【525】(522)「それでも学会新説に突っ込みをいれてみる」の続きをやります(その2)(7月4日)

伊藤 投稿日:2024/07/04 13:37

伊藤睦月です。

(2)劉徳高、郭務棕の来日目的

(2-1)通説は、来日関連記事を並べるだけの、日本書紀の記述をあげるだけで、沈黙。

(2-2)副島説では、新羅が離反(どんでん返し)したので、今度は、倭とつきあおうとして使者を派遣してきた、といことになる。

(2-3)伊藤説は、副島説の「つきあう」を唐から倭(大和王朝)への「朝貢のすすめ」と解釈し、唐が、新羅から倭(大和王朝)へ「すりよってきた」と表現したら、2054さんが反応したらしい。

(2-4)また、伊藤説は、関裕二説の余豊璋=藤原鎌足説を採用し、当時行方不明(日本書記では、高句麗逃亡とされているが、中国側資料では、行方不明、とされている。ちなみに例の小林恵子も、余豊璋がその人生の大半を倭で暮らしていることから、余豊璋、倭逃亡説を支持しているそうだ)であった、白村江の主犯余豊璋と共犯中大兄皇子の捜索、捕縛協力依頼(という名の命令)と推理している。(目の前の天智天皇や藤原鎌足が、実は捜索相手だと気付いたので、大人数部隊で再来日したが、無駄足に終わった)

(2-5)中村説では、唐は倭(大和王朝)への新羅、旧百済、耽羅、との講和条約(事実上の降伏勧告いや命令)締結勧告(という名の命令)

(2-6)唐進駐軍への物資(武器、食料、金品、女)の供出

(2-7)唐の諸制度を取り入れる、制度改革要求

(戦後の、降伏文書調印や、いわゆるマッカーサー勅令の受け入れ要求のようなもの)

(2-8)交渉相手は、九州の那津宮で敗戦処理にあたっていた、中大兄皇子。そのめどがついて、中大兄は大和に引き上げ、唐軍の大和占領により、近江京に封じ込められた。(通説、副島、伊藤、岡田説と真逆の見解)

(3)665年の新羅、百済の講和条約(降伏文書)に倭も参加したか。

(3-1)通説(日本書記に準拠)、副島説は言及無し。中村説は、調印し、翌年正月の封禅の儀に、劉仁軌に連れていかれた。

(3-2)中村説は、封禅の儀に列席したのが、「倭の酋長」とされていることから、倭の国王クラス、大友皇子が、熊津城で、新羅や百済、耽羅(済州島)らとともに、調印し(懐風藻の記事はそのときのことだとする)、その帰りに封禅の儀に列席した、としている。上記2の立場からすれば、当然の帰結。

(3-3)伊藤説は、調印していない、説

(3-4)理由は中国正史に明記されていないから。日本書紀が、明記していないのは、国辱的内容だから、記載しなかったかもしれない。

(3-5)しかし、中国側の史料(旧国書劉仁軌列伝)は隠す動機がない。それどころか、もし、調印されていたら、劉仁軌の功績なので、明記しないわけはない。

(3-6)中村説は、唐の「羈縻政策(異民族間接統治方式)」の実施を重視する立場。

(3-7)確かに旧百済の皇太子に、「熊津(百済の本拠地)都督」の官職、のちには「帯方郡主」の官職を与え、「羈縻政策」を実行しようとしているが、(新羅の離反で成功しなかった)倭に対してはそういう、天智天皇に官職(倭国王とか)を与えた中国側記事はない。封禅の儀に連れて行った、というだけ。

(3-8)それでも、倭が封禅の儀に列席した、劉仁軌が倭を連れてきたことは、朝貢させたのと同じだから、唐高宗皇帝は、大層喜んで、劉を昇進させたらしい。

(4)封禅の儀に列席した「倭の酋長」(旧唐書ほか)は何者か。

(4-1)通説は明言しないが、665年に劉徳高たちに同行した、守君大石、としているようだ。

(4-2)副島説では、白村江の敗戦で連行された、「倭国王」としている。

(4-3)中村説では大友皇子。

(4-4)伊藤睦月です。まず、「酋長」は大友皇子という見解は支持しがたい。なぜなら、中国側の記録に固有名詞が一切ない。新羅と百済の代表者は固有名詞が出ているのに、耽羅と倭の代表者は全く出てない。大友皇子が列席しているのなら、必ず固有名詞がでるはずだ。

