「2181」 源氏物語は藤原道長の人生そのものだ論・完(第2回・全2回) 2025年3月1日
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副島隆彦です。今日は2025年3月1日です。
柏木中将(かしわぎちゅうじょう)と女三宮(おんなさんのみや)の間に生まれた子供である薫(かおる)の話で、文学好きの人たちは『源氏物語』の最高の高まりをここに見つける。道長(みちなが、966-1028年、62歳で死)、すなわち光源氏(ひかるげんじ)が復讐された。それだけの話だけど、これは今でもあんまり、はっきりとは言わないことになっている。NHKもそこはあんまり言わなかったと思う。
夕霧中将(ゆうぎりちゅうじょう)=藤原頼通(ふじわらのよりみち、992-1074年、82歳で死)は立派な息子なんだけど、雲居雁(くもいのかり)というのと、藤典侍(とうのないしのすけ)というのを愛人にしていた。それで、道長の敵対勢力であるおじさんの家柄の伊周(これちか、974-1010年、37歳で死)をいじめて死なせちゃったんだけど、それの未亡人だった落葉宮(おちばのみや)にも手を出して自分の愛人にした。そういう話だ。もうあちこちで男と女がつながっていて、ちょっと気に入ったらお金があるほうについていく。
渡邊圭祐が演じる藤原頼通
藤原伊周関連の家系図
それも真実で、頼通の息子の藤原師実(ふじわらのもろざね、1402ー1101年、60才で死)というのがいて、これも立派な息子だ。だから道長から3代続いたということになる。道長の系統は、おやじ(養父)の代まで入れたら4代、代々の権力者だ。それで、平安時代を管理した。
藤原師実の家系図
道長が死んだのは1027年だ。道長の六女の嬉子(よしこ、1007-1025年、19歳で死)というのが2年前に死んで、何というか、疫病だ。じんま疹というか赤いできものがついて、ついでに物の怪(け)とか怨霊が出る。それでみんなが恐れおののく。父親の道長は娘を抱き抱えて、死なないように祈るんですけど、その時の「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」という言葉が大事だ。
道長の次女の妍子(けんし、994―1027年、34歳で死)というのが、まあわがまま女で、宴会ばっかりやってお金ばっかり使っていたらしくて、34歳でさっさと死んだ。それの娘の禎子(ていし、1013―1094年、82歳で死)というのがいて、これも陽明門院というから80幾つまで長生きして女権力者になった。
だから、1000年代まではこの人たち、道長の系統の連中が権力を握って、いっぱい全国から集まってくる貢ぎ物というか、年貢、税金を自分たちで全部ひとり占めした。それに対する激しい憎しみが1100年代から始まる。そのころの白河天皇(しらかわてんのう、Ⅰ053―1129年、77歳で死 在位:1073-1087年)が上皇になるんだけど、白河天皇が怒って怒って藤原家を排斥して、だから藤原家は宇治のほうに引っ込んだようだ。
白河天皇
そこに、平正盛(たいらのまさもり、-1121年?)という暴力団の親分みたいな侍大将が天皇の横について、それが道長の系統の藤原氏の力少しずつ削いでいく。平正盛の息子が平清盛(たいらのきよもり、1118-1181年、63歳で死)だ。だから平清盛の時代になっていく。その時に、もう100年続いていた藤原氏の道長の系統が駄目になっていく。
平清盛の家系図
平清盛
