ブレイク①(7月5日)古代の地理を現代に当てはまると、間違える

伊藤 投稿日:2024/07/05 10:26

伊藤睦月(2145)です。今日は地理の話から始めます。

白村江関係、、斉明天皇が飛鳥から移ってきた、「朝倉宮」について、ときたま、「内陸部すぎて、連絡、移動が不便。なぜそんなところに行宮(あんぐう)をおいたのかわからない」といった指摘が、見られます。これをみて、ああこの人、、現場を知らず、現場に行ってもピンとこないセンスの悪い人だと思います。地元民として少しざわつきます。

(1)まず、朝倉宮ですが、現在の地図で見ると、福岡県内陸部で、所謂農山村地域ですが、当時は様相が違います。まず7世紀当時の地理環境について、説明します。もうわかっている、という方はスキップされて結構です。

(1-1)、現在では、福岡市の天神、中洲、博多といった繁華街の大部分は海面下でした。開発されたのは、江戸時代以降です。

(1-2)当時の博多平野の海岸線は、現在より数キロ南にあり、満潮のときは舟で大宰府の付近まで行けました。つまり、そこまでは、いわゆる海抜ゼロメートル以下の干潟で、ところどころ、高台になってて、高台をつなげるかたちで、居住地や連絡通路を整備していました。白村江の戦後対策で「水城」が建設されますが、それが、現在の視点からみてかなり内陸部にあるのは、そこまで海水がきていた、ということです。(ということはあまり米がとれなかったのでは?)

(1-2)博多湾は今よりもっと南にえぐれた地形だったのですが、博多湾のほぼ中央から東寄りには、堰堤(えんてい)のような高台がありました。そこが船着き場になったり、取引市場、宿泊施設、商人(華僑)の活動拠点などが設置されていました。これが、「博多の街」です。現在ですと、栄西が建立した日本初の禅寺(承天寺)や櫛田神社がありますが、その周辺が船着き場と華僑の町でした。

(1-3)また博多湾のほぼ中央よりに、政府系の「鴻臚館」(こうろかん)という迎賓館をつくり、大濠公園の裏の水路を船で、太宰府政庁までいくことができましたが、それは奈良時代以降の話です。当時のメインの移動手段は、陸上ではなく水上です。これは、大和でもどこでも、主要都市はそうでした。

(1-4)イメージ的には、大阪の上町台地、徳川家康が江戸入府時の神田山とか日比谷、浅草あたり、といえば、わかってもらえるでしょうか。

(1-5)当時の移動手段のメインは水上でしたが、あとは山道も移動につかわれました。当然街道として整備されていませんから、登山道や獣道(けものみち)のようなものでした。

(1-6)また、当時の低湿地帯は、高温多湿で、感染症や病害虫が多く、とても住めたものではなかったようです。今でもベトナム南部とかカンボジアとかインドネシアのデルタ地帯とあまり変わらなかったと思います。

(1-7)また、米作も当時はいわゆる湿田、半湿田で、収穫量が低く、農山地域のいわゆる棚田が収穫の中心でした。現在のような乾田が普及するのは、灌漑技術が発達した、戦国末期から江戸時代以降だ思われます。

(1-8)しかも平野部は、守りにくく、攻めやすいので、平野部に拠点をおくことはせず、山間部か、それを後背地にして、拠点が作られました。これは全国どこでもそうです。戦国時代の山城のイメージです。

(1-9)そこで、やっと朝倉宮です。ここは、太宰府近辺の筑紫平野と筑後川河畔の筑後平野を分ける「へそ」の位置にあり、両方ににらみをきかせる戦略上の要地です。また後背地の山地から峠一つ越えると、嘉麻平野、筑豊平野が広がり、古代から屯倉(みやけ)が設置されてありました。屯倉は天皇家直轄の食料、物資貯蔵基地にことで、それだけ豊かな土地だったことがうかがえます。万が一の時は、峠を封鎖して、嘉麻に立てこもれば、十分防衛できるところです。

(1-11)また嘉麻平野からは、遠賀川を下って、今の北九州市の西北部、芦屋の港にでて、関門海峡を経て、瀬戸内海に入り、飛鳥へ戻ることもできました。斉明天皇や中大兄皇子たちは、このコースを使って大和と朝倉宮を往復していたと思います。

(1-11)また朝倉から筑後川沿いに川を下れば、有明海に出ますし、上流に向かって山道をたどっていけば、日田盆地(大分県)にでて、木材(軍船の原材料)が豊富なことから、九州全体を押さえる要地とされ、後年江戸時代には、天領となり、「九州郡代」がおかれます。

(1-12)また、当時メインの連絡手段は、「狼煙」(のろし)でしたから、博多湾とかの海岸部への連絡も、当時としては、それほど支障はなかったと思われます。

(1-13)そういった観点からすれば、朝倉宮は、内陸の僻地ではなく、7世紀当時のメインストリートで行宮(あんぐう)の場所としてベストチョイスだったことがわかります。古代人、なめるな、です。

(1-14)ついでに他の行宮もみておきましょう。

「那津宮」、これは今の福岡市東区香椎の近辺に広がっている、干潟であり、現在でも「那の津」という地名がのこっています。「津」というくらいですから港湾施設があったと思われます。

(1-15)場所的には、香椎宮という仲哀天皇と神功皇后を祭神とする神社が、JR香椎駅近辺にあります。仲哀天皇が不審死したと伝えられる行宮の跡が残っています。そこもしくは近辺に那津宮があったと思います。

(1-16)この香椎宮参道の入り口が当時の海岸線で、明治時代まで、そこから先は海だったそうです。神功皇后は、神託に従って、その海岸べりに立ち遠くをみても、新羅の島影もなく、仲哀天皇が神託に疑問を持ち、それがために不審死してしまう、というエピソードが日本書紀にあります。

(1-16)さらに香椎宮の裏山から、3,4キロほど山道をさかのぼれば、「宇美」(うみ)という当時の穀倉地帯にでます。今はJRが通って、福岡市のベッドタウンになっています。宇美には「宇美八幡」という神社があり、神功皇后が、新羅からの帰還後、応神天皇を産んだところ、とされ、この神社のご神体は、応神天皇の「へその緒」を収めた古墳です。

そのせいか、宇美八幡は、安産の神様として、地元の人々で、いつもにぎわっています。

(1-17)繰り返しになりますが、当時のメインロードは、内陸部、今でいう筑豊平野、遠賀川沿いであって、現在の海岸沿いではありません。江戸時代に長崎と関門海峡を結ぶ「長崎街道」という、九州北西部の諸大名が参勤交代するときの宿場街道がありますが、それも、福岡県内陸部に整備されていました。オランダや朝鮮の使者、坂本龍馬や幕末の志士たちもみんな、内陸部を移動していたわけです。最後は観光案内風になってしまいましたが、福岡に限らず、歴史地理をチェックする際には、注意したいところですね。

(以上、伊藤睦月筆)