私、副島隆彦の近況を書きます。

副島隆彦 投稿日:2023/10/12 08:23

副島隆彦です。今日は、2023年10月12日(木)です。

ここの重たい掲示板に、何も書かないまま、また2週間が経(た)った。
1.学問道場の ウエブサイトの リニューアルが、何とか終了、完成した。弟子たちと、真剣にサイトのリニューアルの工事をやってくださった、私たちの学問道場の会員でもある、SE(システム・エンジニア)の専門家の皆さんに感謝します。ご苦労様でした。

今度の10年ぶりのシステム・リニューアルでは、私の素人判断では、画面の横幅が、きっちりと、スマホに対応したことである。10年前から、「スマホでは、学問道場は、読みにくい」と言われてきた。その当時は、スマホは、まだ無視してもいいぐらいの通信機器だった。現在は、そういう訳(わけ)には、ゆかない。
おそらく、スマホで、学問道場の掲載文章を読んでいる人が、2割ぐらいいるようだ。ようだ、としか言いようがない。 この数字が、すぐに4割とかに上がってゆくだろう。

2.私は、書くと恥ずかしいことだが、スマホを使えない。ずっとPCで、文章を書いてきたので、机上のPCがないと、仕事にならない。1年だけスマホを使ったが、手元が揺れて、満足に使えない。それで、ガラケイに戻った。そういうジジイたちが、たくさんいるはずなのだ。

だから、私は、世界中の事件の記事や、評論文や、情報収集も、PCである。テレビは、食事の時に、NHKのBSチャンネルしか見ない。日野正平(ひのしょうへい、1949年-、74歳)の、自転車の旅の、「こころの風景」が好きだ。全国の県をずっと走っている。最近は、もう、日野正平も、股ずれを起こして、自転車こぎも大変そうだ。あと何年もつかな。

この「こころの風景」の良さは、日本全国の、どこに行っても、こういうキレイに舗装された道路があって、その脇を、自転車で動いていって、どうでもいいような、自然公園があって、そこを思い出の地とする人たちの手紙を日野が読んで、「さあ、行こう」と移動してゆくことだ。そして、道路わきの食堂で昼食を食べる。
全国、どこにでもある、やはり、海沿いが多いが、寂れ果てた、田舎の風景が、歳を取ると、一番、落ちつく。それでもトラックと、乗用車が、道路を、どんどん通る。

3. NHKのBSは、2つ局が有って、私は、これだけで十分だ。民放など、もう20年間、ほとんど見ない。何かあった時だけチラリと見るだけだ。それも、私の周りの人が見ているからだ。

最近まで、 日本の植物学者の泰斗(たいと)の牧野富太郎(まきのとみたろう、1862-1957年、94歳で死)の人物像を描いたNHKの朝の連ドラの「らんまん」のことは、少し知っている。 牧野富太郎は、今も分厚い「牧野の植物辞典」で有名だ。 一生を、植物の蒐集(しゅうしゅう)と新種、変異種の研究に捧げた偉い人だった。東京帝国大学の植物教室に、77歳までずっといた。60歳を越しても講師の肩書のままだった。この人の、穏(おだ)やかな変人ぶりも、炙(あぶ)り出された。
  牧野富太郎
  『牧野日本植物図鑑』

4. 私は、50年年前の学生時代に、東大全共闘(とうだいぜんきょうとう)と呼ばれた、1969年1月の、安田講堂の籠城戦(ろうじょうせん)(安田砦と呼ばれた)を、闘った、そしてそのあと、捕まって、刑事被告人となった(450人ぐらい)人たちのうちの、極めて、真面目な、東大の農学部の学生上がり(もう、30台のひとたちだった。大学院生もとっくの終わった人たち。大学に居残っている )たちと、少し付き合った。千葉県の山の中の高吾山(たかごさん)という山奥の、 動物の調査研究拠点(古い農家)で、農業もやった。

サルたちが、当時、日本全国で荒れ狂っていた、ゴルフ場作りのために、山奥までが、開発されて(ブルドーザーが、山肌を削っていた)いたので、サルたちが、迷惑がられて、獣害(じゅうがい)対象の動物とされて、纏(まと)めて、サルの捕獲網(あみ)に、引っかかって、捕まって、おそらく処分されていただろう。今、そのゴルフ場たちが、経営危機に陥っている。ざまあ見ろ、である。ところが、後述するが、それらのゴルフ場に、私は、最近もゴルフしに行った。

50年経つと世の中は、ひっくり返(かえ)るようである。それまでとは、それまでとは、考えが、大きいところで、ひっくりカエルだけであって、表面の様子は変わらない。人々は、新陳代謝(しんちんたいしゃ)で、入れ替わっていゆく。老人たちは、死んでゆく。

