日本古代史備忘録(7)東大教授による大山誠一’「聖徳太子は存在しなかた説」批判

伊藤 投稿日:2024/11/13 16:58

 伊藤睦月です。先に予告していた、東大教授による、大山誠一批判文の一部を紹介します。筆者の大津透氏は、『日本史の現在2 古代』(山川出版社)の編者です。この本は山川高校日本史に掲載されている論点について、若手研究者(将来の教科書執筆候補者)が最新の学説の状況と今後の展望を描く、という趣向の本、(考古から近現代まで全6巻)問うことは、近い将来、本書における議論を踏まえて、教科書が書き直される、かも・・・という論文集です。

 大津教授の大山誠一批判は、第2巻古代編のあとがきに5頁にわたって書かれていますが、冒頭の1頁強を引用します。少しでも読みやすくするために、小分けにして番号を振ってます。あえてコメントや注釈はつけません。各人各様の感想はあると思いますが、とにかく、現役の学者先生たちが、大山誠一の見解の何を問題にしているのか、ある程度はわかると思います。では・・・

(1)執筆者が得られず、残念ながら立てられなかったテーマがある。それは聖徳太子であり、なぜ近年の高校教科書では、「厩戸王(聖徳太子)」と表記するのかという問題がある。

(2)筆者(大津)は専門ではないが、少しだけここで触れておきたい。

(3)そもそもは、大山誠一氏が『聖徳太子の誕生』(吉川弘文館、1999年)などにおいて、「聖徳太子は存在しなかった」と論じたことに始まる。

(4)法隆寺金堂釈迦三尊像と薬師如来像の後背銘、天寿国繍帳などは、天皇号(天武朝成立とする)がみえることから、推古朝の史料として使えず、

(5)『日本書紀』に記される聖徳太子の事績も、奈良時代に道慈(どうじ)によって捏造されたものだとする。

(6)聖徳太子の事績とされるものはすべて創作で、

(7)偉大な政治家・文化人である太子は実在せず、

(8)厩戸皇子(うまやどおうじ)という王族がいただけであり、

(9)斑鳩寺(いかるがでら)くらいしか事績はないとした。

(10)そこで、聖徳太子の本名である「厩戸王」を用いる方が学問的に見える。

(11)確かに一度それまでの歴史観を否定するのは意味があるが、

(12)聖徳太子はいなかったという全面否定的な議論には批判も多く、

(13)議論に根拠があるかは個別の史料の検討が必要であろう。

(14)又問題なのは、教科書で「厩戸王(聖徳太子)と記すと、「聖徳太子は存在しなかった」との説を認めているようにみえることにある。

(15)確かにかつて推古朝は、天皇に代わって摂政となった聖徳太子の政治といわれ、

(16)遣隋使など外交を主導したとされてきたが、

(17)現在では、聖徳太子がどこまで政治を主導したかは不明で、

(18)推古朝の政治は蘇我馬子が中心か、馬子と太子との協調だろうといわれている。

(19)ただし憲法17条については、「皇太子自らはじめてつくる」と聖徳太子の作だと『日本書紀』は記す。

(20)その捏造説に対しては、曽根正人氏が反論し、

(21)推古朝のものとして整合的だとしている。(『聖徳太子と飛鳥仏教』吉川弘文館2007年)

(22)そして教科書では、604年に憲法17条が定められたと明記するので、「厩戸王」とする記述と矛盾するようである。

(23)聖徳太子とは、聖人の徳を備えた皇太子の意味である。

(24)皇太子制はもっと後の時代にできた制度だから、「太子」は存在しないとの議論もある。

(25)しかし、吉村武彦氏は、『隋書』倭国伝に「太子を名付けて、ワカミタフリとなす」とあることから太子の存在は疑いないとする(『聖徳太子』岩波新書。2002年)・・・以下省略

(以上引用終わり)

伊藤睦月です。どうです。感想、意見は各自さまざまでしょう。私は、個人的には「岡田英弘先生をえこひいきしたい人」なのだが、副島先生の「議論とは自分の弱点を徹底的に考えることである」(覇権アメ第4章)、「相手の立場にたって物事を考える」(『法律学の正体』)という掟に縛られているので、どうしても逆の立場で考え、議論してしまう。かなりめんどくさい奴だな。とわれながら思いますが、もうこれは死ぬまで治らないでしょうな。

以上、伊藤睦月筆