「139」 2024年11月 新潟旅行

副島隆彦です。今日は2024年11月24日です。
今、日本海側に来ている。

新潟県の燕三条の三条市で私は人に会って、それから西蒲原郡 (にしかんばらぐん)にある弥彦山(やひこやま)という山の横をぐるっと回って、日本海側に出た。江戸時代後期のお坊様である良寛さまで有名な出雲崎(いずもざき)があるが、ここよりももっと北の方の、海沿いの旅館にいる。
さっき朝風呂に入って、そのとき隣にいたおじさんに、「太陽はどこから出るんですか」と聞いたら、笑われた。「いやここは日本海側だよ」って、「太陽が出るのは太平洋の方だよ」と言われた。この旅館から向こうに佐渡島が見える。侘(わび)しいと言えば、本当に侘しい。日本海側というのは。そういう感じの所だ。日本海側も、結構波はあるけども、よくて高さ1メートルだ。太平洋に比べれば、ずっと穏やかだ。

(遠くに佐渡島)

私は35年前に、出雲崎から南に15kmくらいの親不知(おやしらず)海岸というところに車で行って、それから金沢の方へ行った。その頃つきあっていた女性と。そこよりずっと北の大泊(おおどまり)よりももっと北のこの辺りに来たのは初めてだ。当時はユーノスロードスターという車を買ったばかりだった。まあいいが。

昨日、関東から新潟県に入った。越後湯沢に上越新幹線で来た。そこに高名な、高半(たかはん)という旅館があって、そこに泊まった。高半は川端康成の『雪国』という小説の舞台になったところだ。川端が昭和9年~12年というから、1934~37年に、ここに泊まって小説『雪国』 を書いた。新聞連載小説だと思う。それで、その連載はすぐ本になったと思うが、川端自身が気に入らなくてそのあと何回も書き加えたりしたようだ。川端にとっては初期の作品だ。

(高半旅館 2024年11月撮影)

戦後の1957(昭和32)年にこの小説が、東宝で映画になっている。原作が書かれた時から何と20年後だ。岸恵子と八千草薫、そして池部良(いけべりょう)という、スラッと背の高い日本の男の俳優が出ている。薄幸(はっこう)の、幸せの薄い女性ということになっている芸者の駒子(こまこ)と、東京からやってきた若旦那の愛の物語である。その映画の舞台がこの『高半』という宿屋で、平安時代の末の1100年代(約900年前)に高橋半六翁という人が発見した温泉だそうだ。現代の高橋半左衛門(女性)で36代目だ。この映画の始まりのシーンで、主人公の男が越後湯沢の駅に降りたときに雪が舞っていて、駅まで迎えに来た人の唐傘(からかさ)に高半のマークがついていた。「駅長さーん。駅長さーん」と呼ぶ有名なシーンから始まる。このあたりは、冬は2メートル、3メートルの雪が降って積もる。

(雪国のシーン)

私は昨日、越後湯沢の駅の西口から周辺の景色を眺めていたら、「あ、ここだな」と映画の雰囲気が伝わってきた。高半旅館は、そこから2km北のガーラ湯沢の駅のちょっと手前の高台にある。映画の『雪国』は、豊田四郎(とよだしろう)という、今では名前がほとんど残っていない映画監督が作った作品だ。長い現地ロケをして撮影にお金を掛けているし、有名な俳優たちをちゃんと使っている。だけども、おそらく映画の出来としては酷いということで、忘れ去られたと思う。大作といえば、大作なのだが。当時は『高半』 みたいな宿屋には、待ち合いとか置屋(おきや)から呼ばれてきた芸者たちがいて、客たちがみんなで宴会をやってお酒飲んで、芸者が踊りを踊ったりした。客はそのあと、それぞれ自分の部屋に芸者を一人呼ぶ。そして同衾(どうきん)する。

