ブレイク:日本古代史研究小史:戦前の方が、スケール大きかった(1)
伊藤睦月です。今朝、博多の街は雪景色です。積雪はミリ程度ですが、道が凍結しているので、歩くのに注意が必要。事故増えそう。
前回で、日本古代史の前半(1世紀~8世紀)を概観したので、(思い付きの補足説明はするけれども)ちょっと休憩。少し雑談(今までもそうじゃないか!というツッコミはご勘弁)します。以下あくまでも私見です。
(1)日本古代史研究は、戦前の方がスケールが大きかった。邪馬台国論争の白鳥庫吉や内藤湖南は、日本史学者ではなく、東洋史学者として有名だった。中国人学者・留学生も彼らに教えを請いに来たという。
(2)戦前は、大日本帝国の膨張期で、「比較的自由に大陸を行き来していた(小林恵子氏)」。だから、東シベリアの遊牧民たちの人類学的研究も盛んであった。戦後「文明の生態史観」の梅棹忠夫、「騎馬民族王朝征服説」の江上波夫といった戦前からキャリアを始めた学者の論考は、それへの諾否は別として、戦後の学者たちにはない、スケール感がある。戦後世代にはなるが、岡田英弘(1931-2017)もその系統である。
(3)戦後は、海外渡航に制限がかかっていたこと、「皇国史観」というフィクションが崩壊した後、「唯物史観」という新たなフィクションの流行、それに行きたくない人は「実証」の殻に閉じこもる、といったいびつな研究環境にあった、特殊な時期が続いた。台湾以外の中国人歴史学者との交流は、日中国交回復(1972年)以降から始まったが、まだ十分とは言えない。韓国人学者との交流もいまだにバイアスがかかっているようだ。
(4)日本古代史研究も、日本歴史学会、日本考古学会、日本東洋史学会、に分かれて、お互いの領域は干渉しない、という慣行が続いているようだ。(他に文化人類学会とか・・・勝手に命名してしまうけど)「たこつぼ」と批判するのはたやすいが、それなりの成果はあったとは思う。
(5)そういった「歴史研究の壁」を打ち破る傾向が見え始めていると思う。いわゆる「歴史サイエンス」「学際研究」と呼ばれる、研究手法の開発、発達だ。海外との交流が盛んだった、理系研究者の参入が著しいようにみえる。
(6)この傾向も、1990年代の、東西冷戦の終結が背景にある。政治、経済、ときて、文化、歴史研究にもようやく及んできたようだ。2000年以降になる。
(7)次回からは、日本古代史研究史に関し、私の「知ったかぶり」を雑談していきます。ツッコミ、ご教示大歓迎です。
以上、伊藤睦月拝