「万世一系の歴史(日本書紀)」は、天武天皇が創った
守谷健二です。今回は天武天皇について述べます。
『日本書紀』天武十(681)年三月より
帝紀及び上古の諸事を記し定めしめたまふ。
『古事記』序より
天皇(天武)詔(の)りたまひしく、「朕聞きたまへらく、『諸家のもたる帝紀及び本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふ。』といへり。今の時に当たりて、その失を改めずは、未だ幾年をも経ずしてその旨滅びなむとす。これ即ち、邦家経緯、王化の鴻基なり。故これ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り実を定めて、後の世に伝えむと欲す。」とのりたまひき。
『日本書紀』が、天武天皇の命(681年)で編纂が開始されたことは明らかです。天武天皇は、「壬申の乱」と呼ばれている内乱に勝利して皇位に就きました。『日本書紀』『古事記』は、「壬申の乱」の天武天皇の決起の正統性を述べています。故に「壬申の乱」は、天武天皇にとって『聖なる戦』です。では何故それが「壬申の乱」と呼ばれているのでしょう。天皇の聖なる戦は、「乱」と呼ばれて良いのでしょうか。「乱」と云うのは、下克上や裏切り、騙まし討ち、乗っ取りなど正規の秩序を破壊する行為です。通常悪業に当たる行為を指します。
天皇の聖なる戦いを「乱」と呼ぶのが赦されるのでしょうか。日本人は、奈良時代から天武の決起を「壬申の乱」と呼び、それが現代に至るまで定着してきた。
『懐風藻』(日本最古の漢詩集、天平勝宝三年(751)上梓の序を持つ)の大友皇子(天智天皇の長子、壬申の乱で天武天皇に滅ぼされる。明治に追号されて弘文天皇)伝は、「壬申の年の乱に会い、天命を遂げず。」と明記する。
日本人は、天武天皇の決起を「乱」と明確に認識していたのである。天武天皇は、武力で皇位を獲得したのだ。その権力者が、今までの歴史は出鱈目だから新しい歴史に切り替えると宣言したのである。それをそのまま信ずる事ができるのか。不思議なことに明治以来の近代日本では、天武天皇が定めた歴史(万世一系の天皇)が日本の本当の歴史と信じられて通用している。誠に面妖なことである。
何故に「乱」と認識していた天武の決起が(聖なる戦い)と認識が変わり、天武の定めた(万世一系の歴史)が日本の本当の歴史と信じられるようになったのか、その事を検討しようと思う。
『日本書紀』は、天武の決起(壬申の乱)を正統化する為に、天武紀を上下二巻に分けて作り、上巻全てを「壬申の乱」の顕彰に当てている。僅か一カ月に満たない戦いに、丸々一巻を費やしているのである。
この上巻は、「天武天皇は、天智天皇の同母弟なり。」で始められている。これぞ日本史上最大のデッチアゲ、インチキである。日本の知識人たちは鎌倉・南北朝時代あたりまでこの事を知っていたらしい。
天智天皇と天武天皇は、兄弟ではない。次回この事を述べたい。