学会標準学説で、自説(伊藤のファンタジー)を検証する。(1)

伊藤 投稿日:2024/06/23 15:06

伊藤睦月(2145)です。今回は趣向を変えて、学会標準学説を読んでみましょう。私、伊藤は、特に歴史ものの自説を展開する前後で、学会の見解をチェックします。ひとりよがりだったり、すでに学会で公認されていて、知らずに恥をかくことをできるだけ、防ぐためです。今回は、チョウネン坊主に関する論考をとりあげます。結果は少しうれしく、少しくやしい、ものでした。それでは、ご一読ください。

(1)1970~80年代の学会通説(日本大百科全書:伊藤隆寿)

チョウネン(938?)平安時代の三論宗(南都六宗の一)の僧。俗姓は藤原氏。京都の人。幼くして東大寺に入り、東南院の観理に三論を学び、石山寺ゲンゴウに密教を受けた。983年(一説に982年)8月に宋の商船に乗り、入宋し、翌年ベンケイ(北宋の首都開封)に入って、太宗にまみえて紫衣と法済(ほうさい)大師の号を賜る。ついで、五台山などを巡礼し、987年2月に帰国した。宋版大蔵経5000巻、釈迦像(インドのウテン王が刻した栴檀(せんだん)の釈迦像を摸刻したもの)、16羅漢画像などを将来する。989年東大寺別当に任命されて、3年間奉職した。のち弟子の盛算(じょうさん)が嵯峨のセイカ寺境内に釈迦堂を建立して、清凉寺と号し、チョウネンの将来した釈迦堂を安置した。この像は、三国伝来の栴檀端像として、信仰を集めた。

伊藤睦月です。このころは、日本仏教興隆への貢献、清凉寺を建立した高僧、という面が注目されています。その中で、私が目をつけたのは、「宋の商船に乗って、入宋し」の部分で、宋史には、入宋時の商船の商人名が記載されてないことから、密航と推理していたのですが、結果的には当たらずも、遠からず、でした。実は、チョウネンは、当時北宋の敵国だった、呉越国の商人の船だったのです。当時呉越王と藤原氏は手紙のやりとりをしていて、チョウネンの前にも、日延という僧が、呉越商人の船で中国にわたっています。(「倭人伝」516ページ)それで、宋の歴史書には、記載されず「海に浮かんでプカプカと」記載されたのでした。

ちなみに、呉越国は、960年に宋に滅ぼされています。

伊藤睦月です。チョウネンの評価は、上記が基本ですが、2000年以降はそれ以外の側面にも注目されます。日本史学者と中国史学者の記事を掲載します。副島史学では、「世界史視点」が重要視されますが、日本学会もそれに追随しているように、私には思えます。まずは、日本史学者の記述から。

(引用はじめ)

このチョウネンの入宋について、もっと公的な意味を考えるべきだということを、石上英一氏が10世紀の外交を分析する中で述べている。チョウネンは、入宋に関して「允許宣言」(出国許可)を蒙っているが、単なる巡礼のための出国許可ではなく、もっと公的な使命を日本政府から負わされていた、という推定(この語に注意)である。(「道長と宮廷社会」大津透、初出2001年講談社学術文庫)

(引用終わり)

伊藤睦月です。守谷健二君も、チョウネンの入宋目的について、似たようなことを主張していたが、それが、旧唐書ショックに対応することだったのか、先に進みます。

(引用はじめ)

彼が渡航したのは983年であるが、960年に建国された宋は、979年に北漢を滅して中国全土の統一をなしたのである、統一直後の宋に対して、チョウネンは日本からの使者として、入宋したので、だから台州(浙江省)に上陸して、天台山を巡礼した直後に、宋都ベン京に行き太宗に朝見(拝謁)した、というのである。チョウネンは太宗に対し、銅器十種(それで、黄金はどこに行った?)、「職員令」「王年代記」を献じ、また中国ではすでに散逸していた鄭玄注「孝経」と越王の「孝経新義」も献じている。そして、皇帝の下問に応じて日本の風土を答え、王統譜を述べ、地理(国名)や人口を述べている。この答に、太宗はこの「島夷

」が皇統が変わらず、進化も継襲していることに、「これけだし古の道なり」と感嘆している。(前掲同書339ページ)(引用終わり)伊藤睦月です。」ここまでは、守谷君も「万世一系」の語を使用しなければ、おおむね正確です。さて、次に注目、現在の日本史研究者はここまで踏み込むのか、と思いますが、副島史観を知っている我々にとっては、そんなに驚きはないでしょう。

(引用はじめ)チョウネンは、国家の正式な使節ではなかった、とはいえ、風土を説明し、王統を述べたことは、宋朝への朝貢に準じた行為であった。「宋史」巻491の日本国伝の過半がチョウネンの入貢の記事であることから、宋朝にはそのようにとらえられ、また、チョウネンが入宋したことにより、宋の世界秩序のなかに、日本が位置づけられたことは疑いないだろう。律令制下とは変質しているとはいえ、日本は、宋を中心とする、国際秩序の中に自らをいちづけていたのである。(引用終わり:前掲同書339ページ)

伊藤睦月です。宋帝国は、日本が自ら属国になることを希望した、その朝貢使がチョウネンである、とうけとったのでした。また、チョウネンは否定しなかった(できなかった)。そして、日本は「やせ我慢」を続けた・・・。私のファンタジーとほぼ同趣旨のことが、20年以上前に一般向け歴史書にすでに書かれていた。少しうれしいけど、やっぱ悔しいね。これについては、別稿で深堀します。それでは、現在の中国史学者の見解も、みてみよう。

(引用はじめ)遣唐使が廃止されてからも、事実上の国使として日本を代表して中国に渡った天台宗の僧侶たちがいた。彼らが訪問したのは、唐末から長江下流部に事実上の独立王国として君臨していた、呉越国であった。呉越の領域内には天台山があったから、彼らにとってはこの渡航は聖地巡礼でもあった。呉越が宋によって併呑されてからは、海風に置かれた宋の宮廷が訪問先となった。その最初のチョウネン(938~1016,983年入宋)である。(彼は天台宗でなく、東大寺の学僧であるが)彼の訪問は宋の側からも重視され、宮廷には詳細な記録が作成・保存された。一度「宋史」の日本国伝をひもといてみていただきたい。彼に関する記述及びかれが伝えた日本情報で埋め尽くされている。

トウネンは、日本仏教史の側からも、極めて重要な貢献をした。宋で印刷された直後の大蔵を持ち帰ることを許されたのである。宋の宮廷からすれば、発明間もない新技術を文化のいまだ開け夷狄に誇らしげに示すという意味合いを持った行為であった。(引用終わり:小島毅「中国思想と宗教の奔流(2005年)」18ページ中国の歴史7講談社学術文庫)

伊藤睦月です。現在の中国史学会では、①日本が宋の属国になったこと➁日本仏教の振興に寄与した、学説が有力しされています。そのキーパーソンがチョウネンというわけです。➁はともかく、①について、当時の支配者層はどう思ったでしょうか。以前の投稿でチョウネンの行為は、支配者層を「当惑させた」と書きましたが、それですんだのか。これについても、今後深堀りします。私自身も、自分のファンタジー(副島史学)と学会学説が共鳴してしまって、すこし「戸惑っています」勉強の種はつきません。まだまだ投稿続きます。

(以上、伊藤睦月筆)