗る」(1955年作)

 あと、小津の「東京暮色(とうきょうぼしょく)」(1957年作)という作品があって、ここでは喪服姿で出てくる。それから1960年、「秋日和」という作品。原節子がお母さん役で、その娘役で岡田茉莉子と司葉子(つかさようこ、1934年-、90歳)。二人とも美人で、日本の大女優なんだけど、やっぱり原節子にかなわない。3人並べればすぐ分かる。それぐらい断トツに原節子が美人。そういう引き立てて映す技術を小津安二郎はもうちゃんとやっている。

「東京暮色」(1957年作)

「秋日和」(1960年作)
https://xs386479.xsrv.jp/cgi-bin/img-box/img20250703065432.jpg

 それから、その次1961年に「小早川家の秋」という小津作品がある。これは何だろう。葬式のシーンが出てくる。この葬式のシーンが、後の伊丹十三の「お葬式」と、まったくそっくりだ。造り酒屋の経営者の頑固者と、その奥さんと娘の話で、家族を描いている。

「小早川家の秋」(1961年作)

 それと「お茶漬の味」(1952年作)という映画があって、これには原節子は出ていない。1953年、木暮実千代(こぐれみちよ、1918-1990年、72歳で死)、淡島千景(あわしまちかげ、1924-2012年、)たちが出ている。それで「小早川家の秋」の次の年の1962年の「秋刀魚の味」が小津の最後の作品だ。これで終わり。これは岩下志麻が主演だ。これには原節子は出ていない。小津は、その次の年にはガンで死んだので、もう具合が悪かっただろう。

「秋刀魚の味」(1962年作)

 だけど、小津と原節子は、ずっと肉体関係があった。丸10年。これははっきり言わなきゃいけない。17歳違いで、証拠がないからということで誰も言わない。原節子は嫌になった。美しい自分を残したいというのは当然の理由だと思う。

 それでさっき言ったように狛江(こまえ)の家を出て、義兄のいる鎌倉の浄妙寺に越した。鎌倉に越したのは1964年ぐらいだろう。それ以来50年間、外に出なかった。1994年に東京の狛江の自宅の土地を売て12億円の所得を得て、この年の高額納税者番付で全国の75位で登場して、それが記事で出た。

 原節子は1948年の「誘惑」という映画に出ている。これは理由があって引き取られた金持ちの家で、ご主人とキスか何かしているところを奥さんに見られて、奥さんがひっぱたいてけんかという、「誘惑」という映画。あんまり有名じゃない。この辺まで光輝いてない。

「誘惑」(1948年作)

 やっぱりよかったのは「青い山脈」からだろう。監督は今井正(いまいただし、1912-1991年、79歳で死)。続編もつくっていて、この2つはえらくヒットした。大ヒットしたらしい。

「続青い山脈」(1949年作)

今井正

 その同じ年の「晩春」からが小津のすごさだ。小津がすごい監督と言われ出したのはこの作品あたりからだ。小津は戦前にはサイレント映画を撮っていて、もう既に松竹の監督としては大家(たいか)なんだけど、苦しみながら脚本を書いている。ものすごく苦しみながら半年、1年かけて脚本を書く。それを映画会社が許す。つまり小説家扱い。「今、どれぐらいできましたか」みたいに映画会社の幹部が、もう専務みたいな連中が、小津にお伺いを立てに行く。

 そのことについて、1本おもしろい動画がYouTubeに上がっている。これは見たほうがいい。茅ヶ崎に旅館があって名前は茅ヶ崎館だ。そこを松竹が借り上げているきれいな立派な宿屋で、小津安二郎だけじゃなく、他の脚本家たちもそこにこもって書いていた。茅ヶ崎館が大船の撮影所に近かったんだろう。ところがあまりにも撮影所、会社から催促が来るから嫌になって、小津は蓼科高原に別荘を持っていて、そっちのほうに移ったらしい。

 小津が死んだ後、唯一の証拠と言われているのは、小津の蓼科の別荘の石碑に本名の「会田昌江(原節子の本名)」という名前で刻まれているんだそうだ。だから、愛し合っていたのは事実だろう。小津だって戦前は、奥さんが1回だけ体を売ったということで、戦争から帰ってきた旦那がぎゅうぎゅう責めて、「今日、あなたは外にお酒を飲みに行かないで」と言ってとめる奥さんをひっぱたいて、階段から突き落とすシーンがある。有名なシーンだと思う。でも、この映画自体を大作だと思わない。そういうのを小津は撮っている。「風の中の牝雞(めんどり)」(1948年作)という作品。失敗作だ。小津はそういうのを一生懸命書いている。

 「晩春」はその次の年の1949年作だ。小津は、「晩春」からふっと浮かび上がっている。小津は原節子と、つかず離れずというか、ほかの木下惠介(きのしたけいすけ、1912-1998年、86歳で死)と黒澤明もちゃんと原節子を使っている。小津が原節子を独占はできないわけだけど、6作ぐらい撮っている。1956年の「早春」という映画がある。これは最後の方の作品です。淡島千景と岸惠子を使った。だから原は出てない。岸惠子のことを小津は嫌っていて、役が下手だって、大根女優だって言ったらしい。私もそう思う。つんとすましているだけだ。だけどフランス人のイヴ・シャンピ(Yves Ciampi、1921-1982年、61歳で死)っていう映画監督にもらわれてフランスに行っちゃったけどね。

「早春」(1956年作)
https://xs386479.xsrv.jp/cgi-bin/img-box/img20250703070342.jpg

岸惠子

 1937(昭和12)年に小津は徴兵されている。このころの徴兵はまだ悲壮感はない。日本軍は中国戦線が強かったから、そんなに死ななかった。小津は1939年に帰ってきている。そして、また映画界に復帰した。不思議なことに、空襲が始まった焼け野原のころでも映画をつくっている。

 1940年に原節子が20歳で「嫁ぐ日まで」(1940年作)という映画があって、こういうのがYouTubeに載っている。真珠湾攻撃で戦争が始まるのは1941年12月だから、それまでは日本は、ものすごく強い。そうすると、まだきれいな映画だ。

 「嫁ぐ日まで」は、島津保次郎(しまづやすじろう、1897-1945年、49歳で死)という監督が撮った。それで、原節子は20歳で金無垢(きんむく)の文金高島田で「お父様、お世話になりました」というシーンをやる。表面的にはきれいな映画だ。そのころはまだまだ日本はお金があったんだと思う。「アメリカ何するものぞ、戦争しても負けないぞ」みたいな感じがあったから、すごかったんだと思う。でも、大作っていう感じじゃなくて、立派な家のお嬢様を演じた。でもこの原節子が嫁ぐ同じ感じを「麦秋」か、なんかでもやっている。行きおくれだけど、子持ちの男と結婚した話だ。それを周りが泣いたり何だかんだして、それでも私は、優しい人だからいいと言って、生きていくという映画で受けた。

「嫁ぐ日まで」(1940年作)

(つづく)

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