守谷論文を検証する(3)ブレイク
伊藤睦月(2145)です。今回は少しおしゃべり。
私は守谷論文に対し、問いかけをしていますが、守谷さんに限らず、もし私、伊藤が守谷さんだったら、どう答えるかを考え、回答の道筋(代案)のめどをつけてから投稿します。そのひとつを紹介しします。
「議論とは、自分の弱点を徹底的に考えることだ」(副島隆彦)は、私の方法論のひとつです。
(引用はじめ)
「旧唐書」の成立は、西暦945年、当時日本と中国は民間貿易が盛んになっており、宋船が盛んに博多を訪れるようになっていた。
(引用終わり)上記の根拠史料を示せ。
〇伊藤回答案:西暦945年を894年遣唐使の廃止以降、に修正。このことは、学術論文の引用をまたなくても、高校教科書レベルの見解である。(守谷さん、いかがでしょう)
以上を証するため、次の引用文をご覧ください。
(引用はじめ)①
平氏の繁栄の基礎となった日宋貿易で、日本から宋に輸出されたものとしては奥州産の砂金のほか、伊勢産水銀、薩摩産の硫黄、志摩産の真珠、さらには刀剣・扇などがあげられる。他方宋からは、銅線、経典、書籍、陶磁器などが盛んに輸入された。とりわけ銅線の流入により、日本の社会は大きな影響を受けた。(新もう一度読む山川日本史)
(引用終わり)
(引用はじめ➁)
平氏は忠盛以来、日宋貿易にも力を入れていた。すでに11世紀(1000年代:伊藤)後半、日本と高麗・宋との間で商船の往来がようやく活発となり、12世紀に宋が北方の女真の建てた金に圧迫されて南に移ってからは、宋(南宋)との通商も盛んに行われるようになった。(改訂版詳説日本史研究)
(引用終わり)
(引用はじめ➂)
日本:9世紀末(894年:伊藤)に遣唐使を廃止して以後、中国との正式な国交はもたなかったが、宋・元を通じて多くの僧侶や商人が往来した。(新もう一度読む山川世界史)
(引用終わり)
(引用はじめ④)
宋代には、対外貿易も活発化します。唐末以来、朝貢や冊封に基づく国際的な政治秩序は崩れたものの、かわって商人による交易活動が東アジア世界を結びつける絆となりました。中国からの輸出品としては、絹織物や陶磁器、書籍・文房具や銅線などが主なものであり、その対価として、・・・日本からは金・真珠・水銀(化粧品の原料:伊藤)、硫黄や刀剣・扇子などの工芸品・・・(もういちど読む山川世界史プラスアジア編)
(引用終わり)
伊藤睦月(2145)です。上記引用テキスト①➂は共通テストレベル、➁④は難関校(論述)レベルと」思われますが、高校教科書レベルであり、歴史学会の通説、とみてよいでしょう。守谷さん、もう50年ほど前にさかのぼればよかったのに。
これは、私の推測ですが、守谷さんは日本史のテキストだけをチェックあるいは受験科目選択したときの記憶に頼っておられるのでは。
日本史も世界史の一部であることは、岡田英弘学説によって立つ副島史学の鉄則ですから、世界史レベル(当時の東洋世界覇権国の中国から見えてる日本)の視点は必須です。少なくとの世界史のテキストも合わチェックされることをお勧めします。
(引用開始)
日本は、本当はこの2000年の間、中国の歴代王朝・中華帝国の属国としての地位にあった。しかし表面上は絶対に絶対に中国に屈服しないで、すくなくとも政治的には対等である、というふりをして、少なくとも、政治的には対等である、というふりをして、やせ我慢をしてきた国である。(英文法の謎を解く第1章)」
(引用おわり)
伊藤睦月(2145)です。この副島史学の要諦をなす、歴史的視点(ソエジマメガネ)に出会って30年、いまだにそのメガネを外せないでおります。たぶん死ぬまでそうでしょう。次回からまた旧・新唐書の読み解きをさいかいします。
(以上、伊藤睦月筆)