5.その東大農学部出(で)の、新左翼(しんさよく)の活動家、と言っても、たいした政治活動もしていないが、その人たちは、東大の演習室という自然研究用に残されてる山林で、フィールドワークをやっていた。 小さなヘビを見つけると、それを、袋にササっといれてしまう。サルたち自然動物の保護運動をするわけでもない。ただ観察するだけだ。それが、フィールド・ワークだ。捕まったサルたちを、可哀そうに、と思うだけだ。

サルたちは、100頭ぐらいで、ひとつの群れを作っていて、山の中をずっと移動してゆく。どんぐりのような木の実を、それぞれに黙々と見つけて食べながら。山中の農家にはよく現れる。ボスざるの首には、大きな白い定点観測用の、通信機が取り付けられていて、それで、彼らの移動先は、すべて県の行政によって、把握されている。

ユバリ・ハラリ( Yuval Noah Harari、1976年-、47歳)が書いた、5年前の大著『ホモ・サピエンス』の次の、『ホモ・デウス』の世界だ。動物たちは、人間(人類)によって、完全に支配され、殺されてゆく、あるいは、家畜(ライブ・ストック live stock  生きている食糧。殺したらすぐに腐敗が始まるので、生きたまま移動させる)として、人間の食べ物にされる。

5. 彼ら、農学者の中の動物学者たちは、植物の名前も、よく知っていた。あの人たちが、「牧野は偉いよ。今でも、牧野の植物辞典」が一番いい。これしかない」と言っていた。だから、私は、牧野富太郎のことを、ずっと覚えている。

だから、NHKの「らんまん」で、壽恵子(すえこ、すゑ子、1873-1928年、55歳で死)という奥さんが出てきて、この人が、偉い女性で、牧野に好きなだけ、植物採集と同定保存の人生を仕事をさせたのだ。
私は、何事(なにごと)かを、じっと見たら、その裏の真実を見抜く人間だ。

だから、私は分かる。壽恵子は、14歳で、今のJR飯田橋の通りで、人力車(今のタクシーだ)で帝大まで毎日、通っていた牧野の目に留(と)まった。壽恵子は、武士(旧幕臣の、旗本、本当は、旗下=はたした=と書く)だった家の娘で、通り沿いの、小間物屋(こまものや)の店番をしていたのだ。
 壽恵子
店番をしていただけで、牧野の目に留まって見染(みそ)めた、ということは、相当に美人だったのだろう。 壽恵子(すえこ)は、武士(明治からは、士族=しぞく=と言った)の家の子だが、母親は、芸妓(げいぎ)あがりである。私、副島隆彦が、この壽恵子と牧野の写真を見ると、半襟(はんえり)が黒くて、着ている物が、ぞろりとしている。ああ、この女性は、玄人(くろうと)の、芸者(芸妓、げいぎと言う)の子で、本人も、その自覚がある。今でいえば、駆け出しの女優かアイドルのような、人たちなのだ。ただの女性ではない。

こういうことを、今の日本人は、分からなくなっている。身分差別というのは、その時代には、はっきりしていて、誰もが知っていたことだ。だから、壽恵子は、別格の、別嬪(べっぴん)さんだったのだ。だから、毎日、人力車で帝大まで通う、牧野の目に留まったのだ。それで、15歳で結婚して、16歳で、子供(このあと、12人産む)を生んだ。

今では、非常識のようだが、明治でも、普通の人たちは、特に、過酷な環境の労働者階級(女も)は、30歳ぐらいで死んでいた。 女が16歳で、子供を産むことが、当時は、よくあることだった。20歳までには、大半が生んだ。だから、アメリカの黒人やヒスパニックは、初潮(しょちょう)が有った女たちが、ぼこぼこ子供を作るので、それをやめさせるために、学校教育(人間を文明化 civilization シヴィライゼイション する)があるのだ。

だから、壽恵子が、後年、渋谷で自分で待合(まちあい。京大阪では、お茶屋)を経営して、数人の芸子を使って、料亭に派遣している。公認の売春業だ。今でいう芸能プロダクション(ジャニーズ事務所のような)だ。

このことが、帝大にバレそうになって、廃業した。だが、このとき、関東大震災(1923年)の直後だが、壽恵子が蓄えた資金で、今の東京の練馬区の先の、西武線の 大泉学園か東伏見のあたりの山林を買って、家を一軒、建てた。それが今も牧野自然植物園になって公開されている(私は行ったことはない)。 このように壽恵子には、商売(ビジネス)の才能が有った。借金取りたちを上手に、追い返したというから、大した人あしらいだ。だから、夫の牧野のことを、我が儘(まま)息子がひとり増えたぐらいにしか、思っていない。こういうすばらしい女性がかつてはいた。