そういうふうに歴史を見ると、「何が何だか分からないこと」がはっきりする。道長の系統は100年間続いたことが分かる。その後は平氏が100年間。それから源氏、源頼朝(みなもとのよりとも、1147-1199年、51歳で死)の時代が来て、これは源氏三代で、それの家来だった北条氏が140年間ぐらい続いて、それが今度は後醍醐天皇(ごだいごてんのう、1288-1339年、50歳で死 在位:1318-1339年)の建武の中興(けんむのちゅうこう)があって、それを利用して、やっぱり武家の棟梁だった足利氏、足利尊氏(あしかがたかうじ、1305-1358年、54歳で死)が権力を握って、これは形上は戦国時代。信長のころまで足利幕府なので230年間ぐらい続いた。
源頼朝
そういうふうに歴史をずっと見ると、真実が分かってくる。
ただ、私が「源氏物語の真実」を言ったからって、誰も信じてくれない。しかし、本当に大事な話だ。源氏物語は嘘をついていない。私は真実に気づいちゃって、でも、言わないことになっていることも分かる。多くの人は、全体を大きく見る目がないから駄目だ。
じゃあ、「まひろ(紫式部)」と道長はほんとにできていたかといったら、できていた。生まれた大弐(だいに)の君というのはやっぱり道長の子だ。道長は自分で、『御堂関白記(みどうかんぱくき)』という日記まで、走り書きの字で、自力でずうっと精密に書いてる男で頭がいい。だから、自分の非行少年だった13,14歳のころからの、遊び放題の、女たちを強姦したり、のぞきをやったり、不良たちと遊んでいた話を正直に全部書かせてみんなに配ったわけだ。それが『源氏物語』だ。そのことをみんなが言わないのがいけない。
御堂関白記
だから、東三条院なのか、土御門(つちみかど)なのか、どこかの大きなお屋敷の中に生産工房があって、何十人か人を使って、紙をすいて立派な紙を、それはよそでつくってきたのを型をつくって、まひろたちが一生懸命写本して、お父さんが書いた文章を写して、それをみんなに貴族たちに配って回った。それが『源氏物語』だ。
だから、不思議なことに、ちょうど1001年から、『枕草子』も、『紫式部日記』も、ほかの赤染衛門(あかぞめえもん、956?―1041年?)の本とか、藤原隆季(ふじわらのたかすえ、1127-1185年、58歳で死)の娘の本とかが、ばらばらばらばらっとこの辺で一気に出ている。1007年に『源氏物語』がみんなに配られた。『紫式部日記』が1010年に出た。意図して周りに配られているということだ。秘密で誰かが書いたということではない。
紫式部日記
道長という男は、独裁者なんだけど、頭がよかったから、書かせてみんなに配って、それはまず女たちの世界を中心に読まれた。読んで死ぬほど楽しかった。今のような映画も文化もテレビも何もない。本を読むということがものすごく素晴らしいことだった。女房たちが読んで、あの例の、扇子を口に顔を隠しながら、あっちの局(つぼね)からこっちの局に廊下ひばりというのをやる。あの女房たちがインテリだ。平仮名まじりの字を一生懸命読んで、それが死ぬほど楽しかった。
貴族の男たちは、この間もしゃべったけど、中国の漢文の儒教の本と、仏教の難しい本を読まされて、もう死ぬほど嫌だった。そうすると、女たちが楽しい恋愛物語を読んでいてそっちが死ぬほど楽しいらしい。俺たちも読ませろといって、平仮名がいっぱい書いてある文章を男たちも読んだ。当時に印刷物はないけども、きれいな字を書く女たちが書き写して草子にして配った。その真実がものすごく大事だ。
ここで、女御(にょうご)と女房の区別をつける。女御というのは天皇とセックスをする高貴な女(皇族や大臣の娘)。もし男の子が生まれたら、女の子でもそうだけど、女御になる。それで、生まれた男が皇太子になると、もしくは、将来なることが分かると、その時点で皇后になる。それから中宮(ちゅうぐう)といって、力がある家柄だと中宮になるのね。その、生まれた子が天皇になれば、天皇のお母さん、国母(こくぼ)で国の母、ということになる。
見上愛演じる中宮彰子
後宮の階級