本当は、芸者はお客にお酌してお酒を飲まさせなきゃいけないのに、この映画は戦後の映画だから、そういう艶(なま)めかしい売春のシーンはほとんど出さない。ちゃぶ台で、というかこたつに入って客と芸者が二人で話している、みたいな。それで、すぐ抱き合うわけでもなく、なんだか、かんだか。奇妙な言い争いになって。布団に入って性交をするシーンはすっ飛ばして、抱き合わないで、「私のことを、どうしてくれるのよ」みたいな会話を、ちまちまとずっと、おそらく30回ぐらいやった。主人公の駒子という芸者が怒って帰ったと思ったら、また次の朝に来て。その高半の、今でも有名な一番いい2階(今は3階)の部屋でそれをつづける。ワンカット、ワンカットのシーンで撮っているものだから。よくまぁこんなことずっとを繰り返すね、みたいな映画でした。駒子役の岸恵子は、日本の美人女優三人のうちの一人に入るのでしょうが、ツンと澄ました女で、実際も高飛車女の女優だ。小津安二郎(おず やすじろう)は岸惠子に、「君は演劇が下手だ」と言ったそうだ。私もそう思う。京マチ子や原節子に比べたら、大根役者である。

相手役の男が島村(池部良)という東京から来た若旦那だけど、ところがこの映画の設定は画家ということになっていて何のリアリティもない。脚本家がバカなのだ。本当は、当時実際にあった反物(たんもの)買い取りの話だ。東京日本橋の反物屋、呉服屋の旦那が、冬の間に雪が積もる地域の農家の主婦たちに織り機(はたおりの機械)と、高級な絹糸を貸し出す。それで春先になってから、出来上がった反物を買い取りに来る。一つ一つの反物の値踏みをして、仕上がりの質の良いものは高い値段、まだ新米の若い農家の主婦が作ったものは安い値段になる。反物を買い取るために東京から来る。その時に、芸者と愛し合ったという話だ。実際に、こういう商習慣がずっと、たくさんあったと思う。

(越後湯沢駅 西口)

私、副島隆彦が本当のことを教えましょう。
商人でなければ、お金はない。余裕のあるお金の使い方はできない。商人たちだけが、街道●の宿屋で、旅籠(はたご)で、おいしいものを食べて、女郎(じょろう)を呼んで、同衾(どうきん)する。一緒に寝て、セックスできたわけだ。お金がないと、それなりのいい女の人を買えるわけがないのだ。この点について、グダグダ余計なことを言わないように。商人(あきんど)というのは現代の企業経営者で、中小企業の社長のような人たちだ。芸者を数人上げて遊ぶのには、50万円から100万円かかるのだ。

本当は『雪国』は、この話だ。明治、大正時代そして戦前には、このことが当たり前のように行われていた。それで、この映画の最後のシーンでは、東京の旦那はもう二度と現れなかった、という終わり方をした。実際には、旦那たちは何回かは来たんだろう。そして芸者たちと互いに引き合い、引きずって、愛し合ったんだけど。やっぱり東京には家があって奥様がいますから。

「身請けする」という日本語があって、本当に大金持ちだったら、東京に自分の愛した芸妓(げいぎ)、私娼(ししょう)を、身請(みう)けしていた。2000円、おそらく今の2000万円ぐらいだと思います。身請けして、東京の小さな借家に住まわせて、子供ができているからそこに住まわせるんです。それがバレちゃって、親族会議でエロオヤジ、みたいにバンバン叩かれたりすることもあったようです。奥さんに、毛嫌いされたり。そういうみっともないことをしないで、この『雪国』ではすっぱりと別れてしまうんですね。このことがスゴいことだった。

この描き方が、川端康成の真骨頂だ。それほどまで愛した若い芸者とすっぱり分かれて、二度と越後湯沢に島村(川端)は来なかった。このことが何故スゴいのか。そんなことは世の中にはよくあることだ、今だってそうだ、とか馬鹿なことを言うな。この時の川端の小説の非情な終わり方が、当時の日本文学の最先端だったのだ。だからこのことを指して、新感覚派という(呼ぶ)。その前の自然主義文学、田山花袋(たやまかたい)やリアリズム(私小説)とは隔絶して、新しい文学が日本に生まれたのだ。これ以上は、今は書かない。

私、副島隆彦は静岡県の熱海に住んでいる。熱海にもそういう物語がたくさんある。あるに決まっている。今となっては誰も話しをしないし、忘れ去られてしまって、表面には何も残っていない。

今も、80才代のおばあちゃんの芸者さんたちがいる。芸者という言葉は、これは私の独自の勝手な定義で、誰かから証明してもらったものではない。芸者とは何か。それは芸ができる人、すなわち三味線が弾ける人のことだ。三味線が弾ける人だけが、実は80過ぎまで御用(ごよう)を務める、つまり座敷にお呼びがかかるのだ。普通の芸者は、やっぱり三味線がうまくならなかったと思う。難しいのだと思います。歌舞(【かぶ】、歌と踊り)音曲(おんきょく)の音曲である。だから三味線ができる人が、芸者なのです。これは日本基準でも世界基準でも知られていない事実だ。

