【466】(3134)伊藤睦月氏に答えるに答えます(続き)についての反論

会員番号2054 投稿日:2024/06/22 15:56

会員2054です。歴史書についての私の疑問に回答いただきありがとうございます。伊藤氏に御礼申し上げます。歴史書が門外不出(非常に重要)かどうかの言及はこれで終わりにしようと思います(学問道場の会員の皆様による賢明な判断にゆだねようと思います)。

守屋氏と伊藤氏の論争について、横から入ってばかりで恐縮ですが、以下の点について反論しようと思います。

(引用はじめ)【466】(3134)伊藤睦月氏に答えるに答えます(続き)

守谷(1)「列伝の記事を倭国記事と見做して悪いですか。悪いのでしたらその理由を教えてください。

伊藤意見:悪いです。理由:列伝以外には、いわゆる倭国記事を裏付ける史料がないからです。(例えば、百済や新羅、日本(大和朝廷)側の記事や旧唐書中のほかの個所(例えば高宗紀に白村江の記事があるとか)に列伝の内容を裏付ける記事を現時点では確認できていないから)つまり、列伝の記事は検証不能の記事なので、参考にはなりますが、そのまま「見做す」ことはできない。「推定」とか「推測」であれば、仮説の提示なので、仮説としてはありえます。(引用終わり)

会員2054です。『(旧)唐書』の劉仁軌伝にある、以下の点について、他の論拠を挙げることは可能と思われます。

「仁軌、倭兵と白江の口に遭う、四戦して勝つ、倭の船四百艘は焼かれ、煙と炎は天に漲り、海面は真っ赤に染まった。***」

小林恵子「白村江の戦いと壬申の乱」(現代思潮新社p104)より引用します。

(引用はじめ)

周留城は諸悪の根源であり、これを落とせば他の諸域は自ら下るであろうという仁軌の意見により、まず周留城を攻略することに決定した。この戦いに就いて、ほとんどの資料は「於是仁師、仁願、及び新羅王金法敏帥陸軍以進、仁軌別卒杜爽、扶余隆卒水軍及び糧船、自熊津江往白江、会陸軍同趣周留城、仁軌遇倭兵於白江之口、四戦捷、其船四百艘、煙焔漲天、海水皆赤、賊衆大潰」(『旧唐書』・列伝34・劉仁軌、東夷、他、『新唐書』・列伝33、劉仁軌、「百済本紀」、『通鑑』・唐紀17、『元亀』・366・将帥部・機略等)と仁師・仁願・文武王等は陸軍として陸路により、仁軌・杜爽・扶余隆等は水軍として糧船を率いて白江に往き、陸軍と解して周留城に赴くべく、熊津江より白江にむかったが、白江の入口に至ったとき、日本軍と出会い、四戦して日本軍の船四百艘を焼き討ちしたので、煙は天を蔽い、海水は一面に赤くなって日本軍は壊滅したとある。

(引用終わり)

会員2054です。引用文にある通り、ほとんどの資料(『旧唐書』『新唐書』「百済本紀」『通鑑』『元亀』)に記載のある事実として守屋氏が挙げた点を著述されており、これらは倭国記事を裏付ける資料となります。そもそも列伝であろうと「いつ・誰が・何をしたのか」という事実が正確であれば、これを否定する理由はありません。列伝の記載が事実ではないとするのであれば、伊藤氏はその点を明示すべきではないでしょうか。私は、守屋氏が列伝の記事を論拠とすることは妥当と思います。