日本古代史解明の補助線(9):天皇位継承の大原則 吉野盟約
伊藤睦月です。
1-(1)天武・持統朝における、天皇位継承者の範囲を決定したのが、「吉野盟約」(679年)だ。672年の壬申の乱から、7年後である。
1-(2)天武天皇は、吉野盟約の2年後、681年に日本書紀の編纂を命じている。
1-(3)この7年後(686年)に天武天皇が亡くなる。「7」という数字になにか意味があるかどうかはわからない。
1-(4)720年日本書紀が完成した。
2ー(1)吉野盟約によって、天皇位継承候補者は、6人に絞られた。天武直系4名、天智直系2名である。天智直系が入っていることに注意。
2-(2)その6人は以下の通り
※天武直系
①草壁皇子(662-689)
②大津皇子(663-686)
③高市(たけち)皇子(654-696)
④忍壁(おさかべ)皇子(?ー706)
※天智直系
⑤川島皇子(657-691)
⑥志貴皇子(668-716)
2-(3)伊藤睦月です。継承順位はおおむね番号通り。母の身分順で、年齢順ではない。
2-(4)天武以降は、上記6人もしくはその直系しか天皇位になれない、ということ。江戸時代の徳川御三家(尾張、紀伊、水戸)、御三卿(一橋、田安、清水)みたいなもの。この区別は厳重に守られた。
2-(5)この盟約では、天武と持統の子、草壁皇子が、次の天皇に決まった。他の皇子は傍系となった。この時点では。
2-(6)しかし、草壁は天皇位に着く前に早死にしてしまった。
2ー(6)持統は、草壁の直系(文武)に天皇位を継がせるため、第2順位の大津皇子を謀殺し、自ら傍系の天皇になり、文武が即位するまでに、他の傍系の天皇(元明、元正)でつないだ。性別は問わなかった。
2-(7)第3順位の高市皇子は殺されなかったが、息子の長屋王(684-729)は、草壁直系(聖武)を即位させるため、藤原四兄弟によって、一族根絶やしにされた。藤原一族の妻子は、助けられたが、子孫は残せなかった。
3 藤原仲麻呂(706-764)の失敗
3-(1)聖武の直系である孝謙女帝(718ー770)は、子供を産まなかったので、天武直系が絶える恐れがあった。
3-(2)そこで、当時の最高実力者藤原仲麻呂(恵美押勝)は、孝謙を退位させ、舎人親王の子、大炊(おおい)王を天皇位につけた。舎人親王は、天武の直系であるが、吉野盟約のメンバーではない。つまり対象外から天皇を選んだ。
3-(3)これには、当時の豪族を代表して、橘奈良麻呂(721-757)が反対した。橘奈良麻呂は、橘諸兄(684-757)の子。橘諸兄は、仲麻呂の祖父、藤原不比等の正妻、県犬養三千代の連れ子だ。
3-(4)藤原仲麻呂は、橘奈良麻呂の関係者を皆殺しにして、独裁権を確立、恵美押勝と改名して、大炊王即位を強行した。
3-(5)その藤原仲麻呂も、孝謙派の豪族たちの反発にあって、失脚、暗殺された。
3-(6)孝謙は、大炊王の天皇位を剥奪して(淡路廃帝)孝謙天皇として即位した。淡路廃帝は、仲麻呂の死の翌日に死亡した。暗殺説が有力。
3-(7)明治に入って、名誉回復。大友皇子(弘文天皇)ととともに、淳仁天皇と追贈された。
小休止、以上伊藤睦月筆