「重訳」について(【409】への返信:その5)
2054です。今回は晋書:武帝紀と四夷伝から考えてみたいと思います。
それぞれの原文は以下のようにあります。
武帝紀「泰始2年、11月巳卯、倭人来献方物」(泰始2年は266年)
四夷伝:倭条「泰始、初遣使重訳入貢」
伊藤氏は、この原文の解釈について、「泰始、初遣使重訳入貢」は「邪馬台国の台与(臺與)が晋に使いを送った」と解釈しています(参照:『倭人・倭国伝全釈 東アジアのなかの古代日本』鳥越憲三郎・角川ソフィア文庫)。
(伊藤氏の疑問提示:抜粋はじめ)
「東倭」が重訳を連れてきたのではなく、「台与が」というのが、素直な読み方。それに重訳を「通訳」としているが、ほかに用例があれば、納得しますが、よくわからん。
(抜粋終わり)
鳥越憲三郎は前掲書のなかで「邪馬台国の女王台与によるものであったことは確か」(電子書籍版:47/100%箇所)としています。しかし、本当に「邪馬台国」が送使したのでしょうか(私はそう思いません)。
まず、原文には主語が「倭人が」とあり、どこの国の誰かは明記していません。晋は倭国を独立国と認めていませんので、解釈が必要になります。この点、『冊府元亀』にも倭の女王が朝貢した(265年)とあるので、「台与が」と解釈するのは妥当です。しかし、これが「邪馬台国(の台与)」とする根拠はありません。武帝紀には「倭人」とあるだけです。
なお、重訳とは「通訳を重ねる」ということ。用例はいろいろあり、漢書·平帝紀には「元始元年春正月、越裳氏 重譯獻白雉一」とあり、「重譯」は使われております。これも通訳を重ねると読むのが通常です。貞観政要にも「絶域君長、皆來朝貢、九夷重譯、相望於道。」(誠道十七)とあります。
邪馬台国であれば重訳を連れずに朝貢できるはず。伊藤説が岡田説・下條説などと同様に、華僑説を前提にする場合、邪馬台国は華僑が支配者層ですよね?(解釈を間違っていたらすみません)。それなら邪馬台国では、重訳どころか通訳すら不要です。実際、邪馬台国の卑弥呼については、重訳を連れていったという記述はありません。しかし台与の送使は重訳を連れています。同じ邪馬台国であれば、それはおかしいように思います。
そして宣帝紀には、240年正月に、東倭重訳朝貢の記載があります。東倭であれば、重訳が必要で、女王国の場合は重訳がいません。したがって、晋書は邪馬台国と東倭を対比して使い分けていると解釈されます。
なお、鳥越氏の前掲書では晋書の説明箇所をみても宣帝紀への言及がありません。「東倭」は存在しないかのような扱いです。学会通説も似たようなものと私は推測しています。最新の伊藤氏のコメントでも東倭の存在に(学会を説得するような)根拠がないとしていますが、上記に述べた通り、中国正史上では十分、根拠が明示されていると私は思います(中国正史以外での根拠については別の機会にコメントします)。
一般的に流布されている考えからすれば、「あれ?おかしいな?」という異端な説を私はご紹介していると思います。伊藤氏におかれましては「学会通説で説明つかないときは、学会内外にこだわりなく、最も適切な見解を採用する」とのスタンスを取られるとのこと。少なくとも学会通説のおかしな点をご理解いただければ幸いです。
つぎに高句麗と倭国について、晋書がまったくの無視をしている点を取り上げたいと思います。(続く)