「晋書」について:小林恵子のファンタジー爆発につっこみを入れてみる

伊藤 投稿日:2024/06/26 20:49

伊藤睦月です。2054様が、ご提示いただいた、小林恵子+井沢元彦の対談本の記事「「晋書」にみえる東倭の国」は、その根拠とする、「晋書・宣帝紀」と「冊府元亀」をその根拠としており、原文の該当部分を確認できていないので、正否は保留します。しかし、特に小林氏の発言をファンタジーとした場合、突っ込みどころ満載です。

まず、「晋書」の基本情報から。(鳥越健三郎「倭人・倭国伝全釈・東アジアのなかの古代日本」角川ソフィア文庫)

(引用はじめ)「晋書」は、帝紀10巻、志20巻、列伝70巻、載記30巻、合計130巻からなり、西晋4代・59年、東晋11代・120年間のほか、載記として5胡16国に関しても記している。編集の期間は、646年から648年のわずか3年に至らず、房玄齢、褚遂良、許敬宗(いずれも唐太宗皇帝の重臣。貞観政要の常連)の3人が監修にあたり、そのほか18人が参画して執筆した。多くの人の手によることで、前後の矛盾や錯誤をはじめ、手落ちも指摘されているが、唐代以前にあった晋書20余種が消失・散逸しているだけに、貴重な文献である。(もちろん1次史料)(引用おわり)

伊藤睦月です。宣帝紀は、所持していないが、手持ちの史料(巻97・列伝東夷倭人)を示す。

(1)倭人は、倭人は帯方東南の大海の中にあり、山島によりて国をなす。

(ここでいう国とは、「郭」と同じで、城郭、つまり城壁をめぐらした都市のことである:岡田英弘)

(2)地には山林多く、良田なく、海物を食す。

(3)旧百余国の小国ありて、相摂し、魏の時に至り、30国ありて、通好す。(朝貢使を送ってきた)

伊藤睦月です。小林=井沢の対談では、邪馬台国のほか、倭には他の国があるのが、さも大事そうに発言しているが、対談はいつのことだろう。倭地域には魏の時代には、30国余りが存在し、それぞれ、魏に貿易代表として、エントリーしていたが、結局、邪馬台国が「親魏倭王」になった、というだけのこと。

(4)(倭国は)もと男子をもって王となす。漢末に倭人乱れ、攻伐して定まらず、すなわち女子をたてて王となし、名づけて、卑弥呼という。

(5)宣帝(司馬仲達)の公孫氏を平らぐるや、(238年に公孫淵を滅ぼすと)(239年に)その女王(卑弥呼)は、使いを遣わして帯方に至り朝見し、(朝貢し)その後は貢聘絶えず。(貢物を絶やさなかった)。

(6)泰始のはじめ、(266年)、(台与が)使いを遣わして、重訳入貢す。(邪馬台国最後の通信)

伊藤睦月です。小林発言に突っ込みます。

(1)なぜ、「東倭」の場所が、「丹後から大和にかけて」とわかるのか。(手前の邪馬台国でさえ、わからず論争になっているので)

(2)239年に、邪馬台国が「親魏倭王」の金印を受けている。もう、倭国代表の指定は終わっているのに、240年に「YOUは何しに魏にきたの?」戦勝祝いなら、時機失してる。

(3)「東倭」が重訳を連れてきたのではなく、「台与が」というのが、素直な読み方。それに重訳を「通訳」としているが、ほかに用例があれば、納得しますが、よくわからん。

(4)高句麗の東川王が、台与を押し立てて、東遷したという説を自説のように紹介しているが、なにか、そんな記事が宣王紀にあるのだろうか。そういう倭国内の事情は本紀よりも、この東夷倭人編にかかれてこそ、ふさわしいと思う。

(5)266年は、台与が大和に移っていると考えているけど、それも(4)と同じ。

(6)ここで突然、冊府元亀がでてくるけど、なんの論拠としているのだろうか。266年の使いなら、すでに「晋書」に書かれているのだから、2次史料である、冊府元亀を取り上げる意図がわからない。

伊藤睦月です。小林氏のファンタジーは、ファンタジーとしても、破綻していると思う。

(以上、伊藤睦月筆)