あんまり位が低い人の場合は中宮なんかにはなれない。なぜなら、位が低いとは給仕をする女官のことだから。位が低くても高級貴族とセックスするという女たちを女房という。だから女房というのは女官のことだ。位なんかもらえないし、名前もないような人たちだけど、やっぱりそれなりにいいとこのお嬢様たちで、ある程度きれいじゃないといけない。江戸時代でいえば大名家の腰元修業で、きれいな女たちを女官にして大名や貴族、皇族のお世話係にする。女官、女房たちには男たちは手が出し放題だったようだ。ちょっとどこか小部屋に引きずり込んでセックスするというのが当たり前だった。
そして、紫式部というのは女房階級だ。このことを言わないからみんなが理解できない。だから、きっといろんな人と、何人かとセックスしていた。それは女房には許されていた。女御、要するに天皇の奧さんになった人のように、天皇と性関係を結ぶ訳ではない。紫式部はあくまで書記係だ、お世話係。だから女房階級は性に厳しくなかった。女房階級で赤ちゃんができたらどうするかというと、お暇をもらう。お金をいっぱいもらって引っ込む。引っ込んでその子供を育てる。そのとき別の男と結婚して、そこで幸せに暮らして死んでいくのもいれば、何というか、子供を取り上げられて、お寺で坊主にさせられちゃうか、色々とある。
その女の人生はそれぞれ一人一人違う。気のきいた女だったら、どんな時代でも、いい男を見つけて奥様になって楽しく生きたと思う。ちょっと勘違いしている女で、権力闘争の中に入り込んでいった女は悲惨な死に方をしたかもしれない。あと、やくざもんみたいな男とくっついた人は自分もやくざものの姉御になっちゃって、ひどい死に方をしたかもしれない。
だから人それぞれなんだけど、女房と女御の区別をつけなきゃいけないんで。女房は女官たちだ。
そして、お局(つぼね)という言葉も、今は女たちが勝手に使って、裏ボスとかばかなことを言っているけども、局というのは、宮中には本当にその屋敷の一角に木が植わっていた小さい庭、小さな四角い庭があって、その周囲の仕切られた部屋のことを言う。木が植わっている周りの部屋で暮らす女性たち、だからお局なのね。木は、宮中に1本木が植わっているだけでも大変なことだった。
御所の後宮
お局のひとりが、梅壺(うめつぼ)と呼ばれていた。さっき言った道長との赤ちゃんを産んだ藤原詮子(ふじわらせんし、962-1002年、40歳で死)は、梅壺更衣(うめつぼのこうい)という。更衣(こうい)というのは、これも高校1年生でみんな習っているんだ。で、詮子は、女の実力者になって、東三条院、院になった。
吉田羊演じる藤原詮子
だから『源氏物語』の最初の段に、桐壺更衣(きりつぼのこうい)というのが出てくる。それが産んだ子供が光源氏だ。すなわち藤原道長。桐壺更衣は誰ですかといったら、私、副島隆彦が発見した。芳子(ほうし、-965年)だ。村上天皇の最後の愛人。天皇の愛人だから女御になる。そして、村上天皇とこの芳子は、子供(道長)を産んでから、965年に死んじゃうのね。だから、この芳子は言ったように桐壺更衣なんですね。
『源氏物語』相関関係図
藤原芳子の家系図
そのときの『源氏物語』に使われている言葉で、誰でも習っている。『源氏物語』の第1巻目。それは桐壺帝(きりつぼのみかど)という帝(みかど)が出てくるのね。これが村上天皇(むらかみてんのう、926-967年、42歳で死)だ。これを誰も教えない。私は、怒っている訳じゃないが、これが真実だ。私が調べたら、この2人が死んだ前の年に道長が生まれている。それで、藤原兼家(ふじわらかねいえ、929-990年、62歳で死)のもらわれっ子になっる。兼家はやがて左大臣になって、権力者になる。兼家の子供で、道長とは血が繋がらない兄貴が2人とも死んじゃったから道長が左大臣になって後を継ぐわけね。で、更衣である藤原詮子が産んだ皇太子(実は道長の子供)が天皇になる。この話の骨格のところをわからなきゃいけない。
藤原道長の家系図
