「東倭」とは、卑弥呼を共立した国のいずれかの可能性がある、と考えられる(伊藤ファンタジー)
伊藤睦月です。2054さんの投稿にあった「東倭」についての、考察を加えます。(基本、伊藤独自説、ファンタジーなので、お気楽に)
(1)「東倭」の朝貢は、宣帝(司馬懿)本紀に記載されているので、おそらく事実であろう。(邪馬台国卑弥呼の朝貢とならんで、司馬懿の業績の一つと認定された)
(2)しかし、邪馬台国に対する取り扱い(待遇)と東倭に対する取扱いは明らかに差がある。
①邪馬台国は、「親魏倭王」の金印を皇帝から、(使者に対し)親綬されているが、東倭の使者の対しては、出先機関の帯方郡太守から「辞令」を渡されただけ。明らかに両者の待遇に格差がある。
➁中国正史には、邪馬台国に関する記事を別に紹介している(倭人伝)が、東倭にはそういう記載がない。
➂また、中国正史には、邪馬台国のトップの名前(卑弥呼)が紹介されているが、東倭には王名不詳であり、地理的情報など、朝貢の具体的状況の記載もない。
(3)以上から、当時の中国王朝からは、邪馬台国と東倭とは、倭エリアにおける同等の存在とはみられていない。むしろ邪馬台国の勢力下にある国だとみなされたと思われる。
(4)そうであれば、候補国としては、魏志倭人伝に記載された邪馬台国の周辺国(20くらい)のいずれか、で日本海側から、使者が出せた国(玄界灘~朝鮮南西部経由は邪馬台国が押さえていたはず)
(5)邪馬台国の朝貢使は、238年、東倭の朝貢使は、240年に魏都にたどり着いているから、東倭は邪馬台国からみて東側(日本海側)にある、邪馬台国の服属国。
(6)出雲王朝であったとか、後年のヤマト王朝の勢力なのかはよくわからない。当時の卑弥呼を共立した国の地理的範囲による。(南の狗奴国については記載はあるが、東側の「敵対国」については記載されていないので、そんなに脅威がある勢力がいないか、いても無視できる程度のものであったと思われる。
(7)では、なぜ東倭の使者が魏に派遣されたのか。これは「指名権争い」であろう。238年以前は、遼東を支配した公孫淵の「燕」が設置した「帯方郡」に使者を派遣していたが、燕の滅亡に伴い、燕の帯方郡が消滅したので、直接魏に使者をだすことができるようになった。(ここまでは、西嶋定生の見解)
(8)そこで、東倭は、邪馬台国を出し抜き、先に使者を出して、魏皇帝から、倭国エリアの代表として公認されれば、倭国貿易の窓口(岡田英弘説)としての利権を支配できる、と考えたのではないか。
(9)しかし実際は、東倭の使者は邪馬台国に2年遅れで、魏都に到着した。宣帝本紀に記載されているので、出先の帯方郡ではなく、魏都には、到着したのであろう。
(10)魏皇帝側としては、邪馬台国につづき「東の大国」が朝貢してきたことを歓迎したが、金印をわたせず、倭国王の辞令しかわたせなかった。金印でなければ、辞令の重複などそれほどこだわらなかったのであろう。(後年の王武も辞令だけで金印をもらっていない)しかも、皇帝から直接ではなく、帯方郡に戻らせて、帯方郡太守から、渡す形式となった。これを「たらい回し」という。
(11)その後、東倭の「辞令」は、「親魏倭王」の金印の前では、地元(倭国エリア)で優位性が周囲や取引先の華僑から認められなかったのだろう。もしかしたら、倭国エリアに戻ってから捕縛され、辞令は没収された可能性もある。関係ないふりをしたことも考えられる。
(12)その後は、「東倭」からの使者が魏に届くことはなく、中国正史に記載されるほどの活動ができたかどうかは、わからない。卑弥呼死後の「第2次倭国大乱」における役割やその後の「邪馬台国東遷」との関係もよくわからない。
(13)なお、下條説『卑弥呼は、魏皇帝とも姻戚関係にあった、五斗米道の一族の姫君「張玉蘭」』である、という説については、検証するすべを持たないので、賛否は保留する。
(14)なお、岡田英弘説では「冊封体制」という学会通説のコンセプトを認めていないので、(『歴史とは何か』)岡田説に言及する場合は注意が必要。
以上、現時点(2024年11月30日)での、私の見解です。
伊藤睦月筆