だから、牧野と壽恵子のお祝いの古い写真を見ると、壽恵子の目は、きりっと切り上げって、鋭く、普通の丸髷(まるまげ)よりも豪華な高島田(たかしまだ)だ。着ている物も、羽二重(はぶたえ)の丹後縮緬(たんごちりめん)の、黒 留袖(とめそで)だ。 これぐらいでないと、当時の人たちの間では威張れない。
  正装の牧野夫妻

牧野富太郎のことは、そのうち、また書く。私は、農学者で、ドイツ式の民族学者(みんぞくがくしゃ フォルクスロギア )からやがて、日本を代表する民俗学者(みんぞくがくしゃ フォークロアロジー)になった柳田國男(やなぎだくにお)のことを、どうしても書きたい。

6. 私、副島隆彦は、この2週間、何をやっていたか、というと、頭が痛かった。
頭痛(headache ヘッデイク)だ。私の頭痛は、高血圧から来るもので、原因がはっきりしている。私の高血圧症は、もう死ぬまで続くだろう。これは、もの書きをずっとやって、頭(知能、思考力)を使い過ぎた、職業病である。だから甘受(かんじゅ)する。

私は、60歳なるまで頭痛というものを知らなかった。経験していない。だから、老齢になって、頭痛を起こすようになってから、「ああ、これが、みんなが言っていた頭痛か」と気づいたぐらいだ。だから、仕合(しあわ)せだったのだ。頭痛のアスピリンもバイエルも、ロキソニン(今は、何かと言うと、この鎮痛剤だ。大きらいだ)も飲まないでずっと生きて来た。

だが、頭痛の中でも、一番、単純なもの、すなわち、私でも若い頃から、人の吸うタバコの煙と、それから、車の排気ガスから起きる、気管支炎による頭痛はずっとヒドかった。だが、これは夜、寝さえすれば翌朝には、けろりと直っていた。

今の私の、老人性でかつ慢性気管支炎(ブロンカイテス)から来る頭痛も、ゆっくり寝て、2レム睡眠(これは、私の勝手な理論。私の場合は、2時間で、1レム。それで、横になっていれば、大体、回復する)で、朝は、4時ごろ起きる。体調が良いときは、今朝のように、すぐに、何かを書き始める。

7.私は、9月29日に、福岡市(博多)で、野口コイン主催の講演会をやった。その後、多くの学問道場の会員や私の本の読者と、挨拶して、話ができた。懇親会には定員の30人が来てくれた。皆で、打ち解けて食事が出来た。その翌日は、福岡市から南へ20キロの、大宰府(だざいふ)に行った。私の副島の一族が、ここの太宰府天満宮の氏子(うじこ。家紋が梅鉢)だと言われてきたから、ここに来た。

しかし、今の天満宮は、くだらない、ただの観光神社だった。本殿が建設中だった。こんなもの拝みたくもない。あのくだらない、鉄筋コンクリートの、どこにである、屋根が丸く反(そ)りあがっている、大型の神社建築になるのだろう。何の有難(ありがた)みもない。外国人の観光客もたくさん来ていた。

それよりは、大宰府の政庁(せいちょう)跡がすばらしい。建物は、何もない。ただ、礎石(そせき)だけが、残っている大きな原っぱだ。朱雀大路(すざくおおじ)の名が今も残っていて、京の都の真似をした政治官庁だったのだ。 平安時代が過ぎて、鎌倉時代には、東国(関東)から、やってきた、少弐(しょうに)氏が館(砦型の屋敷)を築いていたはずだ。
  大宰府の政庁跡
そのあとの江戸時代も、それから明治になってからも、大宰府は、ただの原っぱのまま、ずっと放置されたはずだ。だから官庁迹の、手前の朱雀大路の両側は、今は、普通の一般の住居が建っていて、まったく土産物屋の街並みの感じがない。ずっと、ほったらかしにされたままの1千年間、というのが、私にとっては何よりも嬉しい。

室町(足利氏)時代には、ここまで、1336年に、足利高氏(あしかがたかうじ、1305-1358年、52歳で死)が、京都から逃げ延びてきたはずなのだ。そして、高氏(たかうじ)は、九州の武士たちを、一気に束ねて、わずか半年で、京都まで攻め返している。途中で、神戸の湊川(みなとがわ)の合戦で、楠木正成(くすのきまさしげ、1294-1336年、42歳で死)と新田義貞(にったよしざだ)を打ち破っている。

