天武天皇は「倭国(筑紫王朝)」の大皇弟であった。
『旧唐書』は、日本記事を「倭国伝」と「日本国伝」の併記で作っている。西暦663年の「白村江の戦」までを「倭国伝」で作り、703年の粟田真人の遣唐使の記事から「日本国伝」が始められている。
つまり、唐朝は七世紀の後半に「倭国(筑紫王朝)」から「日本国(大和王朝)」に日本の代表王朝の交代があったと認識していたのである。
661年八月に始まる倭国の朝鮮半島出兵は、唐・新羅連合による百済侵攻から百済王朝を救うため、と一般に言われているが、それは正しくはない。
倭王朝の新羅征伐は、650年にすでに決断されていた。
(日本書紀より)
白雉二(650)年、新羅の貢調使(みつぎもののつかい)、唐の国の服を着て、筑紫に泊(とま)れり。朝廷、恣(ほしきまま)に俗移せることを悪(にく)みて、呵責(せ)めて追い返したまふ。時に、巨勢大臣、奏上して申さく、「まさに今新羅を伐(う)ちたまはずは、後に必ず悔い有らむ。***
650年、新羅王朝は全面的に唐の臣下に入ったのです。服装から儀礼、暦に至るまですべて唐の制度を採用して筑紫に来たのです。これは倭(筑紫)王朝に対する裏切りでした。
『隋書』より
新羅・百済、皆倭を以て大国となして珍物多しとなし、並びにこれを敬仰し、恒に通使・往来す。
新羅と百済は、倭国を大国と敬い、臣下の礼を取っていた云うのです。中国統一王朝の隋朝がそれを認めていた。倭国は、新羅・百済に対し宗主国であった。
倭国は、650年には新羅討伐を決断していた。しかし、倭国が実際に新羅討伐軍の派兵に踏み切ったのは661年の八月でした。十年もの歳月が過ぎていた、その間に徐々に百済の旗色が悪くなっていったのです。
なぜもっと前に新羅討伐に踏み切れなかったのか。考えられるのは、大和王朝(日本国)の存在です。
新羅のバックには唐が控えていた、生半可な覚悟では新羅討伐に踏み切れなかった。倭王朝は、大和王朝の全面的な協力を必要としたはずである。
それに対し大和王朝の意見は割れていた。孝徳天皇(在位645年~654年)らは倭国に協力すべしと主張し、斉明天皇(在位655~661年)、皇太子の中大兄皇子(後の天智天皇)は、協力に慎重派であった。大和王朝は一つにまとまらなかったのであった。結果、慎重派の方が勝利を収め、孝徳天皇は、孤立して憤死している。
新羅討伐を決行する為、倭国はどうしても大和王朝の協力を必要とした。
661年正月六日、斉明天皇は筑紫行幸へ難波の港を出発した。教科書が、「新羅討伐への親政」と書く出来事である。しかし、この二日後、大田皇女(天智天皇の娘)が兵庫県と岡山県の県境の海路で大来皇女(おほくのひめみこ)を出産している。船上での出産であった。(日本書紀)
大田皇女は大海人皇子(後の天武天皇)に嫁いでいた。天武天皇は、661年の一年前あたりには大和王朝に居た事になる。
朝鮮半島戦況は、風雲急を告げていた百済が追い詰められていた。新羅討伐の決行は一刻の猶予も許されない情勢に成っていた。そんな中、倭国の大皇弟(天武)が、交渉の切り札として 大和に派遣されていたのではないか。大田皇女との結婚、懐妊は大和王朝との交渉の成功を意味している。斉明天皇、中大兄皇子は、倭国への協力を約束したのだろう。
661月正月六日の斉明天皇の筑紫行幸の目的は、懐妊している大田皇女を無事筑紫へ送り届けることにあった。大田皇女の解任は、倭国と日本国の同盟が成立した象徴であった。
倭国内にも、新羅討伐軍の派兵に疑問を持つ勢力もいただろう。それらの者たちを黙らせるためにも、日本国との同盟は必要であった。
斉明天皇が出発して二日後、兵庫県と岡山県の界の海路で大田皇女が出産したと云う記事は『日本書紀』のものです。私はこの記事を初めて読んだ時ビックリした。何故臨月の皇女を連れてゆく必要があったのだ、と。迷信深い船乗りたちが良く赦したものだ、と。通常あり得ない事件だ。
『日本書紀』の記す天武天皇の子供達には、極めて特徴的なことがある。長男の高市皇子と額田姫王(ぬかたのおほきみ)の間に生まれた十市皇女の二人だけが「壬申の乱(672年)」時点で成人であとの子供たちは、661年正月八日に生まれた大来皇女が最年長でまだ十一歳にすぎない。
高市皇子の母は、宗像君徳善の娘・尼子娘(あまこのいらつめ)です。筑紫に由来の人物です。
天武天皇が筑紫の人物であったことは疑いのない事と考えています。(続く)