日本古代史備忘録(6)結局、魏志倭人伝では、邪馬台国の場所はわからない(3)「なんでやねん」とツッコミいれるのが正解の副島隆彦、岡田英弘説

伊藤 投稿日:2024/11/13 05:12

 伊藤睦月です。只今、2024年11月13日4:12です。今日病院の検査結果がでるためか、早起きしてしまいましたので、続きを書きます。まずは、副島隆彦説から。

(1)副島先生は郷土愛丸出しの「どう考えても北九州説」です。理由は「どう考えても」です。と真面目に書きましたが、この副島先生渾身(こんしん)のボケに「なんでやねん」と突っ込みを入れてあげるのが、先生に対する礼儀というものです。

(引用開始)

 私、副島隆彦は、「どう考えても」子の邪馬台国(倭国)は北九州のあたりだと考える。今の福岡市そのものだ。私は福岡市で生まれ育った。邪馬台国(すなわち倭国)は、紀元前100年から紀元後663年(白村江の戦いで大敗した)まで存在しただろう。今の日本国民の多くも、邪馬台国は「どう考えても」九州の北のあたりだと思っている。(引用終わり。『副島隆彦の歴史再発掘』251頁)

 伊藤睦月です。この「どう考えても北九州説」の副島先生は、自説に続いて、岡田英弘説を紹介している。副島先生によると、「彼は邪馬台国は今の下関だったのではないかと「も」書いた」とあるが、これを真面目に受け取ってはいけない。岡田説は、「要するに、卑弥呼の都がどこにあったのかはわかるはずはないのである」説だ。

(引用開始)「魏志倭人伝」は、その成立の事情からして、またそれが利用したもとの史料の性質からして、三世紀の日本列島の実情を正直に伝えたものでなく、したがって『魏志倭人伝』の文面だけでは邪馬台国の位置を決定できない。・・・「要するに、卑弥呼の都がどこにあったのかは、わかるはずがないのである」「しかしそう突っ放しただけでは、あまりに愛想がないので、どうせ頼りない結論であることは承知のうえで、邪馬台国がどのあたりにあったのか、だいたいの見当だけでもつけてみよう」(引用終わり。『日本史の誕生 ちくま文庫版』58頁)

 伊藤睦月です。そして岡田先生が出した「頼りない結論」が「山口県下関市(関門海峡付近)」であるというものである。正確には「瀬戸内海西部の沿岸のどこか」である。ここで、われわれは、思い切って椅子から転げ落ちてみせないといけない。そうしないと岡田先生、逆切れされるかもしれない。しかも、ご丁寧にも、「隋書倭国伝」の裴世清(はいぜいせい)の来日行程にでてきた「秦王国」という華僑の大集落こそ、邪馬台国の都だったと断定している。あれ、「頼りない結論」じゃなかったのかしら。「なんでやねん!もうやってられへんわ!」

 伊藤睦月です。副島、岡田両先生が主張しておられるのは、要するに本稿の表題どおり、「結局、魏志倭人伝では、邪馬台国の場所はわからない」でした。以前紹介した、台湾、いや中華民国の謝仁銘先生と、結局は同じことである。世界基準の学問からは、邪馬台国論争なんて、この程度のことだ、という、我々副島ファンにとっては、いつもの結論、でした。下條さんもお疲れさまでした。白鳥庫吉先生、内藤湖南先生たち諸先生方も、泉下で苦笑いするしかないだろう。いや新聞記者あがりの、内藤先生だったら、破顔一笑、やっとここまでたどりついたか、と大笑いされているかも。

以上、伊藤睦月筆

追伸:それでも、邪馬台国の場所を真面目に追求しておられる方々もいらっしゃるようなので、次回はそれを紹介し、併せて、私の「頼りない結論」を紹介する。「そんなんいらんわ!」とツッコミ入れるのはご容赦くださいませ。