柿本人麿とは何者か、3
副島隆彦です。今日は2024年12月2日です。私がこの投稿文の冒頭に加筆します。 守屋健二君は、今後は、自分の投稿文を、ふじむら掲示板に載せなさい。そして他の人たちの投稿文と対等に議論しなさい。以後、重たい掲示板に書くことを、学問道場の先生である副島隆彦の権威で、禁じます。
守谷健二です。
ほぼ完全な形で奈良時代から現在に伝わっている書は四点ある。一は『日本書紀』、二は『万葉集』、三は『古事記』、四は『懐風藻』である。
内容的に、一、二、三は共犯関係にあり、四とは敵対している。
どういう事か解説する、一、二、三は天武天皇を正統化する観点で創られている。「壬申の乱(672)」の天武の決起を、正統な皇位継承者の正当な権利行使であったと書く。
それに対し四の『懐風藻』は、天武の決起を「乱」と明記する。
「乱」とは、欺くこと、下克上など世の秩序を壊す行為であり、正義・大義の行為ではない。
『懐風藻』は、天平勝宝三(751)年に成立した我が国最初の漢詩集であり、そこに載っている大友皇子(天智天皇の長子、壬申の乱で殺害)伝は
「・・・壬申の年の乱に会いて、天命を遂げず。時に年二十五。」と明記する。
『懐風藻』は、秘密の書でも禁書でもない晴天白日の下、正々堂々と今日まで伝えられて来た書である。それが天武の行為は「乱」であったと云うのである。
日本人は、『懐風藻』の言い分を認め、平気で「壬申の乱」と呼び、天武の正義を否定してきた。
『日本書紀』『万葉集』『古事記』には、天武の決起を「乱」などとは一言半句も書かれていない。
これは何を意味するのか、奈良の王朝(天武朝)には、二つの対立する勢力が存在した、と言う事だ。天智系勢力と天武系勢力が深刻に対峙していた。
この対立は、奈良時代の末期、皇統から天武の血の完全排除という形で決着を見る。
平安王朝は、天智天皇の血の完全復活と云う形で開始されている。
この意味でも「古事記偽書説(平安時代に編纂されたとする)」は成り立たないのである。『古事記』は、『日本書紀』『万葉集』と共犯者であり天武天皇を正統者とする立場に立っている。
平安時代は、天武の決起を「乱」とする立場である。
つづく