そして、この後ろのほうの話は、道長の2番目の奥様の女三宮で出てくる、本名は明子(めいし、965-1049年、84歳で死)だが、この人が敵対関係のおじさんの系統の息子とできて不倫をして、生まれた子供が薫中将(かおるちゅうじょう)だ。それがつき合った女の人たちとの話が宇治十帖(うじじゅうじょう)で、それで『源氏物語』は終わる。
ということで、もうね、これ以上話をしてもみんなわかってくれないから。あ、一つだけ。道長というのは1027年に死んでいるんだけど、61歳からかな、最後は本気で阿弥陀如来(あみだにょらい)を拝んでいる。さっさと1019年に出家して。ということは死ぬまでの8年間、阿弥陀如来の仏像を8年間、道長はずっと拝んでいる。
必死で朝から晩までずうっと、仏像を並べて、その間を走り回ってというかね。法成寺(ほうじょうじ)というお寺をつくって、そこに100人の僧を呼んで念仏をずうっと唱えさせて、自分があの世に行けますように、極楽浄土に行けますようにと祈った。これが阿弥陀経(あみだきょう)、南無阿弥陀仏だ。だから、厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)といって、汚い穢土(えど)、汚い土地から離れて、天国、浄土に行けますようにと拝みながら死んでいった。これが『栄花物語(えいがものがたり)』に書かれている。「道長が最高にすぐれた権力者で、栄えた時代でした」という本だ。道長は、阿弥陀如来の仏像と手を糸で結んで、私も一緒にこのまま極楽浄土に連れていってくださいと言いながら死んでいった。
栄花物語の写本
大事なことは、これが阿弥陀如来(あみだにょらい)、アミターバ(Amitabha)というか、阿弥陀様だ。浄土宗だ。鎌倉時代から江戸時代は浄土宗になる。さっき言った源信(げんしん、942-1017年、76歳で死)というのは『往生要集』の著者で、生きている間に助けてくださいというときの神様が観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)だ。だから、観音様というのは『法華経』という大きな中国から来た経典に書いてあるんだけど、生きている間に助けてくださいというときが観世音菩薩、観音様。それに対して、もう死ぬことが分かったときに、あの世で、要するに極楽浄土に連れていってくださいといって必死で拝むときは阿弥陀如来だ。その違いがある。
その2つの宗派が今も続いていて、日蓮宗系が『法華経』の系統。それに対して、浄土宗の本願寺の系統がある。この2つが日本での二大勢力だ。禅宗の系統は違う。禅宗は鎌倉武士たちから後なので、神も仏も信じない。というのが真実だ。その実は、仏教であるかどうかも分からない、経典もない。だけど威張っている。日本では、武士たちが一生懸命、能とか狂言をやったときに栄えた宗教が禅宗だ。
ということで、だから藤原道長が『源氏物語』の光源氏であるということは、NHKが国民ドラマにすることで、これで定着した。ばれちゃったというか、日本の国家体制側が認めた。それまでは、大学の国文科を出た連中もほとんど馬鹿ですから、政治センスがないからわからない言わないことになっていた。今回、NHKが初めて国民教育をやった。その意義がものすごく大きい。
「まひろ」という名前はどこでつくったか知らんけど、藤原道長と紫式部とができていて、子供もつくりましたという話だ。本当は、藤原氏のこの時代の人たちは乱交パーティーをやっていた。それはヨーロッパの貴族たちもやっていて、映画「オッペンハイマー」(2023年公開)でやったように、超一流の学者たちも、教授、夫人たちはみんなで集まって乱交パーティーをやっていた。フリーメーソンの儀式でもやっているんだということだ。それはどんな時代にもあった(ある)し、それが上流階級というものなんだということだ。これで終わり。
(終わり)
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