そろそろウォーミングアップ(6月30日)としての補足説明(封禅の儀、唐の「すりより」について)
伊藤睦月です。「副島歴史テーゼ」を展開するにあたって、学会通説と少数説(有力な反対説)をチェックしておこう。対象となる文献は、次の2冊。
1 「古代日中関係史」川上麻由子著、中公新書 2019年
2 「天智朝と東アジア 唐の支配から律令国家へ」中村修也著 NHKブックス
2015年
それぞれ、どんな主張をしているのか。帯カバーのコピーをとりあえず、引用する。
(引用はじめ)
1 「古代日中関係史」 日本は対等を主張し続けたか。
宋(南北朝:伊藤)、隋、唐、五代十国に日本は何を求めたのか
607年、日本は隋の煬帝に「日出る処の天子」で名高い書状を送る。以後、対等の関係を築き、中国を大国とみなすことはなかった・・・。こうした通説は事実なのか。日本はアジア情勢を横目に、いかなる手段・方針・目的をもって中国と交渉したのか。本書は倭の五王の時代から、5回の遣隋使、15回の遣唐使、さらには派遣後まで、500年間に及ぶ日中間の交渉の軌跡を実証的に、「常識」に疑問を呈しながら描く。
2 「天智朝」と東アジア 唐の支配がもたらした律令国家への道筋とは?
もう一つの「占領下」を描く
古代東アジアに起こった一大戦役・白村江の戦。通説では、唐・新羅連合軍に敗れた日本は以後、唐の律令に学び、国家体制を整備していったと言われる。だが、この通説は果たして本当か?敗戦国の日本が、唐の支配を全く受けずに友好関係を保つことが可能だったのか?
本書は、中国・朝鮮側の史料、最新の考古学の知見、古今東西の「戦争」における常識など、多角的な視点から「日本書紀」を再解釈。白村江後に出現した唐の日本「支配」の実態、さらに、それがのちの律令国家建設に与えた影響を鮮やかに描く。(引用終わり)
伊藤睦月です。岡田英弘が「日本史の誕生」所収の諸論文で「世界史からみた日本」の視点を打ち出したのが1970年代。副島隆彦先生が、「属国日本論」を提唱したのが、1995年前後、岡田説から50年、副島説から30年、やっとここまできたか、時代が副島隆彦においついてきた、と感慨にふけっている場合ではない。彼らは「属国」というキラーワードを使わずに、自説を展開している。実際、彼らの参照文献には、岡田や副島先生からの引用が全くない。(その間の事情をあれこれ詮索はあえてしない)そこで、副島学の成果の一つである、「属国」ワードを十二分に活用しながら、この2作をチェックしていく。
その前に、「日中関係史」に関する、私、伊藤の現時点での見解を示す。上記2書をチェックするなかで、若干の修正、はあるかもしれないが、大筋では変わらない、と思う。
(伊藤説)
702年の第7回遣唐使(粟田真人)以来、日本はなんとか唐と対等の外交関係を結ぼうとしたが、失敗。それ以降の各王朝からも相手にされず、国内的には、対等であるふりをして、特に武士階級から利用された。両者が対等の関係になったのは、形式的には、1871年「日清修好条規」、実質的には、1895年、下関条約(日清戦争に勝利)のとき以降である。
伊藤睦月です。上記の議論に行く前に、守谷君や2054さんからあった指摘について、補足説明をします。(暫時休憩)
(以上、伊藤睦月筆)