私説:日本書紀、古事記の正体(8)一応のまとめ(日本書紀編)
伊藤睦月です。本日は、2024年12月30日5時14分です。
日本書記の正体、について、ここで一応まとめます。
(1)日本書紀は、ネイティブ漢文で書かれているが、同書の信頼性、権威を高めるためであり、日本書紀自体は、中国側向けではなく、国内の官人向けに書かれた歴史書である。
(2)日本書紀は、大和のアマ氏の王権の正統性、なかでも、舒明直系だけが、天皇位を引き継げることを、他の傍系や、有力豪族の末裔たちに、アピールするために編纂された歴史書である。
(2)-2 日本書紀完成の翌年、721年に、当時の官人全員を対象に、内容のレクチャー(日本書紀講莚)を実施した。
(2)-3 舒明直系に逆らうと、どうなるかを警告するエピソードをふんだんに盛り込んだ。
(3)平安時代に入り、大和のアマ氏の直系の王権が確立すると、今度は藤原氏の正統性をアピールするため、藤原の書として、利用された。
(3)-2 810年、藤原薬子の変により、舒明直系の威信が低下するのを防ぐため、812年に、日本書紀講莚を再開した。
(3)-3 その後は、藤原氏の威信が揺らぐような政治的事件があるたびに、講莚が繰り返される。そして、藤原摂関家の覇権獲得が進んでいく。
例:843年第3回:承和の変(839年)の翌年開催
878年第4回:応天門の変(866年)の12年後、下総俘囚の乱(875年)の3年後
904年第5回:菅原道真の太宰府左遷(901年)の3年後。
936年第6回:平将門、藤原純友の反乱(935-941年)の渦中
965年第7回:この時期、藤原摂関家の全盛期に入る。安和の変(969年)があったが、藤原摂関家の覇
権は揺るがず、それ以降は、開催されなくなった。
(3)-4 伊藤睦月です。上記はこじつけっぽいところもあるが、大筋では該当している、と考えている。
(4)大和のアマ氏と中華帝国は、対等な関係にある、というフィクションを、官人たちに、アピールするための歴史書である。
(5)以上のことを、官人たちに刷り込むため、対等関係でないことがわかる史実を記載せず、中国側に知られると困る、「不都合な史実」もあえて掲載した。
(5)-1 対等関係でないことがわかるので日本書紀に記載されなかった史実
例:漢委奴国王、親魏倭王、征東大将軍(倭の五王)らの朝貢、冊封記事
(5)-2 中国側に知られるとまずいが、「対等であること」をアピールするための、エピソード。(国内では、
武勇伝になる)
例:天皇号の表記、遣隋使での無礼な挨拶、隋国書の紛失、乙巳の変(親新羅派=新唐派要人の暗殺など)
及び白村江の戦いの共同謀議(倭国が首謀者であることがバレバレ)、歴代倭王の不適切行為(不倫、
近親相姦、暗殺、残虐行為など、有徳性を疑わせる行為)
(6)さらに万が一中国側にばれたときのアリバイ工作のため、上記「不都合な事実」の大半を、白村江で滅んだ倭
国の仕業とし、すでに滅んだ倭国のアマ氏の系譜を「傍系」として、大和のアマ氏の系譜に挿入した。悪いこ
とはすべて、倭国がやりました。大和のアマ氏は、倭国のアマ氏とは、「別種」です、と説明するためだ。
(6)-2 これらは、私伊藤の完全なるファンタジーで、立論が不十分なことは、自覚している。今後の課題だ。
しかし、ありそうな話だと、内心自信がある。今後、適宜補足していく。次は、古事記について、自論を述べる。
以上、伊藤睦月筆