私説:日本書紀、古事記の正体(7)白村江から壬申の乱へ。そして日本書紀の完成。

伊藤 投稿日:2024/12/29 22:48

伊藤睦月です。続きです。

 663年の白村江の敗戦の前後の時期における、天武(大海人皇子)と藤原鎌足(余豊璋)の動向がよくわからない。天智(中大兄皇子)は、天武の妻妾を朝倉宮まで連れて行っているから、これを人質(関裕二説)と考えれば、天武は、飛鳥に残ったと考えられる。日本書紀にはその間、何も記事がないが、将来のことを考えて、単に記載すべき事項がなかったためと想像している。ただし、現地にスパイを送り込んで、人質の安否と天智周辺の動向を監視していた可能性はある。

(2)この戦いは、唐正規軍対百済残党プラス倭国傭兵隊との戦いで、武備と用兵術に勝る唐軍の圧勝だった。新羅軍は、将校団のほか参加していないし、唐軍には、百済正規軍(元百済皇太子軍)が参加していたので、歴史教科書記載の「唐・新羅連合軍VS[日本・百済連合軍」という構図は間違い。百済は660年に滅亡しており、倭国が、残党たちに、亡命王子の余豊璋と援軍を送り込んで戦わせた。余豊璋は、倭国の傀儡であろう。余には百済軍を統率する力量がなく、実際は倭国軍単独で、唐軍とぶつかり、全滅した。副島隆彦先生は、これでもって、九州北部の伝統ある「倭国」は、滅亡した、とする。中国側に記録には、百済軍の固有名詞は記載されても、倭国軍は、「倭人」とか「倭軍」と記するのみである。日本書紀には、固有名詞の記載が結構あるのと好対照である。

(3)敗戦の報に接した天智は、朝倉宮を脱出して、飛鳥に戻り、防備を固め、近江京で「天智天皇」に即位した。通常、負け戦で逃げ帰れば、その者の威信が低下し、政権交代がおこりやすくなる。詳細が天武のもとに入る前に、即位して、直系の地位を確保したかったのかもしれない。それにしても、行動が早すぎる。先を越された天武の心中いかばかりか。万葉集には、宴席で、酒に酔った天武が手槍を床に突き刺したり、元カノの額田王に、今カノの天智の目の前でちょっかいを出して挑発したり、といった「奇行」が伝えられている。

(4)舒明直系を決める決勝戦は、天智の死の直後、672年に、今度は先手をとった、天武の圧勝で終わった。大友皇子は自殺した。天武は近江京から、飛鳥浄御原京に移って「天武天皇」に即位した。ここで、舒明直系は、天武で決まった。

(5)679年、天武と持統は、天武直系の皇子と天智直系の皇子たちを集め、後継者を天武と持統の子、草壁皇子とすることに、同意させ、「吉野盟約」を結んだ。盟約の対象者は、天武の直系のほか、天智の直系も参加した。大友皇子の直系は外された。天智の傍系となった。これで、草壁皇子の系統だけが、天武、ひいては、「舒明の直系」となった。

(6)681年、吉野盟約の2年後に天武天皇は、10数人の官人からなる、「日本書紀編纂委員会」を結成し、史料の取捨選択、天武の意向に沿った、「正しい歴史書」の作成を命じた。

(7)686年、天武天皇が死に、皇后が「持統天皇」として即位した。

(8)697年、持統が死に、草壁皇子の子が即位し、文武天皇となった。

(9)720年、日本書記が完成した。翌年、721年に、官人たち全員にお披露目し、第1回目の内容レクチャー(日本書紀講莚)が行われた。

小休止、以上、伊藤睦月筆。