中国から相手にされなかった、「日本国は倭の別種なり」

伊藤 投稿日:2024/07/05 14:54

伊藤睦月です。今回は中国正史から見える「属国日本」のすがたを取り上げます。まず、今から引用する史料にご注目ください。

(1)倭国は・・・「魏志」に謂う所の邪馬台(やまと)なる者なり。(「隋書東夷倭国」)

(2)倭国は古(いにしえ)の倭の奴国なり

             (「旧唐書東夷倭国」)

(3)日本国は、倭国の別種なり。・・・「日本、」古くは小国なれども、倭国の地を併せたり」と。

その人、多くは自ら大を誇り、実をもって応えず。故に中国はこれれを(どこまで真なりやと疑う)

(「旧唐書東夷日本))

(4)日本は、古(いにしえ)倭の奴なり。・・・「日本はすなわち。小国にて倭の併(あわす)ところとなる」と。使者は情をもってせず(真相を語らず、)、故にこれ(使者の説明)を疑う。(新唐書東夷日本)

(5)日本国は、本倭の奴国なり。

             (「宋史外国日本国)

(6)日本国は東海の東にあり。古には倭の奴国と称す。(「元史外夷日本」)

(7)日本は、古の倭の奴国なり。

              (「明史外国日本」)

(8)伊藤睦月です。魏志倭人伝以降晋書~隋書まで、中国は倭国を邪馬台国(親魏倭王)の末裔とみています。

(9)そして、旧唐書倭国では、倭の奴国(漢委倭国王)の末裔。という見方に変化

(10)旧唐書日本では、「倭の別種」にさらに変化。

(11)しかし、「新唐書日本」では、奴国の末裔に戻り、以後、宋史、元史、明史、と続きます。私伊藤は。これはなにかある、と思い至りました。伊藤ファンタジーの始まりです。

(12)伊藤睦月です。中国正史の我が国の分は、いわば自己紹介文、であり。中国側からみれば、こちらの国情(地理、人口、習俗、歴史など)を記したインテリジェンスリポート、でもあります。

(13)ところで、我が国を紹介するときの一番手っ取り早い方法は。中国側も知っている、過去の例になぞらえて、「あのね、日本はね、昔は奴国という国だったんだよ」と説明する方法です。これは、今でも、個人でも会社でも役所でもよく使われる手法だと思います。

(14)しかし、問題は、中国側が「奴国」をどう認識しているか、です。「漢委倭国王」つまり中国の属国、という認識です。日本=奴国=属国日本、です。

(15)それでは、隋書までは「親魏倭王」なのに、いつの間に「漢委倭国王」にすり替わったのか。

(16)そうです。旧唐書日本からです。直前の倭国では、「奴国」の末裔だと認めていたのですが、「日本」になると「別種(別の血筋、別系統、無関係)」とおそらくは、白村江以後最初の遣唐使である、粟田真人あたりが、中国側に、上表文か何かで主張したと思います。中国側は、それを一旦は受理した。

(17)中国側は、いったんは受理したが、「日本が倭国を吸収したのだ」という主張したときに、「ほら吹き」だと、怪しまれ、信用されず、結局は、「やはり、奴国の末裔、俺たちの属国なのだろう」ということになったと思います。

(18)伊藤睦月です。この「別種」という考え、実は副島説(倭国=山門国(大和王朝)+倭国(九州王朝)と親和性が高い。「我々、山門国は、奴国の末裔とは全く関係なく、別種の独立した存在。そして奴国の末裔を併合した、全く新しい、統一政権です。だから対等につきあいましょう」と言いたかったのでしょう。心の中では。実際は、こちらの言う通りなのに。それを信用してもらえない。粟田真人は心折れたと推察します。

(18)逆に、日本ではなく、奴国が日本を併合したのだろう。お前たちは本当は倭国(奴国)なのだろう、と逆のことを言われても、「真相を語らない」ので、ますます信用されなくなった、と「新唐書日本」に記されてしまいました。(これを「公開処刑」といいます)

(19)伊藤睦月です。せめてもの矜持は、朝貢はするが、柵封は受けない、ということでした。しかし、中国側からは属国扱いされる。やせ我慢の始まりです。そして、政治外交よりも、留学僧や留学生による、仏教を含む、中国文明の受け入れ作業にシフトしたのではないかと思います。

(20)これが北宋時代になると、留学生もやめて、留学僧の学術交流と民間レベルの経済交流だけになってしまう。このあたりの状況を河上麻衣子は、その著書のなかで、もう少し上品に語っています。

(20-1)河上は言います。「中国に使いを出した時点で、何を主張しても、中国側から、朝貢した、柵封体制に入った、と受け取られる。これを日本はどうすることもできなかった」(伊藤による敷衍、まとめ)

(21)そして、蒙古襲来という、貿易圧力(開国要求)があり、倭寇による一時的反抗を経て、ついに、明から武家が柵封を受け、貿易交流をはじめます。

(22)しかし、その間、ずっと中国歴代王朝は、日本を朝貢国(すなわち属国)として、扱い続けます。日本も琉球王国を仲介にするなどして、やせ我慢を続けます。この我慢大会は、明治30年代まで続きました。

小休止。ファンタジーが続きます。

(以上、伊藤睦月筆)