『聖徳太子はいなかった』谷沢永一著 新潮新書 七百円 日本文明派に対する頂門の一針
2005年、全国の義務制学校で、採用を拒否された『新しい歴史教科書』は、律令国家の成立の表題の下、聖徳太子の新政を、聖徳太子の外交と聖徳太子の政治の両面から論じている。
そこには、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」が引用され、「遣隋使は隋からみれば朝貢使だが、太子は国書の文面で対等の立場を強調することで、隋に決して服属はしないという決意表明を行った」と書かれている。
「新しい教科書をつくる会」では、聖徳太子は、ヒーローなのである。
この一文に対して、谷沢氏は、著書の冒頭に問題にし、「これ、聖徳太子が、中国の隋の皇帝に宛てた国書である、と長いあいだ教えられきた。非常に大切な文書であるとの触れこみである。それほど貴重なのか。では、日本の歴史書の、どこに、記しとどめられているのであろう」と切り出す。
そしてこの一文が、我が国のいかなる書き物にも、ぜんぜん載っていないことを明らかにした後、『日本書紀』の箇所を紹介して、その手練手管を解析する。
見事である。この部分だけでも読むことを進めたい。
谷沢氏は、新書約二百二十頁にわたり、聖徳太子がいないことをいろいろな側面から執拗に証明している。
私の管見からも、聖徳太子はいなかった説は、関祐二氏らも蘇我入鹿=聖徳太子説の立場から説明しているが、谷沢氏が依拠するのは、『長屋王家木簡と金石文』を著した大山誠一氏である。
大山氏は、聖徳太子の実態を、用明天皇の第二子の厩戸皇子としている。
この大山説に全面依拠して、谷沢氏は、議論を展開しているのだが、最近売り出している遠山美都男氏は、『日本書紀はなにを隠してきたか』において、法隆寺系資料を『日本書紀』以後の文書と認定したことで、聖徳太子が厩戸王をもとに創造された架空の人物であるとしたことを大山氏の功績としつつも、なぜ『日本書紀』ではそうした創造が行われたのかを解明していないことを大山説の問題点としてあげている。
確かに専門的になるといろいろな点が議論にはなるが、谷沢氏は、大山説を、書誌学と藤枝晃の敦煌学と佐藤弘夫の『偽書の精神史』で補強していることを挙げておこう。
いうまでもなく『日本書紀』が成立したとき、それは書物の形式ではなかった。今でも何巻という言い方が残っているように、それは巻物の形式として完成された。
したがって写本とともに本文は自由につぎはぎされた。当然のことながら出版日も奥付もない。厩戸皇子が聖徳太子だというような注も自由に書き加えられるのである。
現在私たちが読むことができる『日本書紀』が成立当時のものかはわからないのだ。ここは谷沢氏の炯眼の独壇場と私は脱帽する。
聖徳太子に関わりがあるとされた釈迦像等も太子とは関係ないことが突きつけられた。
最後のよりどころとして聖徳太子の著作とされてきた『三経義疏』については、敦煌の莫高窟から同様なものが出土したという事実が、谷沢氏から最終宣告される。
法隆寺を挙げて聖徳太子に頌歌を捧げてきた学僧ならぬ政治僧・行信一党が、『義疏』なるものを聖徳太子にかこつけて持ち出したのは、まさに「千慮の一失」であった。
谷沢氏が指摘するように、彼らが中国の流布本の表紙を貼り替え、「『義疏』をもちだしたものだから、敦煌出土文書の検討でいっぺんにケリがつき、パックリ底が割れた」のである。
谷沢氏は言う、聖徳伝説に決定的な打撃を与えたのは、藤枝晃氏であり、トドメを与えたのが大山誠一氏で、先に紹介した本が出版されて今日まで足かけ七年しかたっていない。
谷沢氏の本は、まさに日本文明派に対する頂門の一針である。また谷沢氏の過去の言動に対す
る批判の書でもある。
谷沢氏自身が、『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』の百五頁から百八頁で、聖徳太子頌歌を捧げている。とくに百六頁には、「聖徳太子『三経義疏』は世界最古の学問書の一つ」との言葉が踊っている。
誠実な人物なら、今回の新書に、当然にもこの点自分自身恥ずべきことを書いてきたと自己批判を書くべき処である。
谷沢氏の心事を語れば、「新しい歴史教科書をつくる会」との確執が、『新しい公民科書』を巡って一層激しくなり、聖徳太子に関する堺屋太一氏との論争の過程で、聖徳太子像の再確立の必要性の自覚となり、それが契機となって「聖徳太子は実在しなかった説」の検討に、立ち向かわせたものであることは、想像に難くない。
その意味で、この本は二重の観点から読める本でもある。一読を勧めたい。