覇権アメ第4章を読む(5)なぜ、ロック「市民政府二論」の第一論文が、日本語に訳されてないのか。

伊藤 投稿日:2025/08/16 11:24

 伊藤睦月です。本日は、2025年8月16日です。トランプ=プーチンのトップ会談が始まった。やはり、まず、「大国」どおしで、大親分通しで、話をつけるのである。ゼレンスキーは、なんだかんだ言っても、それに従わざるを得ない、「小国」の悲しさ、である。日本も程度の差はあっても、同じ立場である。現に、北朝鮮には、手をださせてもらえないではないか。

1)さて、自然権の採用については、覇権アメ第4章には、こう書かれている。

(引用はじめ)ロックのこのナチュラル・ライツの思想は、その後、近代政治革命家たちによって、「コンスティチューショナルconstitutionalな(憲法典に定められた、憲法体制としての)権利、right」、つまり「憲法条文の中で保障を宣言された諸人権」となっていった。これがアメリカ独立革命戦争の成果である「アメリカ独立宣言」(1776年)であり、フランス革命の動乱の中で生まれた「フランス人権宣言」である。アメリカの建国の父たちは、フランスの革命家たちは、ロックの思想を自分たちの思想のお手本として、嬉々として採用したのだ。

(引用終わり)伊藤睦月です。上記の副島先生の説明は、一言一句、すべて正しい。正しいのだが、それではなぜ、バークの両者に対する評価が、正反対になったのか。私なりに考えてみる。どーも細かいことが気になるタイプなので。前項で述べた、「ホイッグ党」つながりのほか、フランスは王様の首をちょん切って、「自然の決まり」を台無しにしたので、大混乱がおきた、(1種のアノミーが起きた)ということもあるかもしれないが、それ以外の要因を探してみる。

2)ロックの自然権思想は、「社会契約説」という仮説(フィクション)のうえに、人工的に(演繹的に)作られたもの。したがって現状変更の哲学になる。自然の決まりをあるがままに認める、自然法思想は、そういう仮説にはたっていないので、現状変更の哲学にはなりえない。(漸進的に、少しずつ改良、改善していく、ことがせいぜい)

3)社会契約説は、ホッブス由来、ロック由来、ルソー由来、ヘーゲル由来、マルクス由来、とさまざまあるが、人工的に、人間の頭の中で考え出された、という点では共通している。もっと、おおざっぱな分類をすれば、プラトン由来。プラトンは、シラクサの僭主(王)のブレーンとして、自分が思い描く「哲人王」を作ろうとして、独裁者をつくってしまい、大失敗した。後世、このプラトンの考えは、代々継承されて、この失敗も性懲りもなくくりかえされて、「呪縛」となったという論者もいるくらいだ。

4)伊藤睦月です。アメリカ独立戦争のリーダーたち、(建国の父たち)は、独立宣言では、ロックの社会契約説を採用したが、アメリカ合衆国憲法という、具体的な人権カタログや統治機構を作る際には、そのまま採用しなかった。アリストテレスの「ニコマコス倫理学」や「政治学」主張された、自然法的なシステムを採用した。これでバークの思想と根っこのところで途切れなかった。

5)ところで、バークの思想を強く批判したのが、生粋の革命家(18世紀のチェ・ゲバラ)であった「トマスペイン」(コモンセンス)」である。彼は、アメリカ独立後、過激すぎて、アメリカを離れ、謀反人として、出身の英国にも入れず、コロコロトップが変わっていた、フランス政府にも受け入れられず、欧米周辺をうろうろして、憤死している。

6)フランスの革命家たちは、アメリカと違って、王制打倒後のプランはなにもなかった。勢いあまって王様の首をちょん切ったり、ロックやルソーの社会契約説やアメリカ独立宣言を参考にして、それよりも先進的な(過激な)人権宣言を作ったが、すぐに、無効化した。そして、きちんとした理論的根拠をもたないまま、派閥抗争(殺し合い)をくりひろげ、ナポレオンによって、混乱を収められた。プラトンの失敗を繰り返したともいえる。アリストテレスは、王制の失敗の行きつく先は、独裁制、だと喝破したが、ナポレオンの台頭で、それが現実になる。バークの「省察」はナポレオン登場以前に執筆されたが、フランス革命の失敗とナポレオンの登場を予言した本、とされている。(と、私、伊藤はみている)

7)ここで、表題の問いに対する、私伊藤の考えを簡単に述べる。「羊頭狗肉」もはなはだしいけど。

①ロックの市民政府二論の第一論文は、「父権について」という表題である。当時の有力な政治思想であった「王権神授説」を聖書(当時は歴史的事実と考えられていた)の記述などを根拠に主張した論文だ。ロックはこれを徹底的に批判した。その要旨は、簡単に言ってしまえば、「聖書の記述は歴史的事実と違う。嘘っぱちのフィクションだ」というもの。そのため、当時のピューリタン革命失敗後の反動期(王権が優位)に、この本は、ヤバい本となって、匿名で執筆され、名誉革命(1688年)が成功して、やっと初版が出版された。という本である。

➁そして、第二論文は、第一論文で現体制(当時)を否定した後の、新しい「市民政府」の統治機構や、人権カタログを提案したもの。経験論たる、ロック哲学の「白紙:タブラ・ラーサ」(素質より環境だ)というコンセプトを基礎にしている。そして、このアイデアは、広く現代に浸透している。例えば、「未成年」(子供は小さな大人ではなく、未熟な存在だから、教えておげなければならない)という考え。(ルソーが最初ではない)など。など。

➂ところで、ロックの自然権思想は、明治初期に福沢諭吉らによって、日本に紹介された、とされている。(天賦人権説)、そして、第二論文は、戦後の日本国憲法の人権カタログの一部に採用されたため、日本語訳(鵜飼信成訳、岩波文庫)が出たが、第一論文はなかなか出ず、2000年代になって、やっと完訳(加藤節訳、岩波文庫)が出た。覇権アメが世に出た、1995年前後には、まだ完訳がでていなかった。(時代を感じるね)

④では、なぜ第一論文の翻訳が遅れたのか。それは、第一論文は、天皇制(明治憲法=大日本帝国憲法体制)を否定する内容だからだ、と私伊藤は考える。当時の明治憲法は、当時のプロシャ憲法を参考に、天皇大権(主権)を前提に、臣民として、適用制限のかかった、ロックの自然権(人権カタログ)を採用したもの。天皇関連は、自然法的、人権カタログは、自然権的、といった、シロモノであった。当時はそれなりに機能していたのだろう。だから、今でも明治憲法の支持者はすくなからず存在する。

⑤だから、第一論文は、ほとんどフィクションである、第二論文より、危険な書、ということになる。革命の書の本命は第一論文の方である。副島先生の見立てによれば、明治憲法下の天皇制は、プロシャ式だが、内実は、イギリス王室をモデルにしたものだという。そうであれば、結果的に英国王室の存在を否定しかねない、第一論文は、存在できなかった、のではないか、と私、伊藤は考える。

⑥2000年に入って、完訳がでてきたのは、第一論文の危険性が薄まったため。それは、天皇家の代替わりにも関係ある、のではないかと思うが、今のところ確信はない。これについては、ゆっくり考えることにする。多分急ぐこともあるまい。とも思っている。今回は、ここまで。

以上、伊藤睦月拝