(熱海芸妓)

あと、芸妓(げいぎ)は、関西では舞妓(まいこ)、それから芸妓(げいこ)なんですけどね。東京では芸妓(げいぎ)だ。妓は、「き」で「女偏に支える」で、これは中国語で売春婦と言っちゃいけないが、高級な愛娼のことを言う。芸妓組合というのは、まだ全国各地にボロい建物が残っています。花街(かがい、はなまち)に。明治、大正、戦前、戦後も、芸妓組合は暴力団が仕切っていて、女たちを管理している。性病検査のために、医者も定期的に呼んでいた。見番(けんばん)ともいう。見る番と書くんです。

見番は、本当は検番(けんばん)だった。暴力団(ヤクザ)が女たちを(借金のかたに)厳しく取り扱っていた。売春婦(芸妓)は商品だから。たとえば、夜番の元の言葉は番小屋(ばんごや)だ。番小屋というのは、江戸時代の庶民にとって恐ろしい所で、そこの岡引き(十手【じって】もち)に捕まって、しょっぴかれて行ったら、ぶん殴られますからね。拷問にかけられた。だからこの見番(検番)というのも、恐ろしい言葉だ。芸妓の女たちを検番で見張るっていう意味だ。そこの女たちは売られてきた女たちだから。見番という言葉が滅んで、芸妓組合になった。戦後だ。これ以上話すとあれこれ大変だから今日はもうやめる。『雪国』のお話の中身をずっと喋っていくと、私はおそらく2時間くらいしゃべるので、もうやめます。

たった一つだけ、今話しておくことは何だろう。

越後湯沢に、私は不動産(リゾートマンションやホテル)の動きがどうなっているかを調べに来た。現地調査をしに来たのだ。中国人や西洋人がそろそろ、北海道のニセコ、トマム、富良野だけではなくて、本州のベチャベチャの雪なのだが、長野(信州)と新潟(越後)ですね。不動産を買いに来ているのかどうか。長野と新潟にスキー場(ゲレンデ)がたくさんある。その脇に、10階建て、20階建ての、もう30年以上前にできたリゾートマンションがある。そこを外国人投資家が買いに来ているかを調査に来たんです。今日も見て回る。

(湯沢の 売りリゾートマンション)

中国人が実際にかなり来ているようだ。1992年に不動産開発バブルがハジけて33年経つが、今の日本のリゾート地はまだまだどこもひどい状態だ。とにかくボロクズ値段のまま安い。ボロい酷い中古の鉄筋アパートは、300万、400万円で買える。高い別荘物件は2000万、3000万で売っている。しかし誰も買わない。これから、そろそろ動き出すだろう。マンションに温泉が引いているけど大した泉質ではない。沸かし湯の井戸水でしょう。古くからの旅館も全部、35年くらい前に鉄筋に建て替わっている。そのころ、大手の開発業者たちがたくさんリゾートマンションを建てた。あの苗場(【なえば】、ユーミンのコンサートで有名。西武【国土計画】が開発した)は、西武ヴィラのほとんどの部屋が10万円だ。これが日本の現実だ。しかも、30年前からずっと10万円。越後湯沢から六日町(むいかまち)か、石打(いしうち)丸山から中里、神立高原(かんだつこうげん)に、それらがずっとある。

今回、まだ雪が降り始める直前の越後湯沢を調査したから分かった。40年前にスキーをしに私も何度もここに来たが、雪で何もわからなかった。今だからこそわかる。新潟県の都会である長岡まで行って、昨日大きな事実が分かった。大きな町である長岡は大平原の都市だから、積雪は30センチ以下だ。大きな山のあるところじゃないと積雪はないのでスキー場にならない。だから、そうか。雪国というのは湯沢のような山際(やまぎわ)の町のことであって、同じ北の国でも平原地帯は雪国ではないのだ。

積雪地のなだらかな斜面がゲレンデで、その手前に5棟、10棟のリゾート鉄筋アパートが建った。そこを、私は関越自動車道を走る車の窓からじーっと見ていました。今日はもう、これで終わる。

(おわり)

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