[3549]『原日本書紀』はどのように修正されたのか

守谷健二 投稿日:2023/05/13 11:02

大宝三年(703年)、粟田真人の遣唐使は、唐朝に日本国(壬申の乱で勝利した天武の王朝)の由来(歴史)を説明した。しかし『原日本書紀』では、唐朝を納得させることが出来なかったのです。
 修正する必要があった。「万世一系」の天皇の歴史でも、唐朝が納得できるように書き換えることに迫られていた。
 最新の正史である『隋書』倭国伝(640年成立)を徹底的に研究した。『隋書』
倭国(筑紫王朝)伝を、そっくり近畿大和王朝の歴史として移し替えることにしたのです。

 『原日本書紀』は、倭国(筑紫王朝)と日本国(大和王朝)の歴史を、一つの王朝に融合させて作った(歴史)です。日本には元々大和王朝しか存在しなかった、と。
 中国正史『隋書』の倭国(筑紫王朝)記事を、日本国(大和王朝)のものに組み替えることは必然の作業でした。
 『古事記』が推古天皇(在位592~628)で終わっているのは、隋朝の存亡に対応しています。『隋書』倭国伝を日本国の歴史として取り込むことが、『原日本書紀』修正のキモ、核心でした。

 その際、困ったことがあったのです。推古天皇は、女帝です。それに対し、その当時の倭国王は、明らかに男性と書かれているのです。この倭国王は、姓を阿毎(アマ・天・海人)、名を多利思北孤(タリシホコ)と書かれおり、開皇二十年(推古八年)と、大業三年(推古十五年)に遣唐使を派遣しています。

『隋書』倭国伝より

その朝貢使曰く、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興とす。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来たって仏法を学ぶ」と。その国書(倭国王が隋の皇帝に送った)に曰く「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、筒がなきや、云々。」と。
 帝、これを視て悦ばず。鴻臚卿にいっていわく、「蛮夷の書、無礼なる者あり、復た以て聞するなかれ」と。

 歴史好きな人には、思い当たるでしょう。この倭国王・多利思北孤は聖徳太子のモデルであることが。推古天皇は女性ですから、そのまま倭国王(男性)に当てはめることが出来なかった。そこで特別な太子(聖徳太子)が創り上げられたのです。
聖徳太子の和名は『上宮の厩戸豊聴耳命(うへつのみやのうまやとのとよみみのみこと)』と言います、勘の鋭い人はお解りでしょう。イエス・キリスト誕生説話です。キリスト教は、六世紀の中国に到達していたのです。

 『古事記』の編者は、聖徳太子を、イエス・キリストをモデルに創れと命じているのです。嗚呼!