後醍醐(ごだいご)天皇(1288-1339、50歳で死)の「建武の中興」(1333年)という公家政治、律令体制に戻ること(王政復古 レストアレイション restoration )を、武士(守護、地頭)たちは、絶対に許さなかった。一所懸命(いっしょけんめい)で、天皇制と戦った。
武家の棟梁(とうりょう)である 源頼朝(みなもとのよりとも、1147-1199、53歳で死)公から、直々(じきじき)に頂いた、ありがたい自分の領地 (武士とは、現地の武装した百姓の中から実力で這い上がった、暴力団のような自衛集団 )を、元の公領や、藤原摂関家の荘園に返す気はなかった。武士たちは、自分の領地を死ぬ気で守ったのだ。

日本史学者たちは、今も、必死で真実を隠しているが、鎌倉武士団に与えられた、地頭職(じとうしょく)は、 頼朝の側近の碩学(せきがく)の、大江広元(おおえのひろもと、1148-1225年、77歳で死)が発案して、鎌倉幕府が、独自に自力で始めた土地の支配制度だ。 地頭(じとう)職は、だから、京都の朝廷から、貰った職(地位)ではない。
純然とした、武家自身による領土の支配の法(のり)、掟(おきて)だ。 まるで、守護地頭(これが戦国大名になって行く)が、京都の朝廷の律令体制(りつりょうたいせい)から生まれたように書いてある、日本史学者たちの論文は、許しがたい歴史(学)の捏造だ。
 大江広元
だから、まだ源頼朝(みなもとのよりとも)が生きていた(1192年に鎌倉幕府を開いた。まだ京都との緊張関係はずっと続く)、丁度、西暦1200年ごろに、「 前たち関東武士 は、九州に行け。領地をやる。九州に行って、大陸からの侵略、侵攻に備えよ」と、任命されてやってきたのだ。

7.モンゴル(大元国。だいげんこく)が攻めて来る 元寇(げんこう。蒙古襲来)の、1274(いうなよ)年、1281(いうわい)年の、なんと70年も前から、日本側は、国防の準備を着々としていたのだ。 民俗や国家が大きくやることは驚くべきことだ。「国家百年の大計(たいけい)」とは、よく言ったものだ。無駄だった戦艦大和もそうだけと。国家も大きく間違う時は、間違う。みんなで間違う。

蒙古襲来(その情報は、鎌倉五山を開いた、南宋帝国からの、中国人の亡命知識人の高僧たちから、北条時宗たちに、正確に齎(もたら)されていた)の70年前に、関東に居た、少弐(しょうに)氏と、千葉氏、と大友氏、と、島津氏と、竜造寺氏 たちが、「九州に行け」と、守護、地頭に任命されて、やって来たのだ。そして現地化して、「9州、9つの国」の九州を作ったのだ。
薩摩(今の鹿児島県) の島津氏は、何と、元々は、神奈川県の厚木(あつぎ)の辺りにいた、在地の武装民である国人(こくじん、くにうど)だった、と、歴史に詳しい人から、私は聞いた。

私、副島隆彦の家系は、この竜造寺(りゅうぞうじ)氏と共に、やってきて、今の佐賀県から、熊本県の有明湾の大牟田や 柳川(やながわ)辺りの湿地帯に居着いて、土着した半農半武装の集団だ。だから私にとっては、自分の先祖のことを思うから、大宰府の政庁の迹(あと)が、すばらしかった。

それに対して、そこから3キロ ぐらいのところに在る、大宰府天満宮は、くだらない。ここに参詣に来る人々は、この神社の何を、自分が拝んでいるのかを、知らない。ただ、 “学問の神様” の菅原道真(すがわらのみちざね、845-903年、58歳で死)を祀(まつ)っている神社だ、と言うことは、皆、知っている。この天満宮は、道真の墓にした場所だ。それを、分祀(ぶんし)した神社が、「天神(てんじん)さまの、湯島の白梅(しらうめ)」となって、全国各地にある。
  菅原道真
道真は、西暦901年に、京都での藤原氏との権力闘争に敗れて、この大宰府に、流刑(るけい)ではないが左遷(させん)され、権の帥(ごんのそつ、長官)としてやって来て、「恨みを抱いたまま死んだ」とされる、菅原道真の何が、偉かったのか。私もよくは知らない。

どうも、菅原道真は、中国に行ったこともないのに、すらすらと中国文(漢文)の文献が読める大秀才だったようだ。生粋の日本人なのに、漢文が読めた、ということで、藤原氏も、道真の頭脳を怖れたようだ。 だから後(のち)に天神(てんじん)さまと尊敬された。

だが、古い人々が、神社を本気でお参り(今のような形だけでなく)したのは、それなりの理由がある。菅原道真は、恨みを飲んで死んだ祟神(たたりがみ)として、人々に怖れるれられたので、畏(おそ)れ、惧(おそ)れ敬われたのだ。祟り神信仰こそは、日本民衆の、神社崇拝の原因で、原動力だ。

