YOUは何しに魏にきたの?(【409】への返信:その4)

会員番号2054 投稿日:2024/12/06 18:12

2054です。

伊藤氏は最新の見解は過去と異なり「アップデート」がされているようです。その新伊藤説については別の機会に検討しようと思います。今回は、アップデート以前の見解(旧伊藤説とします)をご紹介し考察を進めていきたいと思います。

(伊藤氏の疑問提示:ここから)

239年に、邪馬台国が「親魏倭王」の金印を受けている。もう、倭国代表の指定は終わっているのに、240年に「YOUは何しに魏にきたの?」戦勝祝いなら、時機失してる。

(引用終わり)

238年6月に女王国は難升米を帯方郡に派遣し、238年12月には魏から詔書・金印などを下賜されています。そして再び240年正月に謁見した。旧伊藤説が述べているように倭国代表の指定は終わっているのですから、「YOUは何しに魏にきたの?」(意味ないよね?)ということになります。東倭の存在を前提にしない場合、ここから一歩も先に進みません。

しかし、実際には邪馬台国と東倭は同時期に存在し、同時期に送使しています。この使者送付の理由について、当時の国際情勢を踏まえて整合的に解釈するのが、本来の歴史学のはずです。

当時の東アジア情勢では、周辺諸国は魏の影響をもろに受けます。小林説が優れているのは、日本列島からの送使を「魏の内部問題」から説きおこしている点にあります。具体的には、明帝と司馬懿の権力闘争があり、その影響を受けた日本列島では、邪馬台国と東倭が別々に呼び寄せられる結果となったと考えられるのです。そして、明帝側と司馬懿側の両サイドが、邪馬台国と東倭にそれぞれを倭国代表と認めたのでしょう。

引用が長くなるので途中までにしますが、小林恵子の見解をご紹介します。

(引用はじめ)江南出身の卑弥呼と高句麗から来た神武(現代思潮新社p156~157)

卑弥呼が親魏倭王に任じられた直後の「魏志倭人伝」の正始元年(240年)条に、帯方郡の太守の弓遵が、帯方郡の使者に詔書と印綬や宝物をもたせて倭国に遣し、倭王に仮受させた。それに対して倭王は謝意の上表文を奉ったとある。この条の倭王も今までは卑弥呼と考えられてきた。しかし、卑弥呼はすでに魏王室から親魏倭王に任じられている。その上、帯方郡の太守から倭王に任じられたというのは重複にしてもおかしい。この倭王は先に述べたように、「魏志倭人伝」にある、243年に使者を送った倭王(=東倭)で、卑弥呼とは別人なのである。そして、この倭王も魏の都に使者を派遣したことは「魏書」ではなく『晋書』(帝紀一)にみえるのだ。

『晋書』(宣帝紀)には、正始元年(240年)正月条に、東倭重訳が使者を派遣して、中央アジアの焉耆(えんぎ)や東北方アジアの遊牧民鮮卑(せんぴ)と共に朝貢してきたとある。東倭とは初見だが、邪馬台国の別名ではなく、より東北にある列島内の一国の名前である。このことは同道の民族が中国東北方面の遊牧民鮮卑であることからも推測される。

240年正月朝貢といえば、彼らが倭国を出発したのは239年中だろうから、238年の邪馬台国の使者の直後に倭国を後にしたことになる。『冊府元亀』(外臣部 朝貢一)にも同じ記事がみえており、東倭重訳と倭国女王卑弥呼と対比させている。倭国女王と倭王は同一人物ではなく、弓遵が使者を派遣したのは東倭王だったのだ。東倭とは、九州の女王国より東北にある国、列島の日本海側の一勢力と考えられる。東倭の使者は、高句麗の領域に日本海側から直接上陸して、高句麗領内を通って魏の都に入ったようである。この時の帯方郡の太守弓遵には、卑弥呼の邪馬台国以外の列島の諸国とよしみを通じなければならない理由があった。(後略)(引用終わり)

2054です。魏志倭人伝の記述では、倭王と女王は使い分けられていますし、列島から派遣したであろう使者の名前もそれぞれ違います。また、彼らを呼び寄せた魏側の太守も別々です。そして晋書には240年の送使は東倭である、とあるのですから、これが全部1つの国=邪馬台国とみる必然性はない(むしろ疑問だらけ)と思います。

また晋書に「重譯」(重訳)とあり、その点について伊藤氏の疑義提示がありましたので、この点を次に取り上げたいと思います。(続く)