(4ー5)また、敗戦国の皇太子なら、そのまま人質に取られても文句は言えない。天智天皇がそんなリスクをとるとも思えない。

(4-6)もし大友皇子が訪中したのなら、当時の「羈縻政策」のセオリーどおり、なんらかの官職(倭国王、とか飛鳥都督、近江将軍、とか)が与えられてもおかしくないが、それもない。訪中して皇帝に気に入られた者は、ほぼ例外なく官職もしくはそれに準ずるもの(紫衣など)を与えられている。大友皇子だけ辞退できた、とするのも無理がある。

(4-7)伊藤説は、通説と同じく、「守君大石」が列席したと考える。

(4-8)そもそも、「倭国王」の名前が、中国正史に一人も出てこない。通説、小林説では、倭=大和王朝、という立場から孝徳、斉明、中大兄皇子(称制)とするが、それなら、唐は倭に打ち勝ったのだから、明記すればよい。

(4-9)

白村江の戦いでよく「唐・新羅連合軍VS倭(日本)・百済連合軍」という言い方をするが、唐、新羅。百済の主要参加者は固有名詞で出ているのに、倭国だけ「倭人」とか「倭」とかしか標記されないのは、不可思議。

(4-9)倭は全滅したから名前が残っていない、といのもおかしい。なぜなら、日本側の記録(日本書記)にはある程度書かれているし、全滅と言っても千人単位の捕虜が発生している。その中には「筑紫君」のようなかなり高位の者もいるから、中国側が倭王や将軍たちの名前がまったくわからない、ということはありえない。

(4-10)もっと言えば、「唐・新羅連合軍」という表記も正確ではない。唐側には、旧百済皇太子扶余隆も百済人部隊を率いて参加しているし、新羅は将軍を派遣しただけで、軍勢は参加していない。

(4-11)だから、白村江で戦ったのは、唐劉仁軌軍(軍船170艘、8千相当)、百済扶余隆軍(兵数不明、1万以下か)、新羅軍(数千人相当、将軍20人強×200人)VS旧百済余豊璋軍(倭からつけられた親衛隊5千)、倭援軍2万7千(軍船400艘相当)、と推測します。ほかに九州に残った中大兄皇子親衛隊1万。数的には、旧百済、倭軍の方が多そうですが、660年の百済滅亡の時は唐は12万出したから今回もそれぐらいはいただろうとか、高句麗のときは30万だったもんね、という論が学者間で飛び交っているようです。

(4-12)伊藤睦月、です。私は、唐軍は一番少ない兵数だったと思います。理由は、①唐にとっては、白村江は、660年に百済を滅した後の掃討戦、という位置づけだったこと、だから大軍派遣が許されなかったこと、

②劉仁軌の用兵が巧みだったこと

③反面余豊側の戦略的、戦術的ミスが目立つこと、を根拠とします。(煩雑になりすぎるのでここでは説明しません。機会あれば。)

(4-13)伊藤睦月です。倭軍が、数からいってメインであったにも拘わらず、中国側資料に固有名詞が残っていないとすれば、唐軍からは、連合軍(主敵)として認知されていない、ということであり、その通りであれば、「倭国軍」は、存在せず、倭人で構成された傭兵部隊のような存在であったと考えざるを得ません。「連合軍」というのは、はっきり言って日本側の「自意識過剰」と思います。

(4-14)伊藤睦月です。封禅の儀に列席したした、「倭の酋長」とはなにものか、というと、劉仁軌が自分の功績を強調するために、白村江生き残りの将軍、守君大石を「倭の酋長」に仕立て上げて、列席させた、と考えています。なにせ、野蛮人の酋長だし、言葉も通じない、たぶん漢文書けない。将軍だから、それなりの風貌もあったでしょう。

(4-15)伊藤睦月です。白村江の戦は、旧唐書劉仁軌列伝に掲載され、高宗本紀には出てません。高句麗滅亡は、高宗本紀に掲載されている。つまり中国皇帝の実績ではなく、せいぜい家臣の功績、それも白村江の戦いの勝利よりも、封禅の儀に新羅、旧百済、耽羅、倭、の「酋長」たちを列席させたことの方が、評価高いと思う。そろそろ、「魔法」から覚める時だ。

(以上、伊藤睦月筆)