道真が死んだ後、京都で、風神(ふうじん。嵐になる)、、雷神(らいじん)の神さまが荒れ狂って、ワルの藤原貴族たちに、雷が落ちた、ことから天罰(てんばつ)の思想となって、だから菅原道真は、祟り神として祀られて、今に至るのだ。このことに知らないで、ただ、神社で拝んでいる人たちに、私、副島隆彦が大きな真実を教えないと、日本人が、ますますパー(愚か者)になる。

この祟(たた)り神の他に、日本人が、神社を拝むのは、自分たちの祖先の共同体の始まりである、大きな岩や、海や山や、祠(ほこら、古大木が作った穴)と鎮守の森を、道祖神(どうそしん)として祭るのである。先祖崇拝だ。 それから、中国伝来の、道教(どうきょう、タオイズム)の寺院、それから、山岳信仰、修験道(しゅげんどう)の 山伏(やまぶし)の行(ぎょう)として、行者(ぎょうじゃ)、御師(おし)が拝むやしろである。

修験道(しゅげんどう)は、仏教にも、神道(しんどう。これは中国伝来の道教、どうきょうが起源)にも属さない、日本古来の海山(うみやま)信仰だ。修験道の 「験(けん、げん)」とは、超能力のことだ。この超能力を、身に着けたいとして、行者(ぎょうじゃ)たちが、懸命に、水ごりや、滝行(たきぎょう)や、山岳踏破などの厳しい修行することが、即(すなわ)ち、「修験(しゅげん)の道(どう)」だ。
だから、今でも、おばあさんたちの一部に、「験(げん)がいい」とか「験(げん)をかつぐ」という素朴な、占い呪(まじな)いの言葉を、自然に口にする人々がいる。

私、副島隆彦も、この修験道と、先祖崇拝と、海や山を素朴に拝む、自然崇拝(アニミズム、animism )だけならやる。 宗教(しゅうきょう。religion )は、どんなものも、すべて嫌いだ。

この他に、日本人にとって大事な、3大祟り神の残りの2つは、東京の神田明神(かんだみょうじん)の祭神(さいしん)である、平将門(たいらのまさかど、?-940年)である。“関東の王”だった、平将門は、立派な人格者で、戦乱の時にも人に謗(そし)られる行動をしていない。それで、京都にまで弁明に行って、そこで斬られた。将門の首が、今の東京の大手町にある、将門の首塚(くびづか)まで、宙を飛んで帰って来たのだそうだ。

それで、あまりに江戸城に近い、ということで、神田明神は、今の外(そと)神田に移された。皆さんも、東京駅から近い、大手町の高層ビルの谷間に、今も有る将門の首塚をお参りに行ってください。今は、かなりキレイにされてしまった。
 平将門の首塚

あとの1つは、父親の、鳥羽(とば)上皇の女狂いで、天皇を無理やり、若くして辞めさせられた、崇徳(すとく)天皇(Ⅰ119-1164年、45歳で死、在位:1123-1142年)が祟り神だ。源平の武士が暴れ出す世になって、保元の乱を起こして、崇神は、香川県に流されて死んだ。この3人が、日本の祟り神の代表だ。だから人々が、今もお参りする。
 崇徳天皇

愛国の信念で闘って、非業(ひごう)の死をとげ、恨みを飲んで死んだ、民族の英雄たちの霊魂(れいこん)は、今も、日本民族に尊敬されている。織田信長も、西郷隆盛も、乃木希典(のぎまれすけ)も、田中角栄も、ずっと、この祟り神の系譜として、日本人の魂の中に残っている。

8. 今、朝の6時前で、ふと窓の外を見たら、海から太陽が上がった。
私は、九州から帰って、急いで、金融本を書かなければいけない。ところが、頭痛が起きて、あまり動けない。同志の編集長も、もう、長年の頭に使い過ぎで、同じく、頭痛を起こして、
すぐにへたってしまう。「お互い、歳を食ったなあ」と慰(なぐさ)め合う。

さらに悪いことに、編集長は、馬鹿だから、ワクチンを2回も打った。それで、太もも(大腿部、だいたいぶ)に帯状疱疹(たいじょうほうしん)が、出来て、それは抗生剤で治(そおさ)まったのだが、その奥の方が神経痛で、今も、痛いそうだ。神経痛の痛みは、ただの健康な痛みとは違う。腐った痛みだ。ずきずきと患部が、気持ち悪い、まさしく、病的なイヤーな痛みだ。

この痛みは、人間の体が壊れて行く時の、まさしく、腐った痛みだ。老人になると、皆、この神経痛が、あちこちに出るようになる。だから、老人は、いつも不愉快そうにしている。欝々(うつうつ)として、「もう、いいや、これだけ生きたんだから」と諦(あきら)めている。私、副島隆彦には、「老人一年生 老人は痛い」(幻冬舎新書)という、8年ぐらい前に書いた本がある。

それなのに、それなのに、私は、息子と友達を誘って、同志の編集長を励ますつもりで、「元気を出そう」と、ゴルフに誘って近くのゴルフ場に行った。 案の定、編集長は、後半の半分ぐらいで「頭痛がする。用心してここでやめます 」と リタイアした。カートの中から好々爺(こうこうや)のように眺めていた。

私、副島隆彦のスコアは、いくらでしょう。145です。この30年間、ずっと、これぐらいです。これを言うと人に馬鹿にされます。このスコアは、全く変わりません。ダブルボギー・ベースで行けば、110ぐらいになるでしょう。それぐらいからが、「人に迷惑をかけない腕前」だ。120を越すと、女性のゴルフ好きの人からも、鼻で嗤(わら)われる。

だが、私は、年に、4,5回しかしない、健康ゴフルだから、ちっとも恥ずかしいとは思っていない。今のゴルフ場は、平日は、ガラガラして、どこの空(すい)いている。昔は、50組ぐらい入れて、ギューギューで詰め込んでいた。今の富士山の弾丸登山(だんがんとざん)の感じだった。 弾丸登山の、無謀な馬鹿たちを含めて(この者たちは、途中で凍えて、死にそうになって避難を訴える)、富士山は、山頂まで、ずっと数珠繋ぎになって、真夜中も人の列だ。とテレビでもやっている。

私は、富士山の真裏(北側)の富士吉田市から上の、5合目の大駐車場 まで、一度だけ、車で行って、もうここで十分だ、と分かった。 「ああ、もう、ここまでで十分だ。ここから先は、荒涼たる岩石地帯で、普通の人間が行くところではない。 まるで月の表面のようだ(行ったことはないけど、笑い)」と、達観した。

9・ このようにして、副島隆彦の日常は続いています。ご心配なく。あと10年(80歳)までは、石に齧(かじ)りついてでも、生きますから。

あ、どうも、最近、エホバの証人という奇怪な宗教集団に、私は、狙われているようだ。 私の目の前にも、最近、現れた。エホバの証人は、統一教会(とういつきょうかい、Moonie ムーニー)とは、違う、と言うことになっているが、そうではない。
エホバの証人(Jehova’s Witness )というカルトcult の宗教団体も、立派な統一教会の別動隊だ。 参政党(さんせいとう)の神谷宗幣(かみやそうへい)たちと同じだ。参政党は、幸福実現党(=幸福の科学)が、姿を晦(くら)まして、名前を変えただけの、気色の悪い、統一教会の別動隊だ。

参政党は、反(はん)ワクチン運動や、反米(はんべい)言論までやって、反(はん)自民党のリベラル派の運動の中にまで、平気で、潜り込んでくる。本当に、悪質なやつらだ。

私が、最近、本当に怒っているのは、参政党や、ごぼうの党 というのは、統一教会の一部なのだ、いくら言っても、私の、弟子たちの中でさえ、「先生は、そう言うけど、その証拠がありません」と、私に、反抗する者たちがいることだ。馬鹿なんだ。その程度の知能、頭(おつむ)しかしていないなら、私の弟子を名乗るな。

10. 今度、詳しく書くが、去年の 2022年11月29日に、東京の南大沢(みなみおおさわ)の東京都立(とりつ)大学の、キャンパスで、授業のあと、襲撃されて、殺されかかった、宮台真司(みただいしんじ、1959年-、64歳)教授は、私の知人だが、エホバの証人の男に殺されかかった。
  負傷した宮台真司氏

その男は、今年の2月に、首つり死体で、発見された。警察(警視庁捜査一課。いわゆる殺人課)が発表した。その前に、都立大周辺の監視カメラに写っている犯人に姿が、公開された。この男の、家は、エホバの証人の集会所だった。母親が熱心な信者だ。というこことは、この男が、組織命令で、宮台真司を、殺しに行ったのだ。
 宮台真司襲撃犯
そして、警察に追われて、画像のあるので、もう、逃げられない、と分かったので、組織決定で、その犯人も、首つり自殺と言うことにして、殺した。エホバの証人という組織は、こういうことまでする、狂気の団体だ。警察もすでに、十分に分かっていて、事件から、か月もたって、その男が首つり死(縊死、いし)したと、その4日後に、「犯人を発見」と発表した。全部、出来上がっている話だ。警察もグルなのだ。

宮台真司が、友人で同志の神保哲夫(じんぼてつお)のネット番組に出て、「警察は、証拠隠滅しましたね」までは、宮台自身が言った。 襲撃犯人のことについて、その考えや人物像や、犯行の動機などを、どこの報道機関も、その後、切、報道しなかった。
私が、ここまで、言っても、私のバカな弟子たちは、「それでも、その男が、エホバの証人の証拠は有りません。先生の妄想ですよ」と、いいやがった。私は激怒した。

そして、このエホバの証人が、私の家の玄関の外にまで、布教活動のふりをして、先月、9月、やって来たのだ。「エホバの証人です。パンフレットを差し上げます」と、言った。私は、玄関の格子(こうし)越しに、「要らない」と答えた。 私が書いた、その男の似顔絵を、ここの重たい掲示板に、今度、貼り付けてやる。 私は、「あなたは、私の家だけに、わざわざ来たのか。他の人たちはいないようだ」と、詰問すべきだった。

その男は、10年前から、私を突け狙っている、まるで、南米人のような顔の、ぎょろぎょろ目の、きたない三角の登山帽を被(かぶ)った男だ。これまでに、窃盗とかの、多くの犯罪をやってきた顔だ。

いいですか。宮台事件で、警察は、この3月に、「被疑者死亡のまま、殺人容疑で、書類送検した」のである。「殺人容疑」と、警察は認定しているのだ。そして、それですべての捜査を終了した。これで終わり、とした。   この事実を、本気で考えなさい。まだ、私に向かって、私の弟子たちでさえ、「先生、証拠が有りません」と、言う気か。

私、副島隆彦が、殺されて初めて、「ああ、本当だったんだ。先生の言っていたことは」となる。・・・・・世の中、こんなものだ。  事件や争いや、闘いの当事者でない、傍観者たちは、何ごとも、このように考える。物事(ものごと)を真剣に考える、当事者の立場になって見て、考える、という脳(頭、思考力)をしていない。だから、こいつらは、ただの一般人として終わるのだ。深い人生の知恵を身に着ける、知識人としての認定を受けない。ただの鈍感(どんかん)人間だ。

よくも、 こういう頭の大(たい)して良くないの、ばっかりが、私の周りに集まったものだ、と、先生である、私は、最近は悲観している。

宮台真司は、中学高校を、麻布学園(東京の中心の有栖川のある名門校)の、部活は空手部にいた。だから、宮台は、刃物で突かれた時(185センチの長身の男だ)、咄嗟(とっさ)に両手で、自分の首を守った。だから両腕に、たくさん切り傷が残った。首と喉(のど)を突かれていたら、致命傷だ。それを宮台は、自分で防いだのだ。偉かった。

この件は、また、書きます。本当に不愉快だ。警察までグルになって、反体制、反(はん)安倍晋三、統一教会を批判する者たちは、今も、私も、命を狙われれているのだ。公安(=政治)警察の中に、今も、統一教会の信者たちが、相当数、潜り込んでいる。

彼らを、摘発、排除できないのなら、日本の政治警察 は、危険な集団だ、ということだ。
さすがに、法務省=最高検の検察庁は、違う。法務省=検察庁(同じ役所だ)は、自分たちの内部の、高官たちの中にまでいる、統一教会(黒川弘務、くろかわひろむ。東京高検長だった。検事総長を狙った。安倍首相がが必死に動いた )たちを、、現在、次々に 摘発して、排除する自浄努力をしている際中(さいちゅう)だ。

私は、自分を守ることでは、常に、最高度の警戒心を持っている。だから、ここまで生きてこられた。 私の家の外の、道路の向こうの、鉄筋アパート(リゾート・何とか)に据え付けている2台の監視カメラで、公安警察は、私の日々の、映像記録を ずっと取っている。もう15年前からだ。このことを、ここの重たい掲示板に書いたのは、これが初めてだ。
私は、世の中から、そして、特に、私の本の読者たちから、ヘンな人だとなるべく思われないようにしようと、ずっと、あまり、泥臭い、生(なま)臭い、こういう自分に身近な危険な政治の話はしないようにしてきた。

それでも、もう、宮台事件が起きたから、そろそろ、私は、自分の防御(自分を守ること)のことも公表する。

その一方で、「もうそろそろ、私は死ぬ準備をする。十分生きた」と言いながら、同時に、心配しながら、自分の体の防御を考えている、私のことを、愚か者の弟子たちは、考えが一貫していないと考えるようだ。やっぱり馬鹿なんだ、こいつらは。

「大儀(たいぎ)の為(ため)に命を差し出す」ということと、日々、注意深く生きる、ということは矛盾しない。私のように、50年間、厳しい政治言論の中で、生きて来た人間は、自分を守る、ということを知っている。プロ(ウ)の修練(しゅうれん)と言うべきだ。

10. 私が、いつも、ふーらふーらと、そこらのジジイ(爺)と同じように、軽口(かるぐち)や冗談ばっかり言っている者だから、「この人は、優しい、いい人だ」ぐらいに思っている愚か者たちが、私の、すぐ身近に、いる。 馬鹿なんだ。自分の知能と、私の知能を全く、平等で、対等だと思っている。

「人間は、人権(じんけん)の取り扱いでは、平等だ。だが、人間は、知能と能力のおいては、決して平等ではない。大きな勘違(かんちが)いをするな。そこらの愚か者たちと、人間は、皆平等、ということない」 このことを、中心に、今年の年末には、出版する予定の、私の最新の中国本で書く。 このことを、死ぬほど苦労してきた、中国の知識人と、指導者たちが、真剣に考えている、という内容だ。

11.それから、私は、金融本の他に、ようやく、2年がかりで準備した、「私、副島隆彦の初めての、スピリチュ「ア」リズムとは何か 」の本を出す。乞うご期待だ。 自分は、スピリチュアリズム の人間だ」と、勝手に、己惚(うぬぼ)れている、特に、女たちに、向かって、私、副島隆彦が、大きな爆弾を投下する。

書名は、「自分だけを信じて生きる  エマーソンに学ぶ」 だ。 スピリチュアリズムは、決して、宗教ではない。ヘンな宗教団体に行くな。 自分だけを信じなさい。自分と、自分の霊魂(れいこん)との真剣な対話だけを通して、自分の生き方をしっかり持ちなさい。

スピリチュアルの思想を、1830年代に、打ち立てたのは、ラルフ・ワルド―・エマーソン(Ralph Waldo Emerson、1803-1882年、78歳で死)という、ハーヴァード大学の神学部を卒業して、自分自身もユニテリアン教会の牧師(パスタ―)もしたが、一切の儀式(リチュアル)を否定し、宗教家の説教を否定して、アメリカで初めての演説家として、ヨーロッパにまで、名を広めた、エマーソンだ。
環境保護運動から、ピッピ―運動のニューソートから、女性、被差別民救済から、あらゆる政治運動に思想の、穏(おだ)やかな実践者は、思想家のエマーソンだ。
 エマーソン
私、副島隆彦が、このことを、強力に説いて、日本で初めて、そこらの、ただの神懸(かみがか)かりの、恋愛占い、運勢占い、呪(まじな)い好きの、スピの女たちに、本当の、スピリチュアリズムは、どのように生まれたか、を、私が、書きます。

始め、私はスピの女性たちに遠慮して、「自分だけを信じること、これが、スピリチュアリズムの第1原理だ。エマーソンが打ち立てた」を、何とか、分かってもらおうと、柔らかいコトバ(ほとんど漢字がない文章。お勉強が、学校時代に出来なかった人たちへの遠慮)を使おうとした。これがうまく行かなかった。やっぱり、正面から、ぱかーんと、ある程度、難しいことを書かないといけない、と、ようやく、3か月前に分かった。

その前に、頭にスピが入っている皆さんは、一応、副島隆彦の本の読者なのだから、最新刊の「狂人日記。戦争を嫌(いや)がった大(だい)作家たち」 (祥伝社=しょうでんしゃ=新書)を読みなさい。この本は、普通の読書人で、4時間で読めます。しっかり読みたい人は、8時間で読めます。 私は、速読(そくどく)と言うのは、無い。無いものは無い、と分かっている。

人よりも早く、本が読めるから、自分は頭がいい人間だ、などど考えるのは、愚か者だ。人間は、じっくりと本を読んで、自分の頭で、何度も考え直して、そして、ようやく賢い人間になる。本は、ゆっくりとしっかりと読みなさい。この本は、読ぬ値する、と判断したら、じっくりと線を引っ張って、自分で注意書きをしながら、読みなさい。  副島隆彦の本の読み方は、重要だ、と言う個所に、線を引いて、囲(かこ)って、ぐりぐり巻きにして、ぺージを折って、汚(よご)しながら、自分の血肉(ちにく)にします。

もう少し、時間と体調に余裕が出たら、また、「YouTube ユーチューブの 逆転の 活用法」で、世界の名曲を歌っている世界水神の歌手たち(ヤシーム・レヴィとか、エディット・ピアフ)と、エンリオ・モリコーネの映画音楽や、 それから、オペラ界 の永遠の最高のディーヴァ devaの マリア・カラスのこととか、“イタリアの至宝(トレジュア)”と呼ばれる、すばらしい 女優モニカ・ベルッチ論(ソフィア・ローレンの跡継)」とか、やります。待っていてください。     副島隆彦拝